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(麒麟) 人生の中間点を迎えた光秀

  最後の嗚咽は、今まで信じてきた理想が崩壊したことへの悔しさからか?

 

  長い人生、そんなことはよくある。人は思い通りには動かない。まして愚かな上司は尚さら正道とは逆方向に動く。

 

  光秀の中でそんな展開になってしまう予感は以前からあった。義昭は元僧侶で初めから理想的な武家の棟梁には見えなかった。今も有能な幹部もなく魅力に乏し過ぎる幕府とは違い、織田勢は才能優先で合戦に強く財力もある。また信長がよく通う御所の正親町天皇にも何とも言えない高いカリスマ性があった。

 

  そして剣術で直接対決するシーン。俄(にわ)か仕込みであまりに弱すぎる義昭に失望し、また妻子を人質に京に留め置く義昭のセコい指示にも本気で怒りを覚えていた。

 

  様々な伏線の最後に決別という結果があり、次回は反信長に立ち上がった義昭のところへ信玄死去による甲斐への帰還という報告が入り、急激に強運が信長の方につく。

 

  それはともかく、私ももう誰にも期待していないでいる。理想的な会社も政治家も学者もいない。期待するから裏切られる。全く信じないという訳ではなく、全面的に安心して依拠するほどの環境や英雄もいないことにある時から気付いたのだ。

 

  光秀も気付いた。将軍とて弱い人間、信長にも短所が目立つ。天皇を仰ぐ信長の気持ちはジカに会ったことで少しは理解できたが、理想的な世の中心になるには無理がある。

 

  取り敢えず近江坂本城は完成した。これからは城主として自ら有能な人材を揃え、領民を労(いたわ)り、ルールを整え、理想的な社会をここにつくる。

 

  そうやって一時的には落ち着くのだが、最後には本能寺の変を起こす。今回の義昭との決別とはまた違う流れで。

 

 

  

 

  

 

  

 

  

(新仮説)「容易な対象/困難な対象」理論

 菅首相の支持率が下がり続けている。主な原因はコロナ対策が政府として不十分なこととされるが、ネット上では「目力がない」「死んだ魚の目」「ドイツからも輝きがないと言われた」等、散々である。

 

 あえて弁護すると、“死んだ魚の目”になるのは、新型コロナや経済の復活という非常に難しい問題に国家の首相として真正面から取り組むからであって、もし逃げたり避けたりしていればこんな顔にはならない。たくさんの情報が集まってその難しさが官房長官時代からよく分かっているからだと。我々もこんな目になった経験が一度か二度はあったのではないだろうか? 一生懸命生きていれば…。

 

 と、どこかに書き込もうかと思っていたらいきなり「ガースーです」という挨拶がきて、完全に不支持が支持を上回った。ネット上には「何をニタニタしている!」「ふざけるな!」と怒りの声が殺到した。専門家は世論の空気を読み間違えたと指摘している。人々は何を求めているのか? 根拠のないハッタリではないと思う。知恵を集めた実効性ある政策と分かりやすく安心感を与える説明であり、外国の評判が高い大統領や首相は誰もがそれができている。

 

 やはり菅首相は不適任だったのか? 首相の周辺も含めていったい何が足りないのか? それらを本ブログ(及びメインサイト)なりの視点で考えていたところ、あるキーワードが浮かんだ。

 

 「容易な対象と困難な対象」である。容易な対象とは比較的容易と言われるように多くの人ができる、こちらの言い方でいえば“過程を進ませやすい”対象である。コップで水を飲む、本を読む等。逆に困難な対象の方は過程を進ませにくく、例えば大震災からの復興やブラック企業の従業員など。

 

 ここで言う過程とは、“何々ができる〇段階”や“何々が完成する〇段階”というように紹介されるプロセス理論で、昔から様々な人が自分なりに公開しているが、私は約30年前に多くの説をつなげてみたことがある(※1)。

 

