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中国大返し実現の舞台裏を考える

 5月末から6月2日朝にかけて、Twitter上では“本能寺の変”関連記事で盛り上がった。

 

 明智光秀役の書き込みが呟く度に、止める人や応援する人、家臣や家来の役になる人などが書き込み、筆者は主に足軽役となって京都への行軍中もずっと徳川家康を討つとばかり思う会話を再現した。

 

 変が終わった後、以前に備中高松城とその周辺にある日差山や鷹ノ巣城など毛利陣跡を回ったことを思い出して密使役となって何個か書き込んだが、そこで気付いたことがあった。

 

 もし通説のとおり明智光秀の密使が京都から高松城に向けて走り、最後に毛利陣に着くはずが間違えて羽柴陣に迷い込んだとしたらだが、まず

 

 ・2日朝の変が終わって3日夜に着いたことは非常に速いと言える。

 ・秀吉軍の中国大返しも速いが、密使の速さは異常である。

 ・車でも高速を使って半日はかかる。その4倍は徒歩では無理。

 ・しかも明智光秀の家来なら、1日夜には起きていなければならない。

 ・1日夜に明智軍が出立して2日朝に本能寺襲撃、そして岡山に出発。

 ・それだけ起きて徒歩で向かえばフラフラで陣を間違えるのはあり得る。

 

 そこまで考えたところで他の通説の方が合っていると思えてきた。すなわち、秀吉側の密使が先に知らせたというものである。

 

 まず1日の夜はしっかり寝ている。朝、京都での騒ぎを知って起き、本能寺の変で何が起きたかを知り、主君秀吉のもとに知らせようと馬を飛ばす。

 

 山陽道はほとんど秀吉の領地である。そこで馬を取り換える度に「本能寺でえらいことが起こったで!」と言うので、各中継所の人たちの知るところとなる。それらを中心に「次は仇討ちや!」となってその準備をする。兵糧を集め、道を整える。

 

 そして3日夜には秀吉の知るところとなり、山陽道で準備ができていることからUターンを即決、安国寺恵瓊小早川隆景の両者と講和を結んで驚異的な速さで中国大返しを実現した、と思われる。