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(鎌倉殿検証) 敵陣内に突如現れた70騎の恐怖

  前回放送された「鎌倉殿の13人」

 

 源義経が駆け下りた崖を 、合戦名となった西側の“一ノ谷”でもなく、有力な“鵯越”でもなく、あまり聞かない、ネットでも特に見当たらない「鉢伏山」とする新説(珍説?)を検証するために本日現地確認に行った。

 

   過去にどちらも行ったが、下の絵のような感じではなかった。
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  戦国時代の武将、黒田長政(官兵衛の息子)はこの合戦を模した兜をかぶっていたというのに。


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  左手に海を観ながら西へ進んでいくが、好天に恵まれて上下線とも渋滞でなかなか前へ進まない。そうこうするうちに須磨区に入った。

 

  スマホ画面上に一ノ谷の古戦場に関する石碑のようなポイントを認めたが、路肩がなく車を停められないのでそのままゆっくり過ぎて行った。

 

  やがて、前方に鉢伏山らしき山が見えた。その名の通り、鉢を伏せたような形に見えなくもない。ロープウェイで山頂にも行けそうだ。

 

  しかし、

 

  右折して山の麓(ふもと)に入ることが難しい。この先でUターンして左折すれば入れないこともないが、どうもこの辺りは以前来たことがある。

 

  思い出した。毎年11月に行われる「六甲全山縦走大会」のスタート地点に当たる須磨浦公園駅である。ここを起点に宝塚まで1日で走破(山登りだからほとんど徒歩)する。

 


六甲全山縦走路(20-01)|登山・トレッキング|兵庫県|エリア紹介|ジャパンエコトラック公式サイト|JAPAN ECO TRACK

 

  参加者を車に乗せて早朝ここで降ろしたことがあるが、ゴールの宝塚まではかなり遠く思われた。それでも老若男女様々な参加者が色とりどりの格好で準備していた。

 

  途中はこんな感じらしい。
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  上の写真がどこなのか分からないが、確かに崖のような所はあるようだ。

 

  しかし、鉢伏山だという決定的な証拠はなく、この大河は三谷幸喜がほぼやりたい放題で義経を描いている。

 

  急に振り返って至近距離から狩人を射ったり、政子の膝枕で寝ようとしたり、亀の前の屋敷を弁慶と派手に壊したり、どれも証拠はなく、三谷の捏造である。

 

  今回も、平家の背後を衝く戦法を梶原景時からまず語らせ、義経が即座に否定して北の三草山の敵を撃って戦線を広げた上で戦況の中から好機を掴むと上回るように仕向けた。

 

  「思いつかなかった自分が悔しい」と嘆く景時。そう思うだけでも上等である。たぶん他の御家人はそこまで悔しがってないし分かってない。義時も。

 

  たぶん三谷周辺の制作者の間がこんなではないかと思う。

 

  私も過去にイベントの準備を国家官僚と打ち合わせた時に、計画書は作成するが、それより大事なのは正しく人選して配置し、当日状況に応じてやっていくだけと述べたところ「そうではない」と言われ、厚さ10センチにも及ぶ小さな文字ばかりの資料を用意しろとサンプルを見せられ辟易したことがある。安いカネと短い時間に何をアホな要求してくるのか。

 

  そんな形式的な合戦なら東の生田口の源範頼でいい。ただそれでは山上の猛将、平教経(八艘飛びの話に出てくる)に挟撃されて源氏は負ける。

 

  この合戦の名前が、源平の大軍同士がぶつかった生田口の戦いではなく、西端の搦手(からめて)にあたる所の一ノ谷の戦いと呼ばれたのは、天才義経が突然70騎で現れて火をつけ暴れ回ったからである。

 

  貴族のような平家が、大量の動物に驚くのは倶利伽羅峠の戦い源義仲が頭に松明をつけた大量の牛で実証した。

 

 今回は多くの馬が現れて歩兵ばかりの敵軍を心理的に動揺させ、更に高い機動力で蹴散らした。こんなに多くの馬を乗りこなすのは世界史的にはチンギスハンが最初と言われるが、それより前の義経は騎兵戦術の要諦を分かりきっていたといえる。

 

  だから総大将の平宗盛はすぐに安徳天皇を船に乗せて海上に逃れた。