草分け中

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「商品/道具」論とMMT

  20年以上も上向かない日本経済について、「それは今までの経済学が間違っている(※1)からであり、最近話題のMMT(現代貨幣理論)に則った政策を行わないと(※2)大変なことになる」と警鐘を鳴らしている記事をよく目にする。

 

  中でも若い人たちに人気の中野剛志氏のインタビュー記事が基礎理論から政策論まで幅広く網羅して分かりやすいのでここに引用する。そもそも当ブログ(主サイト「状態の7段階モデル」)も今までの経済学とはスミスの“経済人”以外はあまり合っていなかったが、MMT(が主張する理論というより中野氏によれば事実)は重なるところがある。

 

※1)例えば「先に物々交換があって後から貨幣が生まれた」という説には何ら証拠はなく、むしろ古代メソポタミアでは帳簿上の貨幣が既に存在していた。

 

※2)例えば「国の借金をこれ以上増やしてはならない」と言って公共投資を渋っているが、中野氏によれば日本だけ世界とは違う計算をしているらしい。

 

>中野剛志さんに「MMTっておかしくないですか?」と聞いてみた

 

https://diamond.jp/articles/-/230690?page=3

 

>中野 イングランド銀行の季刊誌(2014年春号)の解説がわかりやすいので、それに基づいてご紹介しましょう。その解説は、「商品貨幣論が根強いけれども、それは間違ってます。信用貨幣論が正しいんですよ」という趣旨で書かれているのですが、そこに「今日、貨幣とは負債の一形式であり、経済において交換手段として受け入れられた特殊な負債である」という文章があります。要するに、貨幣は「特殊な借用証書」だというのが「信用貨幣論」なんです。

 

――ちょっと、何を言っているのかわかりません……。

 

中野 ですよね……。その季刊誌では、「信用貨幣論」の意味をわかりやすく説明するために「ロビンソン・クルーソーとフライデーしかいない孤島」という架空の事例を挙げています。

 その孤島で「ロビンソン・クルーソーが春に野苺を収穫してフライデーに渡す。その代わりに、フライデーは秋に獲った魚をクルーソーに渡すことを約束する」とします。この場合、春の時点で、クルーソーがフライデーに対して「信用」を与えるとともに、フライデーにはクルーソーに対する「負債」が生じています。そして、秋になって、フライデーがクルーソーに魚を渡した時点で、フライデーの「負債」は消滅するわけです。

 しかし、口約束では証拠が残りませんよね? そこで、約束をしたときに、フライデーがクルーソーに対して、「秋に魚を渡す」という「借用証書」を渡します。この「借用証書」が貨幣だというわけです。


――たしかに、クルーソーは、秋になってその「借用証書」をフライデーに渡せば、魚と交換できますから“貨幣っぽい”ような気はしますが、あくまでもクルーソーとフライデーの間での取り決めというだけではないですか?

 

中野 では、話を少しアレンジしましょう。

 この島には、クルーソーとフライデー以外に、火打ち石をもっているサンデーという第三者がいるとします。そして、サンデーが「フライデーは約束を守るヤツだ」と思っているとともに、「魚が欲しい」と思っていれば、クルーソーはフライデーからもらった「秋に魚を渡す」という「借用証書」をサンデーに渡して、火打ち石を手に入れることができるでしょう。

 さらに、この三人に加えて、干し肉を持っているマンデーという人もいたとします。そして、マンデーも「フライデーは約束を守るヤツだ」「魚が欲しい」と思っているとすれば、今度は、サンデーが例の「借用証書」をマンデーに渡して干し肉を手に入れることができるでしょう。

 その結果、フライデーは「秋に魚を渡す」という債務を、マンデーに対して負ったということになります。そして、秋になってマンデーがフライデーから魚を手に入れれば、フライデーの「借用証書(負債)」は破棄されるわけです。


――なるほど。たしかに、そのように「借用証書」が流通すれば、貨幣と言えそうですね。イングランド銀行の季刊誌が「貨幣とは負債の一形式である」と書いている意味が少しわかってきました。

 

(引用終わり)

 

  この後に本記事では、銀行が(返済能力がある)法人にお金を貸す「信用創造」を行うと、そこに貨幣が生まれると続く。

 

  当メインサイト「状態の7段階モデル」では、対象を資産的対象と資材的対象の2面に分けたあと、資産的対象に格差ができると不足感をもたらし、不足感を埋めるために商品というもっと格差のある資産的対象を得ると説く一方で、資材的対象に偏りができると逆に余分な感覚をもたらし、爪切りで爪を切るように道具というもっと偏った資材的対象と対応する。

 

  つまり商品と道具を対称的なセットで捉えるため、従来の道具観(人は道具を使う動物である等)や商品観(マルクス等)とは一線を画す。

 

  そして、銀行が返済能力のある法人にお金を貸すことはそこに格差をつくることであり、法人にとっては返済という不足感を生じさせ、その不足感を埋める商品こそ貨幣と思われる。借用証書そのものが貨幣という言い方とは若干違う。

 

  中野氏は若い頃にイギリスのエディンバラで勉強されているが、おそらくヒュームの故郷だからであり、私もヒューム好きなので共通する部分を感じる。しかし、日本の多くの学者同様にただ輸入して翻訳、解説するだけであり、新しい理論を広げたりはしない。

 

  MMTが主張する「インフレにならない程度まで公共投資にどんどんお金を使え」を政策に活かすためには、独自のアレンジを加えるより、海外直輸入のままの方が良いと判断したからだろう。

 

  ただ私のようにアレンジすると、法人に限らず支払い能力の高い個人へスポンサーになることも貨幣を発生させると捉えられる。それもアリなのではないだろうか? 昔、王様が芸術家のパトロンになった華やかな時代のように。

 

  黒板アートを画像検索するといつも驚かされる通り、埋もれている才能は多いとは思うが、それでも普通程度の能力を持つ大多数の人を食べさせられる公共投資、今後は減災や老朽化した建築物の解体や再建築が主になると思うが、そういった方向にもっとお金をかけるべきという中野氏の主張には賛同する。

 

  最近、天敵の竹中平蔵氏も日和ったのか朝ナマでMMT寄りになった記事もあったが、それでも大手マスコミやアベノミクスを推進したお歴々はMMTに否定的で、かといって有効な政策もなく、数字の改竄もバレてしまっている。