草分け中

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(晴天を衝け) 大変動が起こる少し前の動き

  初回より二回の方が面白かった。

 

  30分間は少年時代の話。前回に多かった紹介が少なく、冒頭にまず定番の悪役であるお代官2人が接待の席で人足を6月に100人だせとお上からの指示を伝え、繁忙期だから少しでも減らしてほしいとの市郎右衛門の求めに対し「不服と申すか!」と膳を蹴飛ばして怒りまくった。

 

  最後に登場するペリーが黒船で来てからは日本も精神的に少しは近代化したものの、現代でもトップからの無理筋な指示を少しの反論も許さず強いてくる中間管理職はよく見掛ける。

 

  そんな大人の世界とは一線を画して、ある意味子供な部分をずっと持ち続けたからこそ渋沢栄一は前代未聞の産業家になったとも思われた。まだ明治は令和と違って隙だらけだが、現代も隙が多いユーチューブやヴォーカロイドの業界にはヒカキンやヨルシカなどの大物が出てくる。

 

  結局、村の男たちは昼は人足、夜は藍の刈り入れ、更に蚕の繭作りの時期とも重なる中で睡眠時間を削ってやり抜く。何人か死者が出てもおかしくないがドラマではそこは描かなかった。筆者も祖父の養蚕に携わったことがあるので懐かしい光景だった。

 

  そういえば和久井映見が働きながら歌い始め、皆も一緒に歌い出した描写があったが、これは田んぼでも草津温泉でも各地でよく見掛ける。日本では普通のことだが、明治時代に考古学の調査(大森貝塚など)で来日したエドワード・モースには「働きながら歌うなんて西洋では全く見られない!」と驚いていた。

 

  旧約聖書の創世記によると、アダムとイブはヘビに騙されて神が禁じていた木の実を食べたためエデンの園を追放されて働かなければならなくなり、以来「労働は苦役」と捉えられており、日本のように楽しく歌うことに最初は驚き、しかし聖書から離れて(相対視して)よく考えると納得して感心したようだ。

 

  そして3つの作業ともやっと完了した後、父市郎右衛門の前に、息子栄一たちが獅子舞を踊る光景が映った。「勝手な事をしおって!」とまたゲンコツを振るうところだが、周りの村人たちが皆喜んでいるのでそれが出来ない。父自ら一緒に踊ってみせ、村中が踊って疲れを吹き飛ばしたことできれいなオチとなった。本来勝手なはずの行動も皆を喜ばせれば水に流される好例と言える。

 

  さて、残り15分間は青年となった栄一や慶喜の話。清(中国)が英国に敗れ、日本では百姓でも町道場で剣術が奨励されるようになった話が出てくる。次に27人も子を設けながら跡継ぎに恵まれない12代将軍家慶の養子となった慶喜

 

  確か江戸幕府初期に家康から家光までのブレーンとなり、都市計画にも風水をフル活用して関わった天海僧正(光秀との噂あり)は、御三家の1つ水戸は鬼門にあたるため、もし水戸から将軍を出せば終わるぞと言い遺した話があり、実際に慶喜は最後の将軍となった。

 

  この話も200年近く経った当時まで残っていたはずだが、それでも徳川の世がまさか終わるはずがないと思い無視されたのだろう。

 

  しかし、武芸に長けた武士に代わって、高い志を持った志士が生まれ始めた中で、頼山陽が著した幕末のベストセラー「日本外史」で足利氏や織田氏と同列に徳川氏も編集したため、「徳川幕府とて絶対ではない」と目覚める人が増えてきて、聡明な慶喜による消極性とも絡んで明治維新は成し遂げられた。

 

  現代も絶対や磐石と思われている何かが急に崩壊して終わることはあり得るし、逆に健全な円環的革命を行わないと、外国に侵略されたりするリスクが高まる。新しい人物(身分を問わない)や新しい知識(所得が増える経済学や少子化が解決する哲学など)を見つけ、広め、支援することこそ急務ではないだろうか?