 すると、より大きな過程と各段階同士の関係が明らかになる表ができあがった(※2)。納得のいくものになるまで約1年かかり、過程説の他に心理学やサイバネティックス、哲学なども加わり、用語の選択には類語辞典を使用した。

 

 そして、14個の状態と7つの心機能、及びその関係にアルファベット26文字を使い、状態内部の要素にギリシャ文字24文字を使用した(※3)。詳細は主サイト記載済みだが、ここでは下記3つのスライドのみで、上記の新仮説を述べていきたい。

 

 まず、物理的な対象κ(カッパ)を前に、容易な場合は誰しも過程を進ませられるので、κ(Xi~Xi)と書き、連用形iが意識の赴くまま続く。逆に困難な対象は、例えばκ(XuCa)と書けば、まさに大震災直後の現場で茫然自失となっており、いちおう生きてはいるので終止形uと、何もできないでいる未然形aを使う。他にκ(FuJa)と書けば、何かしないととは思いつつも適切な方法が分からないままでいる時である。

 

 新型コロナ罹災時の国家運営という対象も同じだが、では何をすべきかといえば、過去に過程を進ませることができた前例を参考にすることがまず1つ。旧来の側近や参謀ではなく、新たに人材を活用する。昔でいえば旗本の息子の若い勝海舟を米国留学させて幕府要人に出世させたり、現代でも台湾で天才オードリー・タンを抜擢したり等。そうすれば、jaはjuとなり、過程後半のLiへと進められるだろう。

 

 もう1つすべきことはビジュアル面である。その対象はκと区別してτ(タウ)を用いる。容易な場合は官僚がつくった当たり障りのない文章を棒読みするτ(Ji)だが、自分の言葉で話してなく良い印象を与えられないのでこれは困難な部類に入るだろう。τ(CuFa)と書いて見るだけに留まる終止形uと意識的には未然形aを使う。

 

 コロナも恐ろしいが、第二次大戦時は狂気のヒトラー総統以下ヘンテコな格好と仕草をするナチスドイツがヨーロッパを荒らしまくりもっと怖かった。そんな中、イギリスへの上陸を阻止するとともに国民へは後に有名になった“Vサイン”やウィットに富んだユーモアで元気づけたチャーチル首相こそ、菅首相が参考にすべき先例だろう。

 

※1

1.各プロセス説の総合 from reigan_s

 

※2

 
※3

 

「商品/道具」論とMMT

  20年以上も上向かない日本経済について、「それは今までの経済学が間違っている(※1)からであり、最近話題のMMT(現代貨幣理論)に則った政策を行わないと(※2)大変なことになる」と警鐘を鳴らしている記事をよく目にする。

 

  中でも若い人たちに人気の中野剛志氏のインタビュー記事が基礎理論から政策論まで幅広く網羅して分かりやすいのでここに引用する。そもそも当ブログ(主サイト「状態の7段階モデル」)も今までの経済学とはスミスの“経済人”以外はあまり合っていなかったが、MMT(が主張する理論というより中野氏によれば事実)は重なるところがある。

 

※1)例えば「先に物々交換があって後から貨幣が生まれた」という説には何ら証拠はなく、むしろ古代メソポタミアでは帳簿上の貨幣が既に存在していた。

 

※2)例えば「国の借金をこれ以上増やしてはならない」と言って公共投資を渋っているが、中野氏によれば日本だけ世界とは違う計算をしているらしい。

 

>中野剛志さんに「MMTっておかしくないですか?」と聞いてみた

 

https://diamond.jp/articles/-/230690?page=3

 

>中野 イングランド銀行の季刊誌(2014年春号)の解説がわかりやすいので、それに基づいてご紹介しましょう。その解説は、「商品貨幣論が根強いけれども、それは間違ってます。信用貨幣論が正しいんですよ」という趣旨で書かれているのですが、そこに「今日、貨幣とは負債の一形式であり、経済において交換手段として受け入れられた特殊な負債である」という文章があります。要するに、貨幣は「特殊な借用証書」だというのが「信用貨幣論」なんです。

 

