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本田圭佑の革命的な指導法

  ミスに対して不寛容は当たり前な日本社会に対して、本田圭佑は逆にガッツポーズをしろとカンボジアで教えている記事があった。

 


本田圭佑が明かしたカンボジア人への仰天指導法「ミスをしたら…」 - ライブドアニュース

 

  ガッツポーズはサッカー場ではともかく他の場所、例えば仕事場では経営者からナメとんのかとなる。ケツを吹く側からすればたまったもんじゃない。だからミスをしないよう日頃から注意喚起をし続け、ミスをしたら再発防止に取り組み、ミスをした人を区別する。

 

  いつしかミスを恐れる宗教のように職場が息苦しくなり、いたたまれなくなった人は辞めて、日本に無職が増えていく。残る人もミスはするが、そこは縁故で隠されたりミスが起きにくい無難な部署に移動したりと差別も見られる。

 

  本田はミスを成長の証と捉え、ガッツポーズするほどにしないと脳は変わらないと説く。

 

  ミスをすることで脳が変わることは確かだが、フォローの仕方については我々も一工夫加えるべきである。二度続かないようにし、以前と変わらないように遇する。マスコミや保険会社を含め、何か変えていかないと日本社会全体の低下は今後も進んでいくだろう。

 

    本田自身、いろんな試合で身勝手に見えるほどのパフォーマンスでミスもしてマスコミから叩かれる時があったが、大事なワールドカップでは交代出場後の短時間で貴重なゴールを幾つもあげた事実がある。してはやらないことをせず、すべきことを彼だけが分かっていたからだと思う。ミスが少ない他の選手はこんな時に逆にしなくてもいいことばかりし、昔の日本のフォワードは無駄なシュートが多かった。

 

 

  

 

 

押印と脚本が重要なのは何故か?

 ハンコを押す行為は誰しも重要と認めている。まるい印鑑の上下の向きを老眼の目を細めてよく確認し、小さな紙の裏に指を当て、力を込めて押し付けたりするが、紙の方が上下逆なのをよく確認していないので、結局印鑑が逆さまに押されてたりしている。

 

 この押印、または外国ではサインという行為、5素サイクルでは記号化と言い換えられる。では何が記号に変わったのか?

 

 5素サイクルは文字通り5つの要素がパタパタと変わる環状のプロセスだが、その中でも「特徴」の要素が、記号的特徴に変わることこそ押印(サイン)である。

 

 5素サイクルでは6段階目の所であり、記号的特徴に換わることにより、これまでの手段的特徴は消えてなくなる。つまり今までの一連の行動は押印によって終結する。そして新しい世界(様相的対象)が広がる。つまり押印(サイン)によって世界は新しく変わる。

 

 一方、逆のパターンもある。それが脚本、台本、または設計図である。ここでは、記号的特徴が台本の完成によって消え、台本をもとにして動くように、特徴の要素は手段的特徴に換わる。そしていろいろと用意されて新しい物体的対象が広がっていく。

 

 押印と脚本を5素サイクルは同列かつ表裏のものとして扱うが、ここに衣食住を絡めると、変換的特徴と製造的特徴の2つが重要視される。両者はともに資産的対象と資材的対象に関わる。

 

 何が言いたいかというと、国富の増大は市場競争以外にも何か方法があるのではないか、ということだ。株式市場はどうなるんだとか、当然のように湧く疑問だとは思うが、この説は既存の経済学よりもポランニーの経済人類学やヴェブレンの制度学派の主張に近く、要するに新し過ぎるので長い目で見守っていきたい。押印や脚本に当たる所は、例えば実った果実の収穫や、受領直後の包装紙を破る行為だと思うが、今日は取り合えずここまでとする。

 

幸福の基準を集団の熱狂に置く間違い

   「良い時代」とは何を指すのか?

 

  そんな疑問を持ったのは、政府もマスコミもただ国民が「熱狂」していればいいと思い込んでいるのではないかと感じられたからだ。最近では新元号「令和」に変わる時のカウントダウンなど熱狂している様子の報道、東京オリンピック大阪万博の開催が決まった時の熱狂、お花見や花火、大ヒット映画など、確かに嬉しさ満開の表情を見ると幸せそうに見える。

 

  しかし、国民の幸福を図る基準がもし熱狂しかなければ、それは単なる誤魔化しではないだろうか?  ほんの一時的な熱狂した様子だけをメディアが切り取って、これで政治が成功したとか安定したとか、現象の1つに過ぎない。

 

  多額の金と時間をかけて準備して、何も盛り上がらなかったら失敗、熱狂したら成功、それだけの話だったら、我々は感情を振り回されている1人に過ぎなくなる。

 

  たとえ熱狂はない静かな時代であっても、高次元の人物、高品質の物、技術、深い話、厚い人情、偉大な何かに溢れていれば、「良い時代」と言えるわけで、熱狂する集団はその次に発生する現象の1つであって、現代はこれらが少なくなっているのに熱狂を主目的にしているから間違えている。