 

 

 

  

 

  

 

「コロナ禍の自助?」と「息子には公助?」

  自民党共和党も「自助」(英語ではselfhelp)が好きである。

 

  最近では菅総理が政権スタート時に「私のモットーは自助、共助、公助です!」と掲げた。先ずは自分でできることは自分で、それで厳しければ家族や友人が助け、公的機関は最後だという。いかにも叩き上げの自分は自助で総理になったかのように。(実は富豪の親のコネによる就職や自民党議員の秘書になったことも大きかったりする)

 

  20世紀前半の世界恐慌を救ったのはケインズ経済学のマクロ政策(公共投資)だったが、これをライバルのハイエクマルクス経済学と同じ計画主義だと批判し、物事は人間の計画通りにはいかないものだから政府の市場への介入は極力控え、自助を促して民間を活性化せよと唱えた。

 

  1980年代にはイギリス保守党サッチャーがこの考え方のもと衰えた経済を復活させたとし、アメリカ共和党レーガンも採用し、日本では自民党の中曽根政権が同じく国鉄民営化を進め、1980年代末にはソビエトが崩壊して冷戦が終わった。

 

  しかし、アメリカは双子の赤字を抱え、日本もバブルが崩壊し、世界各国とも1990年代末にはこの新自由主義多国籍企業を潤わせるだけで「トリクルダウン(雫が落ちる)」で下々も潤う訳ではないことに気付いてきた。

 

  ハイエクは1990年代には亡くなったが、ミルトン・フリードマンアメリカ経済の衰退を新自由主義の失敗と捉えず、むしろ全て私の言う通りにすれば成功したと言い張った。

 

  2000年代に入ると反新自由主義的な動きがイギリスやフランスをはじめ各地で起き、日本でも一時的に民主党が政権をとったりする中で、中国が台頭してきた。アメリカでは民主党オバマ政権がいわゆるオバマケアを唱え、中国にも甘い政策をとっていた。

 

  しかし、日本では野党政権が高速道路無料や各種補助、コンクリートから人へ等、無節操に国民受けしそうな政策を行うだけだと見透かされ、それが例え腐っていても自民党しかないとされ、第二次安倍政権は長期化し、新自由主義者竹中平蔵もテレビ討論では「トリクルダウンなんてないない」と言いつつ小泉政権時から菅政権時まで長く政府内に残り、貧民化する国民から「竹中平蔵つまみ出せ」と反発を招いている。

 

  経済に自助が必要であり、一定の経済成長なくして福祉予算を捻出できないこと、だからソビエトが崩壊したこともわかるが、どこか自助に胡散(うさん)臭いものを長年感じてきた。

 

  菅総理の息子が親のコネでマスコミ業界に就職したことや、その息子が元総務大臣の親の威光をバックに総務官僚を接待したこと、この問題が発覚する直前に知った父親の菅総理が慌てて犯人探しを命じたこと、週刊文春記者が公開した録音で言い逃れできず息子も官僚も降参したことを知り、ようやく何かが見えてきた。

 

  つまり、国民には自助を強いて、イコール公助を控える一方、身内へは共助、親のコネで大手企業に自助なく就職させ、息子の接待事案が発覚しそうになると権力で隠蔽しようと公助を使うのである。実際、大手メディアは報道を控えている。

 

  世界各国が給付金にあたる一時的措置を行い、アメリカでは3度も給付したのに、日本では昨年夏に渋々行っただけで二度と行わず、菅総理も「最後には生活保護がある」「踏ん張ってほしい」と発言、その間にも次々と長年自ら培ってきた料理人をはじめ各技能習熟者が店をたたんでいった。

 

  コロナという特殊な状況下でただ旧来通り自助を言うだけでは無能であり、息子には共助や公助をとる菅総理

 

  利益を独占して自分たちだけ甘い汁を吸うために、自助(イコール公助ゼロ)を言っていたのである。

 

  職場でもコロナで苦しいだろうが踏ん張れと言って給与を減らす一方、自分だけは会社のカネを不当に引き寄せている幹部がいたりする。菅総理もあんな感じだ。竹中平蔵もおいしいから政府に残ったりパソナにいたりする。

 

  国民はおとなしく我慢し、我慢できなければ自殺し、若い人は結婚を諦め、少子化が進む。「自助の正体とは利益独占」を知り、ふざけたこのやり方を止めることが先決。

 

  そして本来どうするべきか本気で考えれば、人のことが分かり、人の心が分かる誰かによる、利益独占ではなく正しく分配する大切さに気付くはずである。

 

  「麒麟がくる」で光秀が言っていたセリフである。若い頃の信長が沖で捕った魚を浜辺で人々に分けていたところを見て、「信長様は人のことが分かる、人の心が分かるお方だと思いました」と。

 

  「しかし信長様は変わられた」

 

  すると、「お前が変えたのじゃ」と光秀のせいにする信長。「お前が言う大きな国をつくれという話にワシが乗ったからじゃ」「天皇さえも跪(ひざまず)く男になってやる」

 

