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「~の墓の隣り」を望む3人

  古い順から書くと、まず中国史上の英雄の1人である曹操が挙げられる。

 

  「唯才」をキーワードに各界の才能を集め、それは軍事に限らず政治や文芸、医術など多岐に渡り、三国志を面白くした。占領地域を従来のように略奪するのでなく開発育成して拡大したことも大きなポイントだ。

 

  その彼が亡くなる前に、「西門豹の祠(ほこら)の傍に自分の墓をつくって埋めるよう」指示した話が豹のWikipediaにある。

 

  西門豹とは何者か? 

 

  私は横山光輝の漫画「史記」4巻で初めて知ったが、なかなか痛快な男である。職業は軍人ではなく今で言うところの官僚にあたるらしいが、中央から派遣された公務員の地方長官として登場する。ウィキの話をそのまま添付したい。

 

孔子の弟子の卜商(子夏)の門下となり政治を学んだ。そして、同じく弟子であった李克と同じ国の魏の文侯に仕え、土地が枯れていた鄴の令に起用された。

西門豹はまず地元の農民たちを集め、どんな苦難があるか聞いた。当時鄴では地元に伝わる迷信で、毎年河に住む神(河伯)に差し出すため、若い女性と多大な財産を巫女や三老と言われる長老や儀式を管理していた役人に差し出し、それらを河に沈めるという人身御供の儀式がしきたりとなっていた。これにより集められた金銭は膨大なもので、民衆の生活が困窮するほどであったが、儀式に使われるのは1割も無いほどで、残りのほとんど全部は巫女たちが山分けしていた。また年頃の娘がいる家は逃げ出し、その田畑は荒れ放題となっていた。これを聞いた西門豹は「横取りされているのがわかっているならば、やめればよいではないか」といったが、農民たちは「そのような事をしたら河の神のお怒り(=洪水)を買ってしまいます」と恐れた。西門豹は「なるほど。私は来たばかりなので知らなかった。ではその儀式を行う時に教えてくれ」と言い、農民たちは帰っていった。

しかし、実は西門豹は巫女・三老・役人が迷信に付け込み肥え太り、農民たちが困窮したので土地が枯れたと考えた。さらに灌漑が必要だが、迷信ある限り河に手を付けられないと判断し、まずはこの一掃に着手する事にしたのである。

儀式が行われる日、河辺には巫女達と2, 3000人の見物人がいた。そこへ西門豹は見学したいと護衛の兵士を伴って参加し、「河の神の嫁というのを見せてもらおう。美しいか確かめたい」といって生贄の女性を連れてこさせた。しかしそれを見るや「これでは器量が悪すぎる。『もっと良い娘を連れて参りますのでお待ちください』と河の神にお伝えなされよ」と言い、「お怒りを買わぬためにも、使者には最も河の神と親しい者がよかろう」と巫女の老婆を河に沈めた。しばらくして「巫女が帰ってこない。様子を見てこられよ」と言い、弟子の女性たちを1人、2人と河に沈めた。さらに「弟子たちも帰ってこない。女では河の神への願いが難航しているようなので、次いで河の神に貢献している三老に手助けをお願いしよう」と言い三老を河に沈めた。あまりの事に誰もが唖然としていたが、一人西門豹だけは恭しく、河の神がそこにいるかのようであった。

さらにしばらくして「おかしい、三老も帰ってこない。さらに次いでとなると、多額の金銭を集めた役人であろうか」と役人たちを沈めようとしたが、役人たちは「その任は何卒お許しください」と平伏して詫びた。その顔色は血の気が引きすぎて土のような色で、額を地面に打ちすぎて流血するほどであった。西門豹はしばらく待った後、「どうやら河の神は客をもてなして帰さないようだ。皆も帰るがよい。もし誰かが儀式をやりたいならば、私に話すがよい」と言った。役人も民衆も度肝を抜かれ、これ以降生贄の儀式は行われなくなった。西門豹は河の神を信じている風にして、儀式の中心人物を反論できなくしたまま一掃し、迷信も一掃したのである。この結果、貢物を搾り取られなくなった民衆は貧しさに苦しまずに済み、年頃の娘がいる家は逃げなくなり、役人も民衆も西門豹の言う事に従うようになったのである。

 

  …いかがだろう? 曹操が熱烈に尊敬するのもよくわかる。現代の日本にもこんな人物がいればとつくづく思う。

 

  ただ1つだけわからないのは、曹操には大勢のファンがいる一方、西門豹の知名度は低いことだ。

 

  さて、似たような例をもう2つ挙げたい。江戸時代の松尾芭蕉といえば誰でも知っている俳句の天才だが、その芭蕉も亡くなる前に「源義仲の墓の隣りに自分の墓を」つくるよう遺し、現代もそこに隣同士で眠っている。

 

  木曽の山奥で挙兵して倶利伽羅峠の戦い平氏の大軍を破り、京都を制圧して一時は朝日将軍と呼ばれたほどだったが、田舎者ゆえに朝廷と馴染めず、兵たちの素行不良も京都の民の不興を買って敵を増やし、挙句の果て関東の頼朝に口実を与えて義経に敗れた将であり、ファンは少ない。

 

  しかし、松尾芭蕉だけは義仲を非常に高く評価しており、関連の句を詠んだり史跡を訪ねるだけでなく、最後は隣りの墓に埋めて永遠に傍にいたいとまで言う。何がそんなに惹かれたのか? 当時の状況を知れば、平家全盛の絶望の中で未来への扉をこじ開けた漢(おとこ)と言える。これも現代日本にいないと言えばいない。

 

  3つめの例として最後に挙げるのはドイツの大哲学者ヘーゲルが、亡くなる前に「フィヒテの墓の隣りに自分の墓をつくるよう」言い遺した話だ。

 

  ヘーゲルの名前と「正反合」の弁証法は有名だが、フィヒテを知っている人は少なく、哲学好きな人達の間でカントの後継者的な位置にあると言われている。

 

  極めて簡単に言うと、弁証法の前2つ正と反はカントの「二律背反」(世界は必然・偶然や有限・無限など)に当たり、二律背反で止まったカントに対してヘーゲルは3つめの合を加えて理性が実現していく壮大な歴史観を示した。技術や学問も確かに理性の歴史といえる。だからヘーゲルは大哲学者と呼ばれた。

 

  その弁証法の発想がどこで生まれたのかというと、フィヒテの三原則まで遡る。

 

  第一原則が自我、第二原則が非我、と、ここまでは二律背反的だが…、

 

第三原則 「自我は自我の内に可分的な自我に対して可分的な非我を反定立する」

 

  と述べて、カントの「物自体はわからない」(相手にしてるのは現象のみ)で諦めず、現象も物自体も含めた非我、そして自我の中にまた自我と非我ができると述べて、次へ前進する展望を与えたのがフィヒテと言える。

 

  ただ分かりにくいと言えば分かりにくく、ヘーゲルの方が遥かに分かりやすい。そこが後の知名度の違いになったのだろう。

 

  それでもヘーゲルフィヒテを大きく認め、隣り同士の墓で永遠に傍にいたいとまで言った。今の自分があるのも全てフィヒテのお陰であると言いたいかのようである。

 

  以上、3人の例を挙げたが、他にもまだまだ似たように話があるかと思ってTwitterで質問してみたことがある。

 

 今のところ反応はなく、そもそも誰もこんな話に興味がないかのようだ。推しといえば、曹操芭蕉ヘーゲルの名前はいつも挙がる一方、西門豹や源義仲フィヒテを挙げる人は皆無。 

 

   それが昔も今も、そしてこれからも変わらない普通のことなのだろう。