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(麒麟) タブーに切り込んだ叡山攻め

今回の「麒麟がくる」。

 

 小朝演じる延暦寺の座主・覚恕のラスボス感が見事だった。調べると早い段階でキャスティングされていたそうだが、当時の酒や女に溺れた宗教の頂点とはああいうものだろうなと、パッと見で納得させられる。

 

 従来の叡山焼き討ちといえば、単に織田信長が横暴だった、あるいは合理的頭脳の持ち主だから古い伝統とは相容れなかったという平板な見方が一般的だったが、ここに醜い座主ボスとその実兄で高貴な雰囲気の正親町天皇の2人が加わってくると、物語全体が一気に平面的ではなく立体化したような感じになる。そう、戦国時代は武将の悪さだけが目立っていて、平安、鎌倉、南北朝までの皇室の話が見えなくなり、更に宗教法人の話もまるでタブーのように大きく触れられなくなっていた。武将だけが平和を乱す悪者ではなく、当時はどこも無秩序で荒れており、それを正し直すのは誰かという話なのだ。

 

 そんな新しい構成に持ってきた明確な意図はどこかに紹介してあると思うが、私自身は以前、車で午前中に高野山、午後に比叡山をドライブして回ったことを思い出して別に感じるものがあった。歴史を単に小説や映画で知るのではなく、実地に古戦場やお城に足を踏み入れると全然思っていたこととは違うもので、比叡山も車で走っても結構な高さで時間がかかった。

 

 そんな高い山に皇族出身の者が足で登る。島流しとはまた違った苦痛を伴う左遷でもある。ただ眺めはいい。京の都を眼下に見下ろし、京の人々も東方を仰ぎ見る。覚恕の屈折した支配欲もよりいっそう分かる。

 

 そして信長や光秀も、タイトルに冠された通りこの魔物が棲む山を前に、まるで魔物退治か鬼狩りのようなつもりで臨んだことだろう。

 

 あ、そういえば「山」で気付いたが、やはり「麒麟がくる」も前回のブログ同様、八卦順(=物質の三状態)で展開しており、

 

 1、天(麒麟がくる平和な世に憧れる)

 2、風(美濃を追われて風来坊になる)

 3、水(信長と義昭を混ぜ合わようとする)

 4、山(伝統的権威の比叡山との戦い)

 

 になるのだろう。前回はドラゴンボールガンダムウルトラマン、聖書を例に挙げたが、今回は剣豪・宮本武蔵の名著「五輪の書」を挙げる。まだ作っていないし全巻読んだ訳ではないが、たぶん「鬼滅の刃」も当てはまると思う。

 

 
心は空なり。