草分け中

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(麒麟) 月へ上る者とは?

  なんとも先が読めない展開で面白かった。

 

  秀吉が挨拶に来た時や光秀が平蜘蛛を秀吉に見せた時、更に信長にそれを見せた時、秀吉による弟?の殺害、菊丸との別れ、次々とハラハラする場面が続いた。

 

  一貫しているのは光秀の純粋な心とブレない姿勢、堂々とした振る舞い。これをもって秀吉を震え上がらせ、信長に物申し、更に時の天皇からの信用も勝ち得た。それで通じれば良いが、案の定、次回予告では信長に叩かれて額から血を流していた。

 

  何せ信長はブレる。合戦に勝ったり信玄や謙信などライバルの死去もあり日本で最高の地位と権力を得るようになったが、そのための教養は持ち合わせてないしビジョンもない。何とか近衛卿と近づきたく鼓の打ち方を覚えたりはしたが、逆に持ち合わせていないものの方が目立った。これではブレる。

 

  その後は家康の正室と嫡男に死罪を命じたり、「第六天魔王」と名乗ったり、横暴さがますます際立っていくようになる。この暴走を止めるべく光秀が本能寺の変を起こす展開になると読めたが、まだ2月7日の最終回までには半月もある。この間にもいろいろあるのだろう。

 

  そもそも信長と光秀は、最初は腐敗した旧政権を倒すことで共闘した仲だった。今日気付いたことだが、室町幕府政所の摂津晴門を演じた片岡鶴太郎は「軍師官兵衛」や「太平記」でも腐敗した旧側の権力者の役だった。現代ドラマでも賄賂や癒着など袖の下を求める議員や中間中抜き業者を演じさせたらよく似合うだろう。

 

  残念ながら現代にはまだ腐敗を正そうと立ち上がる人物は出ていないが、もし現れるとしたら、信長のような破天荒さや光秀のような例え貧乏に甘んじてもほこりを失わず教養を身につけ、やがて認められて才能を開花させたりするのだろう。

 

  ただ大事なのは、旧側は腐り朽ちていたから倒しやすいものの、倒した後にどうするかである。贅沢に興じて暴政を行うようでは旧側の腐敗と変わらなくなる。源義仲の先例と同じで、入京後の暴れっぷりは長く都人に恨まれ続けていた。

 

  おそらく麒麟の光秀は、単なる主君への裏切りではなく、月へ上って(出世して)下界に降りて来なくなった(下々の生活を見なくなった)信長への天誅として立ち上がる感じに描かれるのだろう。

 

 

  

(麒麟) 分断工作が進んでゆく

  細部まで精巧な安土城の大広間の真ん中でたった2人会話する映画の一作品を観ているかのようだった。

 

  タイトルは「消えた平蜘蛛の謎」。

 

  自分が知っている話では、大和信貴山城の天守閣の最上階で、織田信長が欲していた天下の名物、平蜘蛛の茶釜を胸に抱いた松永久秀が大量の火薬を使って派手に爆死したという。

 

  しかし「麒麟」の制作者は城の焼け跡をくまなく探して今回のようにたくさんの茶器の破片を拾い集めたはずと考えた。さらに今作では爆発ではなくただ城を焼いたと描き、確かにその方が現実的で焼いただけなら平蜘蛛も見つかる。それが見つからないなら、事前に誰かに手渡したのではないか? その相手が光秀だと。

 

  現代でも、出世する人は同時に嫉妬を受ける。光秀も、側室を持たず賄賂も行わず、領民から善政で慕われた上に信長の右腕となっているのなら、出世コースからはずれた久秀や、これからもっと出世しようとする秀吉、他にも多くの人から嫉妬を受ける。久々に登場した帰蝶もたぶん仲睦まじい光秀夫婦を嫉妬している。

 

  帰蝶は美濃に引っ込んだが、久秀は平蜘蛛を使って信長と光秀を分断しようと罠を仕掛け、秀吉は自身の出世の邪魔となる光秀への信用がなくなるよう得意の諜報を使った。

 

  では光秀はどうするか? これらの罠や工作に気付いて、保身のためにライバルを蹴落とすのか。そこが他の富裕層と違うところで、仕えている主君の適性を冷静に見つめ考えてみる。果たして天下人として相応しいかどうか。相応しくなければ、“けしかけた”自分はどうするべきか? 

