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明智光秀が毛利に放った密使の体力

 今日6月2日は「本能寺の変」。

 

 明智光秀軍1万3千が丹波方面から南下して京都の本能寺を早朝に襲撃したとされる。

 

 ということは、前の日から起きていたことになる。記録によると、秀吉救援のため夜に行軍するため、前日の1日は昼に兵を寝させていたらしい。平定したとはいえ丹波地方はまだまだ反織田の残党が潜んでいたことを考えると夜に行軍した方が良いのか?

 

 22時頃に全軍出立。ところが、桂川を越えて京都に向かっている。兵の中には、信長の命令で畿内にいる徳川家康を討つと勘違いした者もいたとか。

 

 やがて、真の討伐目標が明らかにされる。有名な、「敵は本能寺にありぃ!」というセリフは実はなかったとか、光秀本人は伏見の方にいて別動隊が襲撃に向かったとかいろいろな説があるが、それらはともかく、裏切りは成功して本能寺は焼け落ち、更に信忠が居る二条城も落ちた。

 

 まだ信長の遺骸が見つからないことが懸念だが、性格からして生き延びるよりも自害を選ぶと判断し、光秀は次の行動に移った。

 

 畿内を制圧し、外周にいる織田4方面軍を各個撃破する。関東の滝川一益には北条氏政が攻めて成功、北陸の柴田勝家には、苦手とする上杉軍が当たり、四国には親交のある長曾我部氏を動かして丹羽長秀の上陸を阻む。そして山陽。

 

 現在、高松城水攻め中の秀吉とそんなに遠くない距離で、毛利の両川、吉川・小早川軍が対峙している。そこへ密使を送って、毛利全軍で当たらせる。

 

 この密使は2日朝には出発したはずだが、すると、前日の夜からずっと起きて向かったことになる。馬を使ったとしても、不眠のままなら体力的にきつかったことは想像に難くない。しかし遅れる訳にはいかない。

 

 まる2日かけて高松城付近に着いた頃には、そうとう疲れていたことだろう。

 

 通説では、毛利に行くはずが間違えて羽柴陣に迷い込んだとある。筆者は実際に現地を回ったことがあるが、それも分からないでもない。毛利各陣が奥の山の中腹付近にあるため、手前の羽柴各陣を抜けることは難しい。途中まで足守川の中を通っても、警戒が強ければ引っ掛かる。

 

 そして秀吉が知る。情報の真偽については、密使がただの文書の運び屋ではなく、交渉ができるぐらいのそれなりに名のある者ならば羽柴内に顔を見知った者もいよう。

 

 Uターンを決意する秀吉と官兵衛。京都までの道は整備されているためスムーズに向かえる。

 

 とかく中国大返しが喧伝され評価されているが、それは当然として、むしろ明智光秀の密使の方が、1日夜からずっと起きたままだったことの方が気になった。

 

 突然の秀吉軍出現に意表を突かれたことで明智光秀の負けは決定的だったが、密使が失敗することも踏まえて大阪に防衛ラインを敷いておけば、明智の天下は少しは延びたかもしれない。