本日初詣に行こうと思い近くの神社に行ったが、長蛇の列を成していて時間がかかりそうに見えた。
コロナが深刻な去年や一昨年はけっこう空いていたのだが。
それでも初詣に行く人の方が受験も結婚も叶っているような、統計上のデータを見た訳ではないがそんな気がしたので、いったん駐車場を出て夕方にずらすことにした。
ツイッター上では、よく見る政治垢でほとんどの神社が自民党側のため、賽銭を入れたら悪政に加担することになるとの呟きが多く見受けられた。
神社本庁に加盟していない、小さな鳥居の所がいいと言うが見分けがつかない。
そもそも私の本来の願いを叶えた神社はない。八木龍平が最強という大阪のサムハラ神社も何度か行ったし、何でも1つは叶えるという京都の鈴虫寺、他にも大小様々なパワースポットに行った。
空(す)いている所といえばやはりあそこだろう。
2世だったことを思い出して久々にカトリック教会に行った。
案の定、中は誰もいない。それはご利益がないからか?
いや、信者の中には大金持ちも多い。麻生太郎もクリスチャンらしい。
前に進んで、十字架像を見上げる。大きめな方である。左右の掌と、重ねた足の甲に釘を打たれた像。
教会は信者に羊の群れのようなおとなしさを求めるもので、事実静かに祈る人が長く信者でいる。
私はおとなしくいられなかったから離れた。理由は他にもあるし、2世はだいたい離れている。
堂内最前列の席で見上げて改めて思うが、なぜ彼は十字架に磔になったのか?
おとなしくなかったからだ。
世の矛盾や疑問、ローマ帝国の在り方、ユダヤ教の在り方、貧富の差、幸福な一部の人と大多数の不幸な人、等々に楯突いて、ナザレを出て、弟子が増え、マークされ、弟子が離れ、捕まり、最後は磔刑(たっけい)になった。
そんな姿勢、生き方が共感を呼んで後に聖人になったと思う。
ただこんな見方をして倣う人はあまりいない。
田中正造、楠木正成、大塩平八郎、関羽、ロビンフッド…、義人の多くは倣ってやった訳では無く、純粋に義憤にかられてそうなった。
彼も、後には福音(ふくいん)と呼ばれる当時はタブーな言葉を口にし、行動し、ある程度は成功した。それは新約聖書に記されている通りだ。
しかし、それは本人は望んでいないと私は思うが、後の多くの人はパウロやバチカンが定めた通り、「祈りを聞き入れ、願いを受け入れる神」として位置づけ直し(三位一体)、ユダヤ人しか受け入れないヤーウェに代わる神とし、信者たちは教会に通うようになり、宗教が成立した。