 

  もうすぐ最終回だが、ラストの本能寺に向けて、信長はますます討たれるべき暴君になり、秀吉はますます腹黒くなって、たぶん高松城水攻めで光秀に応援要請する話も罠のように描くし、正親町天皇もますます信長と光秀を分断させようとするし、そのような中で光秀は、主命に従って毛利攻めに向かうも地獄、参戦せず主命に背くも地獄となり、最悪の選択肢の中で叛乱を取ると描くのではないだろうか?

 

  

(麒麟) ブラック企業の中で1人だけ信頼できる重役

  「麒麟がくる」撮影がクランクアップしたらしい。光秀演じた長谷川博己も、信長演じた染谷将太も、今までと違う本能寺の変だという。

 

  最近私はヤフコメに3パターンの本能寺を推測して書き込んだところ多くの「いいね」が来た。1つは正親町天皇黒幕説。実は天皇が自分を評価してないことに気付いた信長と天皇との摩擦と。このパターンは本日の大河の冒頭でもう片鱗が出掛けて、信長は天皇を以後軽んじないよう嫡子信忠に家督を譲ることを朝廷に提案して手打ちした。

 

  2つめは諜報や工作等の活動が目立つ佐々木演じる秀吉の腹黒さから、備中水攻めに援軍を求める辺りから光秀がハメられるパターン。3つめは家康が割りとマトモに描かれているため、麒麟を呼ぶ人物とはこの人だと安土城での接待で気付いた光秀が共闘を密かに提案するパターン。これも本日菊丸が家康に「やはり信ずるに足るは明智様かと」というセリフで大いにあり得る。

 

  しかし、出来れば上記3つとは違う、自分には思いも及ばない展開を望むと結んだ。

 

  最も在り来たりな横暴な信長に立腹しての挙兵という形も、最近何かと信長が無茶振りしては光秀ら家臣が諌めたりする話があるので最終回には持ってこないと思う。

 

   史実は永遠に謎とはいえ、この大河の特色は「麒麟がくる平和な世」に結びつけるため、光秀なりの考え方を披露しての実行となると思う。それが現代に問う意味とは?

 

  一昔前まで高度成長経済の立役者たる経営者たちを織田信長の合理性に被せてヨイショする書き方が多く、堺屋太一長谷川慶太郎などがそうだと思うが、現代はそうではなくなった。

 

  イケイケだけで、労働時間や環境、育休などを顧みないといけない。・・ちょっと脱線しかけたが、ブラック企業の中で唯一信頼できる立派な重役が1人いなくなってしまう寂しい流れではなく、辞めずに腹をくくって社長室に向かうパターンになると期待したい。

 

 

    

世界はスポーツで1つにならない(7つになる)

 今年、はたして東京オリンピックを開催するのだろうか? 国内には中止の声が多いし、欧米とも新型コロナウィルスの変異種の話題で予選どころではない。中国も再びコロナが深刻化してきた。

 

 紅白を無観客で行ったようにオリンピックも形を変えて静かに開催する方向でIOCJOCも検討していると思うが、ビジネスとして儲けられなければ継続は困難だろう。

 

 そもそもオリンピックなんて不要では?という意見もある。スポーツはそれぞれに世界大会があって、いろんなスポーツを1ヶ所に集めて開催する必要はないと。筆者も最近この意見に賛成する気になった。

 

 以前から、世界各国で得意とするスポーツが異なり、人気や普及面など変わらないことが気になっていたが、その謎の解明で少し気付いたことがあったからだ。

 

 例えばインドはヨガ、中国は太極拳、韓国はテコンドー、日本は「~道(柔道や剣道、華道、茶道など)」、アメリカはアメリカンフットボールや野球、バスケットボール、ヨーロッパはサッカーやテニス、中東は・・、スポーツとはいえないが断食や食事面の~肉は食べないなど戒律が厳しい。中国は椅子以外の四つ足は何でも食べると言われるが。

 

 つまり、中国にイスラム教は流行らないし、逆に中東に太極拳は普及しないことと同様、世界各地で得意とするスポーツが異なる中で公平公正な競技には程遠いのではないかと思う。ではどうしてこの違いが生じるのか?

