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(麒麟がくる) 信長とアレクサンダー、と幸村

  今日は桶狭間の合戦があった日。駿河今川義元が2万5千の大軍を率いて尾張領内に入ったところを、僅か3000の織田信長が奇襲して勝ったというが、詳細は諸説あって本やドラマでも描き方が異なる。

 

  先日放送した大河「麒麟がくる」では、染谷将太演じる信長が敦盛を舞っている途中でふと閃き、今川軍が丸根砦や鷲津砦、大高城などの攻撃で兵を割けば本隊は1万3千ほど、更に対外広報的に数を盛っている分5000を引いて実質7000になると計算した。そこで信長は300ほどの別動隊を先ず仕掛け、今川本隊から1000が出動したと聞くと、これで勝負になると決断して桶狭間に雪崩れ込むように描いた。

 

  城や寺など史跡巡りが好きなため、桶狭間古戦場を訪ねたこともあったが、住宅地に変わった今もその辺りが急な山や崖のない丘陵地帯か原っぱに近い所であったことは推察できる。つまり泥に足をとられる田畑ではない合戦向きな場所であり、そこで小国の信長は、この大河が描いたように今川の大軍を分散させて義元本陣を手薄にさせ、突入する戦法をとったのである。となると一ノ谷の合戦のような奇襲ではなく、近いものを探せばアレクサンダー率いるギリシャ遠征軍がダレイオス率いるペルシャの大軍を破った「ガウガメラの戦い」を思い出す。

 

  この時の戦法を簡単に言うと、数に劣るギリシャ勢は左右両翼をまず進軍させ、ペルシャも応じて左右が進軍すると、真ん中の本陣が薄くなってそこへアレクサンダーが突っ込んでいって勝利した。もう1つ思い出したが、大坂夏の陣の時に真田幸村が自身と同じ赤い甲冑と面を着けた影武者を7人用意して攻め上がり、徳川勢がそれぞれの幸村につられて分散して家康本陣が薄くなったところを本物の幸村が突入した話がある。家康は部下の背中に乗って命からがら逃げたものの、映画の中ではこの時に幸村が討ち取るものもあって結構すっきりする。

 

  だいぶ脱線したが、織田信長が大軍相手に勝つ方法を必死に考え、刻一刻の状況の変化を真偽様々情報を集め、その上で決断したことは間違いない。その判断を近代が好きな合理的という言葉で評して良いかはともかく、戦史として見直すと上記のようにアレクサンダーの判断に似たものになったことは興味深い。

 

  もっとも、敵の大将と参謀が賢ければ迂闊に本陣を薄くしてしまうような失態はしでかさない。大坂の陣では関ヶ原から15年間も合戦がなかったために若く戦慣れしていない兵が徳川勢に多かったというし、ペルシャも大軍とはいえ蛮族の連合で頭脳的にはギリシャに劣っていよう。そして今川方も名軍師の雪斎なき大軍では陽動に引っ掛かりやすくなっている。雪斎が健在だった時に何度も戦った信長なら、その変化に気付いていたと思われる。