――ちょっと、何を言っているのかわかりません……。

 

中野 ですよね……。その季刊誌では、「信用貨幣論」の意味をわかりやすく説明するために「ロビンソン・クルーソーとフライデーしかいない孤島」という架空の事例を挙げています。

 その孤島で「ロビンソン・クルーソーが春に野苺を収穫してフライデーに渡す。その代わりに、フライデーは秋に獲った魚をクルーソーに渡すことを約束する」とします。この場合、春の時点で、クルーソーがフライデーに対して「信用」を与えるとともに、フライデーにはクルーソーに対する「負債」が生じています。そして、秋になって、フライデーがクルーソーに魚を渡した時点で、フライデーの「負債」は消滅するわけです。

 しかし、口約束では証拠が残りませんよね? そこで、約束をしたときに、フライデーがクルーソーに対して、「秋に魚を渡す」という「借用証書」を渡します。この「借用証書」が貨幣だというわけです。


――たしかに、クルーソーは、秋になってその「借用証書」をフライデーに渡せば、魚と交換できますから“貨幣っぽい”ような気はしますが、あくまでもクルーソーとフライデーの間での取り決めというだけではないですか?

 

中野 では、話を少しアレンジしましょう。

 この島には、クルーソーとフライデー以外に、火打ち石をもっているサンデーという第三者がいるとします。そして、サンデーが「フライデーは約束を守るヤツだ」と思っているとともに、「魚が欲しい」と思っていれば、クルーソーはフライデーからもらった「秋に魚を渡す」という「借用証書」をサンデーに渡して、火打ち石を手に入れることができるでしょう。

 さらに、この三人に加えて、干し肉を持っているマンデーという人もいたとします。そして、マンデーも「フライデーは約束を守るヤツだ」「魚が欲しい」と思っているとすれば、今度は、サンデーが例の「借用証書」をマンデーに渡して干し肉を手に入れることができるでしょう。

 その結果、フライデーは「秋に魚を渡す」という債務を、マンデーに対して負ったということになります。そして、秋になってマンデーがフライデーから魚を手に入れれば、フライデーの「借用証書(負債)」は破棄されるわけです。


――なるほど。たしかに、そのように「借用証書」が流通すれば、貨幣と言えそうですね。イングランド銀行の季刊誌が「貨幣とは負債の一形式である」と書いている意味が少しわかってきました。

 

(引用終わり)

 

  この後に本記事では、銀行が(返済能力がある)法人にお金を貸す「信用創造」を行うと、そこに貨幣が生まれると続く。

 

  当メインサイト「状態の7段階モデル」では、対象を資産的対象と資材的対象の2面に分けたあと、資産的対象に格差ができると不足感をもたらし、不足感を埋めるために商品というもっと格差のある資産的対象を得ると説く一方で、資材的対象に偏りができると逆に余分な感覚をもたらし、爪切りで爪を切るように道具というもっと偏った資材的対象と対応する。

 

  つまり商品と道具を対称的なセットで捉えるため、従来の道具観(人は道具を使う動物である等)や商品観(マルクス等)とは一線を画す。

 

  そして、銀行が返済能力のある法人にお金を貸すことはそこに格差をつくることであり、法人にとっては返済という不足感を生じさせ、その不足感を埋める商品こそ貨幣と思われる。借用証書そのものが貨幣という言い方とは若干違う。

 

  中野氏は若い頃にイギリスのエディンバラで勉強されているが、おそらくヒュームの故郷だからであり、私もヒューム好きなので共通する部分を感じる。しかし、日本の多くの学者同様にただ輸入して翻訳、解説するだけであり、新しい理論を広げたりはしない。

 

  MMTが主張する「インフレにならない程度まで公共投資にどんどんお金を使え」を政策に活かすためには、独自のアレンジを加えるより、海外直輸入のままの方が良いと判断したからだろう。

 

  ただ私のようにアレンジすると、法人に限らず支払い能力の高い個人へスポンサーになることも貨幣を発生させると捉えられる。それもアリなのではないだろうか? 昔、王様が芸術家のパトロンになった華やかな時代のように。