 

 脳を含む身体の得意とする部分が世界各地で違うからだと思う。今や明確になってきたが、中国や韓国に欧米風の理性を求めても無理であり、中国は全体主義、韓国は国民感情国際法よりも重要視する。スポーツの中では待ち時間が長く、その間に脳で様々な思いをめぐらす野球は、日米と韓国で盛んだが、ヨーロッパや中東、インドには普及しない。

 

 東アジアの中では欧米にも理解を示し、哲学や思想など抽象用語を創った日本は、韓国のような感情剥き出しの殴り合い蹴り合うテコンドーよりも、柔道や剣道、華道、茶道など何でも「~道」に高め整え、「~流」と意味や方法を固定しようとする。これらに大脳新皮質が関係する。

 

 アメリカで盛り上がる「スーパーボウル」のアメリカンフットボール、大リーグやバスケットボールもそうだが、フォーメーションを組み立て、サインを出し合い、短い時間に何度も交代選手を出し入れする。これらは思考などを司る前頭葉の活用である。

 

 そして、ヨーロッパでは、テニスやサッカー、バレーボールなど共通して、相手の逆を突いてボールを打ち込むスポーツが盛んで、これは脳の側頭葉の霊感(インスピレーション)を使っている。

 

 更に東進して中東、アラブ諸国はどうか? 盛んなスポーツは聞かないものの、定刻にメッカの方角に両膝をついて礼拝したり、断食をしたり、肉によっては絶対に食べない厳しい戒律がある。これは脳だけの話ではなく、消化器官を含む関与である。

 

 それではインドはどうか? ~のポーズで有名なヨガがある。健康のためだけでなく、宇宙との一体感を得る。中国の太極拳との違いは何か? ヨガには動きがないポーズのみで、太極拳にはゆっくりだが手足の動きや移動がある。

 

 以上の話に関連して2つ画像をアップする。まずはメインサイト(状態の7段階モデル)のトップページ。

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 次に新たに作成した各スポーツ編。要するに世界各地で機能する身体部位は異なり、日米は脳が主だが、韓国は情、中東や中国は器官なのである。

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世界の機能とスポーツ

 これらのことから、長い間謎だった下記のプロセスを説く話がなぜ日米の人に限られるのかも見えてきた。

 

補足としてもう1つスライドを載せる。
 

今まで哲学史の解明にしか役立たなかった感があったが、徐々に他に有用性が見えてきたと思いたい。
 

(麒麟がくる) 菊丸はなぜ丹波に詳しいのか? 

 今日の大河も分かりやすかったが、一点だけ分かりにくいところがあった。

 

 表題にもある通り、三河者のはずの菊丸がなぜ丹波の地理や内情に詳しいのか? そもそも彼を演じる岡村隆志は春先の深夜ラジオでの舌禍で一旦ほとんどの番組から離れかけ、この大河でももう出て来ないと思われた。

 

 しかし、先日の突然の結婚発表によって好感度が復活し、その流れでまた大河に出演した、と考えるなら大した役割ではない、駒や東庵ら架空の潤滑油的な脇役に並ぶと見るのが自然だ。

 

 そして前回では、三方ヶ原での合戦後に突如Uターンした武田信玄が重病か死去したとの重要情報を駿河から発信したが、この時も当時そういう草の者は何人かいたはずで、その1人に過ぎないはずだった。

 

 ここでふと思い出したことがある。1年前、この大河を紹介するNHKのサイトで菊丸があの本能寺の変にも絡むという記事だ。今回の復帰とともに、再び当初の案に戻って菊丸がもっと深い謎をもつ存在に昇格したのではないだろうか?