  本能寺の変を起こした光秀。信長による独占は止められた。

 

 

 

穏便を装いつつ欧米の顔色を伺う日本

 米ソ冷戦が終わった1990年代、世界の二極化構造に代わって次はどうなるか? 様々な意見が出る中で、田中宇(さかい)氏は「多極化する」と読んで発信し続けた。

 

  しばらくの期間、自分もそう思っていたが、2000年代から2010年代にかけて中国が急速に台頭すると、今度は多くの識者が米中二極化と言うようになった。

 

  しかし、一見そう見えても中国にはかつてのソ連のような手下の国々がない。北朝鮮やアフリカの一部に中国寄りの国はあっても西側諸国に匹敵するような力や思想はないし、技術力や経済力も低いレベルにある。

 

  それでは現状の世界をどう見るべきかというと、多極化のように最初は同等に相争う中で次第に何かが出来ていく、次第に役割や自生的な秩序っぽい序列ができていく、と思うようになった。

 

  一般人の間でも、動物の群れの中でも、雑草の間でもそれはできていく。ただ国同士の場合は人間同士のそれに近い展開が起きる。その詳細はみる人の知識や考え方によって若干異なるだろう。例えばドラえもんやコナンの少年探偵団のようにデブのイジメっ子と金持ちの家の子のすり寄り、ヒロインの女の子と中レベルの主人公という構図もあったりする。

 

  私は身体の各機能に誰かやどこかが当てはまって役割分担ができたり位置付けが絞られたりすると見ている。中国や韓国、日本の特性、欧米の特性、中東やインドの特性、それらをまとめたものがこれ↓

 


状態と機能の話 – 次段階の状態に展開させる機能とは何か⁉

 

  昨年夏からそう思うようになり、アメリカ大統領選挙の結果次第ではまた変わるかもと思いつつ、まだ見方は特に変わっていない。今後もアメリカは共和党民主党が野球の交代のように反転しあうし、ヨーロッパもテニスやサッカーのように相手の逆を突こうとするし、中東やインドも変わらない。

 

  中国は単純に反射的で、韓国は感情的で、日本は表面的には頭を使って安定を装いつつ、深い踏み込んだ議論は避けて、欧米の頭脳、特に前頭葉に任せ続ける。

 

  その原因は上記の通り国際関係の中でアジアと欧米の間に挟まれているためであり、ドラえもんに例えればジャイアンスネ夫たちと穏便に付き合いつつ、判断はジャイアンではなく出木杉に頼ったりする。

 

  そこを自覚しなければ、日本の中に賢く強いリーダーや新しい考え方はまだまだ出てこないと思う。

 

 

 

(麒麟) 現時点では最もよく考えた本能寺の変

  史上最も謎とされる謀叛のためいろいろな説があるが、主な説がどれも盛り込まれていた。

 

足利義昭黒幕説→ドラマではそこまでの実力なしとした。

正親町天皇黒幕説→互いに教養が深く交際はあったかもしれないが皇室は伝統的にあまり踏み込まないと見ている。

羽柴秀吉黒幕説→反転の早さから事前に知っていたと疑われて出てきた説だが、細川藤孝からのリークもなかなかあり得る。

・四国攻め原因説→近年の関連書類発見からドラマ冒頭で触れられたが確かに大きな原因にはなり得ない。

徳川家康関係説→共謀説や明智憲三郎が唱える説(畿内で家康討伐)等があるが、当時はまだまだそんなに大きな存在ではない。また陰謀や謀略が目立つのは老年になってからの家康のイメージである。

 

  結局このドラマが言いたかった本能寺の変は、「織田様と明智様との間には隙間風が吹いている」「謀叛を起こしても仕方ない」という“空気”が家臣の間にも京のあちこちでも存在しており、だから1万3千の軍勢がまとまって動き、乱の後に京の人々が避難することもなかったのである。

 

  「今までになかった本能寺」と出演者の何人かが言っていたが、私にはそんなに違和感を覚えない及第点をつけられる構成だった。染谷将太演じる織田信長の立ち回りには99点を与えたいほど迫力があった。

 

  残り1点は「敦盛の舞」を演じなかったからで、ちょうど享年49歳なので“人間50年”が特によく似合い、“滅せぬ者のあるべきか”と言って切腹すべきではあるが、そうすると主役を食ってしまうので控えたのだろう。

 