 

  黒板アートを画像検索するといつも驚かされる通り、埋もれている才能は多いとは思うが、それでも普通程度の能力を持つ大多数の人を食べさせられる公共投資、今後は減災や老朽化した建築物の解体や再建築が主になると思うが、そういった方向にもっとお金をかけるべきという中野氏の主張には賛同する。

 

  最近、天敵の竹中平蔵氏も日和ったのか朝ナマでMMT寄りになった記事もあったが、それでも大手マスコミやアベノミクスを推進したお歴々はMMTに否定的で、かといって有効な政策もなく、数字の改竄もバレてしまっている。

 

(麒麟) 久秀の母が勧めた易はただの占いではない

 今回の「焼討ちの代償」内に、16日のブログタイトル「信長と義昭とは水と油」という言葉が入っていた。解釈はほぼ同じだが、私は独自の易理論からそれを導いた。

 

reigan3941.hatenadiary.com

 

 易といえば、今回の松永久秀が光秀や順慶と会談に臨む前に易を立てるシーンから始まったことが印象的だった。易を始めたきっかけは、勝手気ままな振る舞いが多く叱ってくれる人がいない息子を案じた母親が勧めたかららしい。

 

 少し補足すると、信長が家康に久秀を紹介する際に「この老人は常人では成せないことを3つもしておる。主家(三好家)を乗っ取り、将軍(足利義輝)を誅殺し、そして奈良の大仏を焼いた。全く油断がならぬ」という有名な話がある。

 

 それはともかく、ここで明智光秀は易でどんな結果が出たのか笑みを浮かべて聞こうとする。私も興味がありますと順慶も応じたが、久秀は敵に教えられるかと言い、光秀のみ室外に招き、結局は順慶との一時的な和議に応じる。

 

 おそらく易では、思い通りにやって勝つとは出てなかったのだろう。実際の様々な織田と幕府、大和の状況を鑑みてもこの易の結果が合っていたのかもしれない。ただ光秀の表情が会話の中とはいえ易と聞いて少し馬鹿にしたような笑みを浮かべたので、視聴者の多くは非現実的な占いだと思い込んだと思う。

 

 まだ実験科学が進んでいなかった当時は、東洋の五行思想(木火土金水)こそが科学であり、易も孔子が頼ったように知的にも結構奥深いものだった。

 

 戦後の日本が焼け野原から奇跡的な猛スピードの復興を遂げたのも、歴代自民党総理が“影の指南役”に頭(こうべ)を垂れて教えを乞うたからだった。その人こそ「安岡正篤」という。あまりにオオモノ過ぎて、あの細木数子が若い頃に強引に妻になろうとしたほどだった。

 

 私も自説完成後は多くの本を手放してしまったが、彼の代表作「易と人生哲学(竹井出版)」はまだ手元に置いており、時々その中の64卦を確認している。他の易経関連の本よりも安岡氏なりの解釈や順番で再整理してあるところがいい。

 

 例を挙げれば、同人誌という言葉でも使われる「天火同人」という卦は“社会生活が進んで似た者が集まる”とあり、しばらく後にくる「山風蟲(こ)」という卦は成功してゆとりができた後にまるで「木皿に虫がくって」くる感じを表し、“易の配列は憎らしいほど機微に通じ、勘どころを押さえた、いたれり尽くせりのもの”と述べている。

 

 そのような易を久秀に母親が勧めたのであって、決していい加減な占いではないのである。ただ64卦の全てを修め活用することは困難なため、私は八卦を物質の三状態と結び付けて並べ変え(下記スライド参照)、冒頭の話に戻るが「信長:義昭=水:油」という大河の作者と同じ見方に至った。

 

 次回はますますこの対立が激化する。水と油を掻き混ぜても一緒にならず違いが明らかになるだけであり、久秀や本ブログが述べる通り信長と光秀とはしっくりくる。それもあと数年間ではあるが。