 

 初回からなぜ菊丸がおとなしく縄にかけられて逃げもせず美濃国の捕虜の中に入って、光秀に助けられることを待っていたのか不可解だった。

 

 家康の生母、お大の方の再婚相手の水野家に仕える忍者という設定も、その後にあまりにも各地をブラブラしていることからどこまで水野家どっぷりなのか疑わしい。

 つまり、はじめから光秀に目をつけているどこかの勢力の一員が菊丸なのではないか? 今回の丹波偵察に菊丸が勧められた理由もそう考えれば納得がいく。

 

 しかし、もしそれが本当なら、主人公たる光秀があまりにも流されていて主体的に考えて悩んで歩いていないことになる。

 

  たかが菊丸の話だが、できれば架空の脇役たちの露出をもう少し控え目にし、光秀がいかに働き、悩み、そして裏切ったのか、を前面に出すべきである。

 

 

 

  

 

 

 

(麒麟) 身勝手な主に仕える家臣の器?

  分かりやすい回だった。

 

  信玄がUターンしたため信長包囲網が形成できず、陰謀の核だった宇治の足利義昭は降伏した。更に信玄死去の情報から織田軍は朝倉浅井攻めに全軍を投入してついに滅ぼした。

 

  もはや京の周囲に敵はなくなり、信長は朝廷に言上して天正改元し、次に奈良東大寺蘭奢待を所望した。今井宗久は"山の頂点に立ったから見たい景色もある"と述べ、正親町天皇は"変わり者よのう"と半ば呆れた。

 

  光秀は真面目なので、まだどんな世の中を作るのか定まっていない今は"山の頂点ではなく中腹のようなもの"と言った。今回の最後は幕府の重鎮だった三淵藤秀の更迭に困惑する話になったが、藤秀は「主(あるじ)とはそういうもの」と述べ、どう仕えるかが家臣の器(うつわ)と話した。前の主の義昭とは全く違うタイプの信長だからこの更迭は仕方ないとは確かに思う。

 

  全体的に「麒麟がくる」の信長は特に国家観を持たず、ハイレベルな英雄とは描かれていない。その意味では現首相の菅義偉氏も著書で国家観がないと吐露し、先日は王貞治杉良太郎などのレジェンドたちと高級ステーキを食したりして近く見える。

 

  そんな信長を見て戸惑う光秀がこの先どう裏切るのか? 菅総理も今のままではたぶん裏切られる。真面目な国民ほど見離す。いや見離すしかなくなる。

 

  少し前までの世の中だったら、身勝手な社長(会長)に仕える幹部社員が格好よく映っているものだった。朝遅く出社し、社員たちがずらりと揃ってお辞儀し、愛人がおり、朝令暮改に社内が振り回された。

 

  しかし、国力が劣り、議員が劣り、他国から馬鹿にされ始めた現在、愚かな主に仕えることこそ家臣の器なんて言える状況ではなくなってきたように思う。まだ大きな動きは見えないものの、そのうち本能寺の変のようなことは各地で起きることだろう。

 

  例えば、いまNHKの番組で日本の科学が政策の誤りで深刻な人材不足と資金不足に陥っている話を放映しているが、これも小泉竹中から安倍菅に至る愚かな考え方が原因である。

 

  短期間で成果を求める新自由主義的な競争重視が本当に良かったのか? 結果は明らかである。ならば竹中を放逐し、新しい人材に入れ替え、新しい考え方を公式に採用し、部分的には大きな政府にしなければならない。

 

 

 

 

  

「2020年はコロナ元年(マスク元年)」なのか?

  当初から集団免疫策をとっていたスウェーデン今になってその失敗を認めた。政府ではなくスウェーデン国王自らが口火を切り、死者数の多さを詫びた。これからは国中がマスクを着用するようになるのだろう。今もマスクを拒否している国はブラジル一国だけになったという。

 

 これをもって集団免疫は幻想だったという声も出てきた。「日本人はコロナにかかりにくい」「BCG注射を行う国の感染率は低く免疫ができている」等の意見は少なくなるのだろうか?

 

 ところで去年の年末の話題といえば元日産会長のゴーン氏がジェット機で逃亡した件一色で、まさか翌年に別の話題でほとんど聞かなくなるなんて誰もが思わなかった。新型コロナは今年の開始早々に聞こえ始め、春頃から騒がれ、安倍首相以外の誰もが大きなマスクを着用するようになり、夏にはお盆の帰省もできなくなり、withコロナの生活が始まった。秋には諸映画の撤退でスッカラカンになった映画館の空席を埋めるかたちで「鬼滅の刃・劇場版」が大ヒットして世界中を驚かせた。

 

 「来年2020年はこんな年になる」という動画が恥ずかしくもなくまだ残っていて見たりするが、占い師も研究者も皆はずれている。

 

 そんな中で唯一当たっているのではないか(※注:今年と言うより約15年単位の大きな変化という点である)という話を思い出した。他ならぬこのブログである。え? そんな記事あったっけ?

