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10分で分かるドイツ観念論

  哲学は難しいと言われるが、ごく簡単にドイツ観念論を解説したい。

 

  まずカントは認識過程を全体的に見直して「物自体は分からない」と言った。 

 

 当たり前である。今だって我々は何も分かってないし、少しだけ分かった気になって生きているだけだ。

 

  次のフィヒテは、ベルリン大学の学長にもなった哲学者だが、このカントの関係を「自我と非我」とに単純に分けた。これだと「物自体は分からない」と言うセリフも見えてくる。

 

  最初匿名で発表したところ、人々はカントのものだと勘違いしたという。

 

  ちなみに後のヘーゲルフィヒテの墓の隣りに自分の墓をつくるよう望んだ。何故か? 後半で分かる。

 

  フィヒテの次に位置するシェリングは「同一哲学」を唱えた。絶対者、絶対的なものが二分されたままではという気持ちも分からないでもない。

 

  しかし、同一の仕方が強引だった。「直観」によるのである。

 

  そこを友人ヘーゲルは批判した。ヘーゲルを長年の家庭教師生活から大学の先生にしたシェリングだったが、自分の同一哲学を「全ての牛が黒くなる闇夜」と批判されては、心外だと訣別せざるを得ない。

 

  ヘーゲルによれば、直観ではなく概念による哲学が大事で、確かに著書を開けばたくさんの概念と概念、それらをつなげる線がある。ほとんど3つで1セット(例えば正ー反ー合のように)だが。

 

  とある温泉地でヘーゲルシェリングが鉢合わせした時に激しい罵り合いの喧嘩をしたという逸話もあり、かたや「ズドンとピストルで撃つような直観」と言うと、「概念の針金細工」と言い返したと言う。

 

  さて、ヘーゲルの初期著作である「精神現象学」序文には、植物が種から芽、茎が伸びて蕾から花、という例えが載っているが、歴史法則もそんな成長過程に重ねており、後のマルクス唯物史観もそうであれと重ねている。

 

  もう1つ、ヘーゲルの有名な言葉に「ミネルバの梟は暁の空に飛び立つ」がある。知恵は夜明けとともに現れると。

 

  今回特に強調したいことは、この時の夜とはシェリング哲学の夜のことなのである。

 

  正ー反ー合を繰り返しながら絶対者が顕現する近代。主観と客観の対立を止揚(アウフヘーベン)してより明るい未来をもたらす。

 

  そんな楽観的なヘーゲルベルリン大学の学長として生涯を閉じた、哲学者としては羨ましい人生である。

 

  確かに人類史は科学が広がって一見、合理的になったかに見えるが問題も多い。

 

  個々の悲喜こもごもの人生においてヘーゲルが見落としている部分を実存主義哲学は批判し、やがてサルトルの社会運動につながった。

 

  哲学は大事だ。

 

  ユダヤ教イスラエルのガザ侵攻のように敵認定すると限度なく徹底的に非人道的なことをする。まるで旧訳聖書にあるノアの洪水やソドムとゴモラの落雷による焼き討ちのように。

 

  キリスト教も、新訳聖書とは言うが処女マリアが懐妊したとか、死後3日後に復活したとか、神の化身がイエスとか、非論理的なことを信じさせようとする。信じる者は救われると。

 

  じゃあオラの御先祖様たちは救われねえのか?と論理的に攻めてザビエルをほとほと疲れさせたのが日本人。

 

  こんな頭のいい民族は他にいないと手紙に書いている。

 

  我々はもっと哲学をしていい。その一助となるべく今回まとめた。