 

  高齢化社会を迎えるに当たって、様々な価値観の転換が求められているが、政府の予算を使う基準を熱狂や盛り上がりに置くのは一昔前の若者が多い頃の手法であって、成熟した社会を深めるためにももうやめた方が良い。

 

 

感情を重視する記憶術

  「感情」「記憶」で検索すると、まだ新しい題材だと分かる。というより、まだ未知の部分が多い新しいテーマのようだ。

 

  何故この話をするかといえば、先日林修氏の番組で取り上げた「定期テストのない学校」の話が再びネット上で記事になっていたからである。これはテストがない学校と勘違いされやすいが、中間テストや期末テストなどの定期的なものに意味がないとするだけで、テストそのものは単元の終了ごとに行い、再試験も行って生徒が理解し修めることを最優先にするのだという。ネット上では賛否あり、否定的なものの中には定期の方が生徒側の家庭が予定を組みやすいという意見もあった。

 

  生徒の修得を最優先と言っておきながら、その実は教師側の都合を優先している面もある。記憶の完成に本当に重点を置くなら、感情の話を抜きにはできないのではないか、というのが「5素サイクル」なので改めて冒頭のように「記憶」「感情」で検索してみた次第である。

 

  ロザンの宇治原さんもお薦めとの記事もあったが、諺の「食い物の恨みは忘れない」が最も分かりやすいと思う。すなわちミスして悔しい思いをすればなかなか忘れないのである。あまりマイナスな感情ばかりでも良くなく、良い教師とは、生徒の感情を揺さぶって面白がらせたり、惜しいと悔しがったり、あともう少しと発奮したり、そうだったんだと感動させたり、そうするうちに上達していくものなのである。

 

  ではなぜ記憶と感情の話が新しく、今まで無かったかといえば、コンピューターの創始者、ノーバート・ウィーナーが考案したサイバネティックスがそうだったように、人間を「制御装置」と「制御対象」、対象を提供する「環境」、それに装置へ関与する「プログラム」の4素で捉えていたからである。記憶する状況を感情抜きにコンピューター的に捉えられなくもないが、人間にはもう1つ、感情の要素が加わらなければ実際的でも有効的でもない。

 

  つまり、林修先生がその校長に教えを請う構図に違和感を感じ、逆に校長が本当に生徒の記憶を高めたいのであれば、林修流の面白い教え方を教師に身に付けさせるべきなのである。

 

5素サイクルの好きなところ10選

 メインサイトのタイトルを先日「5素サイクル」に改称した。理由はあちらのブログに書いたが、ここでは自分なりに好きなところを10個選んで書いておきたい。

 

第10位

「各法則を総合した」:特に成長を説くプロセス説を共通点をもとに総合した。

藤本義一(作家)の観察→考察→推察→洞察の4段階

AIDMAの法則

・ヤングのアイデアを産む5段階

・NM法(中山正和氏)の6段階

・ダイア―の自己実現の5段階

守破離の3段階

岸田秀氏の歴史が変わる4段階

オルグ学の人をオルグする4段階

 

第9位

「心理学を総合した」:著名な3大心理学者を総合した。

精神分析学の祖フロイトと、その弟子、ユングアドラーの3人

・その後なぜか大心理学者は登場していない。何故か?が明らかになる。

 

第8位

「西洋哲学史を総合した」:著名な16大哲学者を総合した。

・大哲学者とはどういう人かが分かる。時代を一段高次に引き上げた人である。

・西洋哲学史とは人類の精神史である。

・最近なぜ大哲学者が出て来ないかが分かる。

 

第7位

「人間の状態変化の全貌が分かる」:新しい方法を使用した。

・複数のサイバネティックス・モデルを比較し、要素の増減で変化を説明する。

・5つの要素の増減が周期的に変わる。「5素サイクル」

 

第6位

「別々の状態同士の関係が分かる」:隠れた法則性を発見した。

・例えば客観的に考える状態と、客観的に技を修得する状態との共通点はヒューム哲学で言うところの複合観念である。

・修得済みの複合観念は、実験科学で裏付けた複合観念ほどではなくとも、非科学的な宗教や占い等の複合観念よりは強い。

 

第5位

「哲学以外の経済学や社会学の思想も分かる」:キーワードは衣食住

・哲学を衣食住の衣とすれば、経済学が食、社会学が住となる。

・経済学史や社会学史の全体も分かる

・対象の資産的側面の格差から不足を補おうと商品ができる一方、対象の資材的側面の成分の偏りから余分を除こうと道具ができる話が自分の中では面白い。つまり商品と道具の違いである。

 

第4位

「産業の新しい分類方法が分かる」:衣食住×衣食住の9分類

・例えば衣の衣がファッションなら食の衣がグルメ、住の衣がインテリア。食の衣が味なら、食の食が糧、食の住が栄養(医療)。衣の食が耐久財なら、食の食が消耗財(糧)、住の食が土地財。残る縦軸が軍事(衣の住)、医療(食の住)、交通(住の住)となる。