 

 実はPC版の右側にあるリンク先の上部には第一回の「東京30年周期説」や「大正・昭和の15年周期説」等の周期説を紹介しているが、この話に触れずに今年を終える訳にいかないと今気づいたのである。

 

 「東京30年周期説」の要旨はリンクを見ていただくとして、元記事は1989年刊行の本なので1990年頃の副都心再開発で終わっている。それから30年後がまさに2020年で、私自身これは第2回東京オリンピックのことだと思っていたが、フタを開けてみればオリンピックは中止で来年も開催しにくい。ただ新型コロナ対策で小池都知事自ら音頭をとってwithコロナの街づくりや生活様式に変わった。

 

 「大正・昭和の15年周期説」は作家の故山本七平氏が唱え、よく見れば上の30年とかぶっている。

 1915年から1930年までが「大正デモクラシーの時代」

 1930年から1945年までが「軍国主義の時代」

 1945年から1960年までが「戦後民主主義の時代」

 1960年から1975年までが「高度成長の時代」

 1975年から1990年までが「低成長の時代」

 では1990年以降を私なりに補足すると、まさに平成の30年間のことになる。山本氏は上記15年周期を人間に例えると、少年期から活発な行動の青年期、そして落ち着いた中高年期のようだと述べて亡くなったが、平成の30年はまるで老年期のようにデフレによる不景気が続いた。

 

 それでは令和からの15年はどんな年になるのか? 実はどんな15年かはその当時は誰もよく分からず、終わってから振り返ると見えるものだという。ただ次の15年の芽は前の15年の間に気付かれないうちに潜んでいるらしい。

 

 更に重要なことは、これら周期説がなぜ起こるか? なぜ年単位できちんと変わるのか? その原因を科学的にも哲学的にも明らかにできず、ただ人間が自由に行動し、考え、直し、努め、あるいは諦め、等の中で周期が繰り返されていることである。

 

 いったい人間の自由意志とは何なのだろう?と思う。自由意志で欲して買いたくなって注文した商品なのに、配達業者が車で運ぶ荷物数はエリア毎に日々一定しているし、自由意志で出掛けているのに交通事故の数や毎年の死者数、県別順位なども一定している。ある時は極端に大きくなったり、逆に小さすぎたりゼロになったり、1位になった翌年にビリになったり等はない。

 

 確率や統計の見方からは不思議ではないのかもしれないし、従事している人たちも疑問を抱くことなく倉庫内での仕分けや運搬に勤(いそ)しんでいる。おそらく、受験勉強の秀才たちもホワイトカラーたちも何も思っていないのだろう。

 

 自由意志のはずなのに周期説が起きたり、毎年の量や数が一定している事実を踏まえ、自由意志を許さないナチスソ連、中国のような全体主義になれという訳ではない。たぶん余計に辻褄が合わなくなるだけだろう。自由社会の方が「神の見えざる手(アダム・スミス)」や「理性の狡知(ヘーゲル)」が関わっている。

 

 周期説の有効な活用策としては、どうしようもなく絶望的な幕末に「徳川の世だって北条足利のように終わることがあり得る」(頼山陽の「日本外史」)で元気づけられて全国の志士たちが立ち上がったように、このウェーブを味方につけて不可能を可能にすることではないだろうか? そうすれば、永遠に未解決のままと絶望させられている少子化や高い税率と低い賃金、国の借金等もやっと解決すると思う。

 

  悪く言えばノリが悪い人だが、大勢(たいせい)に流されず遠く高いところから見つめ直し、好機を捉えて動くことしかない。標題の話に戻ると、しばらくはマスクを着け続けなければならず、高齢の親たちの元にも帰省できない年が続くとしても、それは永遠ではなく、ワクチンの普及次第か、遅くとも15年以内には終わる。