  そしてラスト。肝心の最後の決戦である秀吉との「山崎の合戦」は省かれた。この戦は一般にあまりに早く引き返した秀吉軍の登場に驚いて光秀が敗れたと言われているが、戦術的には西から来る大軍を京都から迎え撃つに当たってわざと大軍が山と川に挟まれて細くなるこの地を選んだ知的にも面白い要素があった。すると当然、どちらが先に天王山を押さえるかが勝敗の鍵を握り、光秀も秀吉&官兵衛もその重要性から先を争った。

 

  結局先に押さえた秀吉軍が山崎の合戦を制して、この故事から以後も“天王山”が使われるようになった。ドラマ最後の解説で触れてほしい話だった。

 

  敗れた光秀は京都と宇治の間にある小栗栖(おぐるす)で領民の竹槍に刺されて亡くなった。実際その地を訪ねたり、学校で絵画にしたこともあった。(※川中島の合戦や蒙古襲来絵巻も描いたことがあるし訪ねたこともある)

 

  山崎の合戦だけでなく小栗栖のシーンも省かれたのも、光秀を逆臣にはしたくないからと思われ、更に駒のセリフから当時確かにあった光秀生存説が飛び出し、生き延びていた本人が市場の中を素顔を晒して歩いていたり、馬に乗って駆けていくシーンで締め括られた。

 

  そこまで描くなら、いっそ山中で僧侶か修験者の格好で暮らし、何度も書いた通り天海となって再び世に現れ、徳川家康とともに江戸時代を切り拓くところまで描いてほしかった。

 

  家来のうち秀満は琵琶湖を渡って逃げた伝説があり、利三の血筋からは後に春日の局となるお福が家康から直接の指示で3代将軍予定の孫、竹千代(家光)の乳母となる。逆賊の家から何故という声もあったが光秀=天海説を知れば納得がいく。

 

  ただあまり冒険もできないから匂わせる程度にしたのだろう。

 

  光秀はあくまで補佐役に徹する忠臣であり、だから有名な愛宕山での歌、「時は今 雨がしたしる五月かな」も土岐氏の血筋である明智氏が天下を治めると解釈されるからドラマでは省いた。お御籤を引いたら2回大凶が出て3回目でやっと吉が出て本能寺に向かった話も計算高い光秀とは程遠いから省いた。

 

  伊呂波太夫に言った「ワシは必ず麒麟を連れてくる」が光秀最後のセリフだった。

 

  丸顔の染谷将太を信長役に選んだキャスティングも、確かな演技力だけでなく、最初の海の沖から小舟に乗って現れるシーンから朝日が出てくる瞬間を視聴者に植え付けるためだった。桶狭間で勝った後も太陽とともに描かれた。それがここ数回、「月」や「夜」「闇」といったキーワードが登場し、信長が太陽ではなくなった描き方に変わった。このままでは麒麟が来ない。

 

  まずは第六天魔王とも自称した信長を倒し、恐怖の闇夜を終わらせる。6月2日早朝の成功で夜から朝に変わった。そして明るい昼間の疾走。覇王信長への謀叛成功とは絶望ではなく希望だとしたいドラマだった。

 


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(既述)天海の冑の前立ては麒麟

 

 

  

 

 

メインサイトのタイトル変更

    試行錯誤中のタイトル名だが、今回新たに「状態と機能の話」に変更した。

 

    この2つでセットなので今のところ良いと思う。

 

  まず状態という言葉だが、“◯◯タイプ”や“~座は◯◯な性格”という固定に昔から違和感があり、むしろ「~な状態」とした方が変更の余地がある。ある分野(対象)に対してB型のように「不真面目な(または未熟な)状態」ならば、やがてA型のように「真面目な(習熟した)」状態に変わり得る。

 

  筑摩書房「命題コレクション社会学」で知った話だが、晩年のパーソンズも状態という言葉に関心を持ったらしい。途中経過でもよいから詳細を知りたいものである。

 

  次に機能という言葉、こちらの方がよく使われ、機械だけでなく人間にも脳をはじめ様々な機能の働きが知られている。精神面では心理学者ユングの主著「タイプ論」にも心理機能という言葉が出てくるが、一般には“性格”の方が広まっており、心理機能はあまり重視されていない。

 

  私はユングの師匠筋のフロイトや先輩のアドラーを含め7つの心機能にまとめた。

 

  (状態の方は哲学や経済学、社会学の大家をまとめた)

 

