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ヒュームの単純観念とキルケゴールの単独者

 これもググっても出てこない組み合わせだが、なぜ誰もこれを考えないのかと思う。

 

 本ブログの補ヒュームという考え方で進めると分かりやすい。

 

 まず、18世紀イギリスの哲学者にして西洋哲学史のターニングポイントと言われるヒュームによると、人間は知覚時の印象から単純観念ができて観念連合を行い、複合観念をつくる。人間は複合観念の束に過ぎないという。

 

 従来の伝統社会や宗教界の因果律は全て絶対ではないことになって退けられ、より確実な観念連合のために実験科学が重んじられ、より良い観念連合を求めて市場競争や議会政治が重視された。このようにヒュームの影響力は非常に大きいものの、一方でヒュームを祖として過剰に競争を激化させた新自由主義が失敗したように限界もきている。

 

 ヒュームの哲学は当初全くウケなかったが、遠くドイツではカントが驚いて哲学を始めさせ、改めて人間の認識活動を考えさせた。その数々の帰結の1つが二律背反で、「世界は有限である、無限である」「世界は偶然である、必然である」「神はいる、いない」等で、カントは矛盾は実在的ではないと言ったものの、ヘーゲルは正反合の弁証法で人間の理性は完成していくと考えた。この見方をもとにマルクス唯物史観に言い換えて現代の政治の左右対立が生まれ、欧米日と中露の対立の源流にもなった。

 

 私は前回のブログでカントの二律背反も補ヒュームかもしれないと触れた。観念が連合すると同時に分断もある。つまり世界が必然であると連合すれば、同時に偶然ではあり得ないとなり二律背反となる。ヘーゲルの理性が完成していく弁証法だとひたすら観念連合が大きくなっていくだけの話となる。

 

 そこへ、異を唱えたのが実存主義哲学の祖と言われるキルケゴールだ。彼は単独者という概念を重視した。人間はどこまでいっても一人であり単独者であるという。次のニーチェも、アポロン的とディオニュソス的という概念で同じことを表現した。ヘーゲル哲学が秩序の整ったアポロンで、キルケゴール哲学が酒と陶酔のディオニュソスなのだ。

 

 それをヒュームで表現するなら、ヘーゲルが複合観念で、キルケゴールが単純観念となる。つまり、ヒューム哲学では単純観念から複合観念への一方通行だったが、ここでは複合観念から単純観念への逆の流れが起きており、だから観念連合ではなく、補ヒュームでは観念分断という言葉を新しく設けたのである。

 

 非常に明解な考え方だと思うが、誰も認めないし認める訳にはいかないみたいで、ずっと無視されている。そして二言目には、これが言えたとして何を目指しているのか、賢者と言われたいだけだろうという。

 

 どうだか。現代は欧米日の進行が弱まる代わりに中国が躍進しているが、中国に世界を任せていいのか、というと問題は大きい。何が問題かといえば、少しも民主的ではない政治で、欧米が積み上げてきた西洋哲学、人権や民主主義などの存続が危ぶまれるからだ。そこで改めて西洋哲学史を重視する必要があり、本ブログの意義がある。

 

 また、かといってこの30年間西洋哲学が止まってしまったように、何か問題があって新哲学も行き詰まっている。それは西洋哲学史のターニングポイントでありキーマンでもあるヒュームまで遡り、ヒューム哲学を補う、足りないところを核心的に突く補ヒュームが重要になる。

 

 本日はここまでとするが、最後にキルケゴール哲学をもう一度ヒューム的に見直せば、彼は単独者たる自身を見つめ、印象から単純観念ができたが、複合観念がどこまで広がっても連合しない何かが残った。これが実存である。後にサルトルは実存は本質に先立つと言った。