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天海(=光秀?)の兜の前立は麒麟!

  江戸時代初期に活躍した幕府のブレーン、南光坊天海が実は光秀だったという説がある。

 

  日光に明智平という地名があったり、2代将軍秀忠と3代将軍家光の名前を合わせると光秀が入っている、そもそも家康の前に現れた時に2人がまるで旧知であったかのように笑いあった等、その根拠はたくさんあるようだが、いちおう都市伝説の1つとされ、出身は東北の芦名家であるとされている。

 

  しかし、戦乱の世を終わらせて江戸幕府を中心に平和な世をつくりたい意志には並々ならぬものがあり、例えば鬼門である東北の方角に上野寛永寺を建てたり、その先の水戸に御三家の1人を据えたり、裏鬼門に当たる南西にも寺を建て、更に増上寺や北斗七星、様々な知識を駆使して都市計画に当たっている。その熱意がどこからくるのか? 単に芦名家の出だけでは分からず、謎とされる前半生に光秀としてひたすら麒麟が来る世を目指し奔走していたとすると納得がいく。

 

  つまり、本能寺の変織田信長を討った光秀は山崎の合戦で敗れても小栗栖で死なず、秀吉存命中は身を隠し、家康の世になって再びカムバックしたのである。

 

  さて、これも面白い話だが、天海は僧なのに兜を所有し、かつ誰よりも大きく派手な兜で、その前立てには“麒麟”が付いているという。


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  ただここで疑問が湧いた。果たして明智光秀は史実の上でも生前「麒麟」「麒麟」と言っていたのか? そこは原作者の想像の部分であり、執筆する時にこの天海の兜を見て「麒麟がくる」という大河を書いたのではないか? ・・と考えるほうが自然だが、どうもこの大河のラストは老人風にメイクした風間家康と長谷川光秀(天海)のツーショットで締め括られるシーンが脳内に見えている。