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(デカルトで①) 禅の公案を考える

 先週の記事でデカルトの二元論(精神と物体)を扱ったが、この事から禅で有名な公案を見直してみたい。

 

 倩女離魂、那箇か是れ真底

 (せいじょりこん、なこかこれしんてい)

 

 「離魂記」の話から、優れた禅僧・五祖法演が「どちらの倩女が本物か?」と質問した公案。筆者は何かの本で知ったが、ネットでもいろいろなサイトが扱っている。例えばこちら。

 


第11話 是れ一か是れ二か - 法話図書館 佐藤俊明のちょっといい話

 

 さて、“近代哲学の父”デカルトは、二元論のうちの物質の方には「延長」があり、精神の方にはそれがないと説いた。

 

 倩女の話のタイトルは「離魂記」となっており、この字だけから推測すると肉体から魂が離れることになるが、内容をきちんと読むと、実家で寝込んでいる倩女も、蜀の地で夫と暮らし子供2人を産んだ倩女もどちらも肉体があるため、タイトル名の「離魂記」は間違っていると結論づけられる。

 

 上記サイトも正しく「体が分裂した話」と述べているが、そうだとすると、よく知られているドッペルゲンガー現象ではないことになる。ウィキペディアではエミリー・サジェや芥川龍之介などの事例が紹介されているが、映像的な話であって、分身にも肉体があるという話ではない。

 

 そんな体が分裂する事例があるのか? あったとして何故それが起きるのか? 調べているが今のところ分からない。(※1)

 

 ただ筆者自身には思い当たる節があり、若い頃、親の反対を押し切って上京する前にまだ揉めている頃、頂き物のマタタビ酒を「美味い美味い」と飲んでぐっすり寝てスッキリと起きた朝、夜中に外で歩いている姿を見たという話があった(※2)。足音つきで。上京後、仕事が決まって銀行で口座をつくる際に同じ名前で既に口座があると言われたため、画面の住所を見た際、確かに千葉県某市で(生年月日まで同じだから係員が見せたのかは覚えてなく定かではない)登録されている。すぐに「あの夜に出て行った自分か?」となんとなく思った。同姓同名の他人がいると考えれば何でもない話だが、あまりない名前なので可能性は低く、どこかの誰かが自分をカタるとしても当時の三和銀行ではそう簡単に口座はつくれないはずだ。

 

 倩女もそうで、自分の代わりを誰かに頼む説は、実家の親相手には不可能であり、また相手の男が自分と似た女性を間違えて連れて行く可能性もあり得ない。ということはどちらも肉体のある倩女なのだ。

 

 法演は正答を明らかにしてなく、一般には「本当の自分は何をしたいのか」という類の話で扱われている。お寺の若い僧たちに「このまま寺で励むか実家に戻ることを選ぶか」で問い質したのかもしれない。

 

 ただこれらのポイントを踏まえた上で筆者なりに思うベストな状況は、やはり分身してしまうことである。片方の分身は親の勧める相手と結婚し、もう片方の分身は交際中の恋人と結婚する。

 

 男女一対の結婚だからそれが不可能なだけで、いわゆる“ウィンウィンの関係”というものは誰かが得をして誰かが損をするのではなく、誰もがハッピーになるようにする。それを目指し、そうならなければ詫び、機会は保ち、希望は消えないようにする。

 

※1 漫画では「ドラゴンボール」の神とピッコロ大魔王、「封神演義」の太公望と王天君などが代表的。ドッペルゲンガーと違い、両者が合体するとパワーアップしている。

 

※2 徘徊して帰宅しただけか、もしくはよく似た他人が出歩いていたか、とも・・・そういうことにしておこう。