  その7つの機能が関与して人間の状態を変えていく。どんな状態にも変えられるかというと個人差があり限界もあるが、その点で“心機能”と言うよりは実は“身機能”と言った方が正しい。実際に生きて動いているのは身機能の機能で、その働きで変化したり現れた現象が“状態”である。

 

  だから7つの身機能を良くすれば状態も良くなる。体のトレーニングや頭のトレーニング、休息や食事、環境や着衣、交際も含め。

 

  更に後半では各身機能同士の裏の法則に踏み込み、ゆくゆくは循環型経済につながっていく。資源の乱掘や投棄による環境破壊がないだけでなく、知的にも政治的にも循環がある。

 

  その全体を知れば社会制度設計にも貢献できると思う。現状では誰も新しい大系などまっぴらと思っている人が多いようだが。

 

 


状態と機能の話 – 次段階の状態に展開させる機能とは何か⁉

 

 

(麒麟) 所詮は破壊者止まりだった信長

  今回も面白かった。

 

  私なりに気に入ったポイントを幾つか挙げると、

 

・架空の町医者、東庵が旧友の“曲直瀬”と発言した医者は実在の名医だが、その名は道三。フルネームで曲直瀬道三とすると、その後の帰蝶とのシーンで斎藤道三が出るのでややこしくなるから姓のみとしたか。

 

・光秀と帰蝶の再会に茶をたてるところまで同席した今井宗久は当時確かに京都にいて、本能寺の変が起きるとすぐに堺の家康に知らせた。この素早さは事前に勘づいていたからと思われ、ドラマでは今回の茶会で信長殺害計画を察したか聞き耳を立てたか。

 

・光秀が丹波と近江をうまく治めていたことは事実。その秘訣を尋ねた家康に光秀は“見込みある人物”と期待したと思われる。前々回のブログ記事の通り、数十年後に南光坊天海になった光秀が江戸城に現れ、家康と初対面なのに長時間2人きりで話し込んだ記録を思い出した。その後、江戸の都市計画が天海を中心に進められる。

 

・光秀の台詞の中に出てきた「戦は他国の領土を奪うところから始まる」「平和な世をつくるためにまずは自国を潤わせないといけない」箇所は現代の中国を思い出した。尖閣海域への侵入回数も増えてきている。先日ダボス会議にリモートで参加した習近平は一連の戦狼外交で各国から嫌われて内向き経済に方針変更していたがどうやらそれが失敗したため、また世界市場に戻りたいと哀願してきた。

 

安土城での饗応役を光秀が務めたことが家康発との演出は初耳だが、毒を盛られる警戒心からという理屈には納得したとともに、それを信長が気にくわなくなる展開も面白かった。別の記録では魚が腐ってると難癖をつけて全て堀へ捨てたために異臭が広がったとあった。

 

・そもそも仕来たり通り失礼のないよう一の膳の品数を指示した光秀に対して、信長は二の膳も全て出して豪華に?見せようとした。料理に関しても別に逸話があり、京都で一番の名料理人が三好戦の後に捕らえられて信長から舌を満足させたら殺さないと言われて膳を出したところ、「不味い!」と激怒され、危うく首をはねられそうになった。もう一膳と懇願して今度は尾張人の舌に合うよう京風の薄味から田舎風の濃い味にすると助かったという。

 

・上記の通り信長は決して高尚な人物ではなく、合戦に強く優しさも面白さもあるにはあるが、後世の評論家が言う通り現代にも通じる合理的精神の持ち主だから市場経済や技術革新を進めたとするのはねじ曲げ過ぎである。

 

・人物的にはむしろ低級で、室町時代までの悪しき慣習や通例を破壊したところまでは良かったが、更に帝に譲位を迫るなど壊してはならないところまで破壊しようとした。これでは“スクラップ&ビルド”のビルドのない破壊者である。

 

・歴史は繰り返す循環史観的に見れば、同様の破壊者タイプには平清盛新田義貞がいる。清盛も皇室の伝統まで壊して幼少の安徳天皇に譲位させた。平家も義貞も短命で終わった。

 

・信長も短命でなければならぬ。破壊が落ち着いてビルドは誰か別の者が担うべき。そう思った光秀は自ら“闇に光る樹”に斧を入れる役を引き受けたのか?  このドラマで今までの価値観が一転した人が多いようにネットの書き込みからも分かる。信長をただ格好いいと憧れた昭和の見方が改められて善悪両面を見るようなった。

 