 

 天→風→水→山(麒麟の理想→浪人生活→織田家→叡山)ときて、次はいよいよ地の卦だが、安岡氏は「乾坤一擲(けんこんいってき)」の中の乾と坤こそ天と地の本質だと述べ、64卦の最初に持ってきている。天が理想を掲げることであれば、地はそれがある程度実現したことだと思う。ならば天下がおさまってきて安土城を築城する頃だろう。光秀もナンバー2として重きをなす。

 

 その上で、摩擦の雷から本能寺の火へと展開する。

 
  ※今回久秀が立てた易に何の卦が出たか敢えて推測すると、上記の説の順番や久秀の信長と義昭とは水と油評から考えて「水地比」だと思う。“比べるから、好きな者は互いに親しんで助け合い、嫌な者を排斥する。だから感情が主になってどうしても偏向しやすい”  安岡氏は人情の機微を捉えた面白い卦だと紹介している。

 

“近代化=合理化”ではなくなった時代

 一昔前までは、合理的な判断なら全て良かった。高度成長経済を推進する立役者たちは、戦国時代に鉄砲を駆使して西洋風の甲冑を着こなした織田信長の合理的なところと被らせ、反伝統こそ合理的(※)とばかりイケイケドンドンだった。

 

マックス・ウェーバーも自身の父子葛藤から伝統と合理の対立図式を作り上げたが、その経緯は見ずに世の社会科学はウェーバーの「近代化=合理化」だけを持ち上げていた。

 

 流れが変わったのはやはり1985年のプラザ合意で1ドル=360円の固定相場制から変動相場制になった時である。もはや自国の輸出だけを押し付けられなくなり、合理的判断とは他者(各国)の都合を鑑みた意味合いに変わった。

 

 1990年代以降、グローバル化という名の国際化が進む中で他国と仲良く共存していくためには当然ではある。

 

 しかし、最近はまた合理的判断が揺らいでいる。GoToの是非、皇女の是非、アメリカでも先の選挙結果を尊重するか、それとも不正疑惑の解明を優先すべきか。そもそも哲学者カントも理性の行き着く先は二律背反に陥るとしていた。

 

 そんな中、中国は全人会議でも堂々と反欧米を掲げている。近代理性発祥の地の英国が理不尽なアヘン戦争を仕掛け、欧州で二度の大戦を起こし、今また新型コロナを抑えられずにいると。では代替案は何かというと膨大な数の監視カメラとAIによる管理国家だが、実態は大半の国民が不自由と生活苦に喘ぎ、少数民族は言語も文化も絶滅しかけている。中華風共産主義も問題が多い。

 

 最後にダボス会議創始者が提唱するグレートリセットに触れなければならないが、多くのレビューにある通りポストコロナとして言っていることは特に間違っていない。ただこのリセットという言葉の使い方に希望よりは絶望を感じる。まるで全てを灰にしてしまうかのようだ。

 

 一昔前の合理的に匹敵するほどの強力なキーワードにリセットはあり得ない。他に何か有るように思うが、それはツイッターやユーチューブから出てくるものなのか、マスコミが広めるものなのか、いずれにせよこれだけ悪化が進んでいるなら良いものだと浮上すると思う。

 

 

 

(こもりびと) 弱肉強食の犠牲者たち

麒麟がくる」の感想を書いてると、同じNHKで気になるタイトルのドラマが放送されていた。

 

「こもりびと」

 

  引きこもりのことである。全国で100万ともそれ以上とも言われ、私の周囲や親族にも多い。

 

  松山ケンイチ演じる主人公の雅夫は、武田鉄矢演じる元教師の父親の次男で、幼少期から優秀な兄と比べられ、受験や就職に失敗して実家の部屋に引きこもって食って寝るだけの生活を送るようになり、嘆いた父親から「生きてる価値なし」と言われてハンドルネームをカチナシオとつけるようになる。

 

