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真田父子への刑は本当に重いのか?

 本日はおなじみの信幸による助命嘆願。

 

 本多忠勝の加勢により家康も折れるが、そこにもう1つ三谷ならではの解釈を加える。史実には無さそうな真田父子と家康の大坂城での対面シーンを入れ、「死よりも辛い流刑」だと発言させる。こうして視聴者は九度山配流をさぞ重い刑と受け止める。

 

 しかし、常々疑問なのは、主な西軍武将は三成や小西行長など切腹させられ、死刑を免れても宇喜多秀家八丈島への流刑のような遠隔地の島ではなく、なぜ大坂に近い九度山なのか? 確かに高野山は流刑地として度々出てくるが、これではいずれ真田父子に反逆できる機会を与えたも同然である。つまり甘いと思う。

 

 その疑問に答えるようなセリフを今回期待したのだが出て来ず、逆に九度山行きが重いということのみ。そうしないと、後の大坂の陣への参陣が大逆転劇にはならないという演出的事情もあろう。

 

 どうも今回の大河ドラマ、室内の話劇をつなげて視聴者を誘導することが少し多い気がする。マイナーな武将で資料が少なく仕方ないのかもしれないが、事実は信濃から畿内への流刑だったから幸村は大坂城に入城できたのだ。これは徳川の判断ミスなのか、狙いがあったのか、あるいは真田をナメていたのか? 

 

 そして途中からでも幸村を移すこともできたがしなかった。

 

 私の結論を言うと、家康は幸村を第二の三成と見なし、佐和山蟄居で生かしたのと同様の措置をとって第二の関ヶ原を引き起こすことを狙っていたと見ている。