・光秀のような本来穏やかな人物が今回ラストのシーンのように顔を歪ませ怒る場合、たいてい怒らせる側に問題がある。日本のブラック企業の社長や幹部も同様で、失われた30年の間に多くの温厚な人物や技術者がいなくなった。低賃金の外国に生産拠点を移したために今では世界のパソコン売り場の店頭に中国や韓国の製品ばかり並んで日本製は消えてしまった。

 

・日本がブラック化して判断を誤る前に明智光秀のような人が本能寺の変を起こせばと悔やまれてならない。残念ながら光秀はずっと逆臣とされて、自浄作用は起きなかったため、全国に失業者や引きこもりが中高年も含めて増えた。社員の生活を思えば産業空洞化という愚かな判断は行わなかったはず。

 

・次回、長谷川光秀の好演次第では、影響を受けた一部の人により政治的にも経済的にも良い変化が起きると期待したい。

 

※今日の記事で、麒麟ではなく子鹿を連れて

きた4歳児の写真。“子供には不思議な力がある?”

 

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  以上。

 

新しい用語を使って循環型経済を進める案

  新型コロナの「変異種」という言葉の使用が、医師界からの“全く意味が異なる!”との強い指摘で最近一斉にマスコミもヤフーも「変異株」に変わった。

 

  変異種はイコール新種でもあるのだが、今回の新型コロナの場合は新種が出現した訳ではなく、単に遺伝子の一部が変わっただけなので変異株が正しい。今までもその指摘は散見されたが、どうしても煽りたいマスコミの幹部が意図的に「英国で変異種」と表記させていたようだ。

 

  さて、これと同じく言葉の表記と使用で現実に合わないから変えれば良い例を提案したい。それは「生産」と「消費」である。工業や農業、商業のどの事業者も消費を伴わない生産はあり得ず、皆が道具や土地などを買っては何かをつくっている。

 

  従来の経済学が、それは近代経済学だけでなくマルクス経済学も含めて生産者と消費者のように生産と消費を対立させる固定的な考え方をし過ぎている。消費をしない生産者? 生産をしない消費者? どこにもいやしない。

 

  ではどう変えたら良いか? 実際に誰もが消費を伴う生産を行っているのだから、それらを円環状につなげれば循環型経済になる。

 

  循環型経済の逆は直線型経済で、資源の乱掘から廃棄による環境破壊まで一直線に進めている。それが将来的にも良くないことは誰もが分かる話だが、どうしようもないだろうと世界中が何もしない。

 

  先ずは資源や環境を守るために循環型経済が可能であり取り組むことを前提にしよう。その上で、各事業者や各個人の誰もが「消費を伴う生産者」である現実を踏まえて、新しい言葉を用意してみた。

 

  生産ではなく「送填(そうてん)」、消費ではなく「受填(じゅてん)」。例えば“工具を受填して作品を送填する”、“作品を受填してパンフレットとして送填する”のように使う。

 

  受填した人は対価の金銭を送填する。これで送受填が成り立つ。

 

  知的サービスも同様に、“インストラクターから技術を受填してコンテストに送填した”、“コンテストを受填して報道が送填した”、“報道を受填した大学研究者が分析を送填した”、“分析を受填したインストラクターが教育を改めて送填した”とすると循環する。これを「回填」という。

 

  限りある資源や土地も回填させることで、直線型経済に顕著だった無駄は大幅になくなる。

 

  また国や社内の法律やルールも今までは増える一方で煩雑化し、決まりを守らされる人としては、あるルールを守ると別のルールを破ることに直面して、選択によってはルール違犯となったりしたものだった。これも「回填」を行うことで、全ルールの見直しが進められる。

 

  最後に、もちろん回填が適正に行われるための統治機構は必要で、これは従来の国家政府や中央銀行、委員会などがしっかりと不正の摘発や報償などを行う。

 

  ※ただ不正の発覚は受填した側が送填した側を訴えることで始まる。例えばインストラクターが嘘を教えた場合、従来は被害者が離れて市場が淘汰されることが一般的だったが、この場合では詐欺罪で訴える。

 

※同様にメディアによる侮辱罪、名誉毀損罪、工場による偽造罪、不正価格の販売店による横領罪、不正な採用や退職引き留めによる誘拐罪など、従来犯罪は事業者へも適用できる。

 

※本文最後に「報償」を加えたのは、受填した側が送填した側に恩を訴えたい場合もあるためである。同等の送受填(支払い)以上に恩を訴えたい、例えば上記の例の中ではインストラクターのお陰でスポーツが上達した場合である。恩を訴えて、報償が増えれば世の中は明るくなっていく。