  オチが気になって最後まで見たが、少しモヤモヤは残った。おそらく親の重圧がなくなった雅夫はどこか遠い所で暮らすことになるだろうと思うことにした。

 

  ちなみに最近読んだ記事「結婚できない男性、共通点は1つだけ?幼少期の親との関係が重要か?」も関連が深い。


結婚できない男性、共通点は1つだけ?幼少期の「親との関係」が重要か - ライブドアニュース

 

  あと、先進国の中で上位にあると言われる日本の自殺事情。上の話と関連づければマウントを無駄に取り合う社会の犠牲者だと思う。いかにワシやタカ、サメのような資質を持って生まれても雛や幼魚の段階では中小クラスに食べられる通り、弱肉強食ピラミッドの実態は少し見方を変えなければならない。

 

 結論を急ごう。まず上記引用記事の中高年女性が結婚のカギは個人的体験から言えば真実である。国がカネかけてでも推進すべきポイントと思う。あと付け加えれば易や占いを使って来年こそとか自信を与えるとなお良い。

 

  それから本来優秀な資質の持ち主が引きこもらず浮かばれる社会だが、それは宗教でもその真逆の物質科学や唯物論的共産社会主義でもない。かといって資本主義でもなかった。全く新しい何かしかないと皆が分かればこちらが主張する話を少しは聞いてくれるようになるかもしれない。

 

  何も変わらなければまだまだ増え続ける。

 

 

(麒麟) タブーに切り込んだ叡山攻め

今回の「麒麟がくる」。

 

 小朝演じる延暦寺の座主・覚恕のラスボス感が見事だった。調べると早い段階でキャスティングされていたそうだが、当時の酒や女に溺れた宗教の頂点とはああいうものだろうなと、パッと見で納得させられる。

 

 従来の叡山焼き討ちといえば、単に織田信長が横暴だった、あるいは合理的頭脳の持ち主だから古い伝統とは相容れなかったという平板な見方が一般的だったが、ここに醜い座主ボスとその実兄で高貴な雰囲気の正親町天皇の2人が加わってくると、物語全体が一気に平面的ではなく立体化したような感じになる。そう、戦国時代は武将の悪さだけが目立っていて、平安、鎌倉、南北朝までの皇室の話が見えなくなり、更に宗教法人の話もまるでタブーのように大きく触れられなくなっていた。武将だけが平和を乱す悪者ではなく、当時はどこも無秩序で荒れており、それを正し直すのは誰かという話なのだ。

 

 そんな新しい構成に持ってきた明確な意図はどこかに紹介してあると思うが、私自身は以前、車で午前中に高野山、午後に比叡山をドライブして回ったことを思い出して別に感じるものがあった。歴史を単に小説や映画で知るのではなく、実地に古戦場やお城に足を踏み入れると全然思っていたこととは違うもので、比叡山も車で走っても結構な高さで時間がかかった。

 

 そんな高い山に皇族出身の者が足で登る。島流しとはまた違った苦痛を伴う左遷でもある。ただ眺めはいい。京の都を眼下に見下ろし、京の人々も東方を仰ぎ見る。覚恕の屈折した支配欲もよりいっそう分かる。

 

 そして信長や光秀も、タイトルに冠された通りこの魔物が棲む山を前に、まるで魔物退治か鬼狩りのようなつもりで臨んだことだろう。

 

 あ、そういえば「山」で気付いたが、やはり「麒麟がくる」も前回のブログ同様、八卦順(=物質の三状態)で展開しており、

 

 1、天(麒麟がくる平和な世に憧れる)

 2、風(美濃を追われて風来坊になる)

 3、水(信長と義昭を混ぜ合わようとする)

 4、山(伝統的権威の比叡山との戦い)

 

 になるのだろう。前回はドラゴンボールガンダムウルトラマン、聖書を例に挙げたが、今回は剣豪・宮本武蔵の名著「五輪の書」を挙げる。まだ作っていないし全巻読んだ訳ではないが、たぶん「鬼滅の刃」も当てはまると思う。

 

 
心は空なり。