・衣食住の各産業は言語、貨幣、権力を媒体として、それぞれ真実、利益、秩序を実現し、学者と銀行と役所が管理する。省庁の構成はこれらの徳目の実現を目指すものとし、無駄や効率などの浅い考えで徒らに増やしたり減らしてはならない。

 

第3位

「サービスの循環が分かる」:直線型経済から循環型経済へ

・資源の発掘→商品の加工→廃棄して環境汚染が今までの直線型経済

・5素サイクルでは、知恵や財、安全対策などを循環的に進める。

 

第2位

「歴史の見方が変わる」:循環的史観と直線的史観

プラトン頼山陽が説いた循環的史観の仕組みも5素サイクルの中で説明できる。

・一方、宇宙の最初の混沌が物質的混沌ではなく波動状の混沌であったり、混沌の次に物理定数が各々決まった後で物質的世界ができ、初期生命から植物、動物、人間に至って再び波動(観念)の時代になったと考える。

 

第1位

「未来への指針を提案する」:不透明な世界への光明

・上記流れから必然的に導き出されるのは、現在が先の見えない混沌の再来であること。ここは再び「光あれ」、すなわち各定数にあたるしっかりとした安全基準や国際標準を決めて実施を徹底すること。すでに何となく始まっているが。

・この流れも5素サイクルのモデルで導き出される。

 

詳しくはメインサイト上部の「全体の大系」をクリックしてスライドを参照。

 

 

 

 

 

 

 

竹田恒和氏の退任は東京30年周期説通りだった

このブログの第1回は松山厳氏の東京30年周期説の紹介だった。明治から何故か30年周期で変わる東京の話の最後に、これまた何故か30年ごとに起きる疑獄事件の話で締め括られたが、先日の竹田恒和氏の収賄疑惑によるJOC会長退任事件も今気付いたがこの法則通りだった。フランスによるゴーン逮捕の報復ではとも言われたように、法則を意識したものではなく偶然の話である。以下、第1回からの抜粋。

 

〉2016-02-08東京30年周期説
 
三省堂「コンサイス20世紀思想事典」1989年4月刊行 608頁より

・慶応4年(1868)7月、維新政府は江戸を西の京に対する東の都という意味で東京と名称を変えた。
・旧江戸市民が騒乱を恐れて減った代わりに官僚と軍人ばかりが目立つ街であった。

・東京が江戸の街並みから帝都へと姿を変えるのは、明治21年(1888)に布告された市制町村制の事業が少しずつ現実化しはじめた明治30年代(1900年代)に入ってからであろう。
・道路だけでなく上下水道日比谷公園、墓地などが設けられていく。

・興味深いことに東京は、これ以降もおよそ30年ほどの間隔で大きな変化を遂げている。

 

・1900年代をその最初の変化とすれば、2回目は30年代、関東大震災による壊滅と復興である。この時期に環状線である山手線が全通し、地下鉄も開通してその後の東京の骨格はほぼできあがる。

 

・3回目は60年前後、戦後の復興と東京オリンピックのために、川を埋め立て高速道路を敷設するなどの大改造がなされた。その結果、東京の近県はいずれもベッドタウン化して行政単位ではとらえられず、東京圏と呼ぶほど膨張することになる。

 

・4回目は80年代後半に起きたビル・ブームと東京湾埋め立て計画で、都心の夜間人口の減少とオフィスビル需要にこたえての都心再開発の動きである。

 

・加えて面白いのは、いずれの変化の際にも東京論ブームと疑獄事件が起きていることであろう。急激な変化に対応するため東京の新名所や穴場をガイドする本が刊行され、その一方で巨大なプロジェクトの裏で金が飛び交うことが日常化したのである。

 

・1900年前後には水道管や市電の設置をめぐり、30年頃にはバスや魚市場の権利をめぐり贈収賄事件があり、多数の議員が逮捕されている。

 

・80年代後半の底地買いや地上げ騒ぎも、汚職が新しい姿で表面化した動きと見えなくもないのである。(松山巌

 

この説が発表された時からちょうど30年後の2020年は東京オリンピックでまさに法則通り。その開発に伴う疑獄事件が起きるかと第1回ブログでは推測したが、オリンピック招致に伴う収賄疑惑による会長退任騒ぎだった。

 

 

 

政治の哲学的な見直し

  新元号「令和」に野党がケチをつけていた。なんでも命令の令を想起させるらしいが、安倍総理から令嬢の令のように良いという意味だと一蹴されていた。

 

  このやり取りも哲学的に見直せば、ヘーゲル哲学の弁証法のように「令和」という正に対する反を野党が掲げ、野党的には「確かに命令の令だからやめて他のを検討しよう」等の合に持っていきたかったのだろう。ヘーゲルはこうして理性は実現していくと説き、マルクス弁証法的に進む唯物史観共産主義を至上として今の野党に至っている。

 

  しかし、安倍総理たちはいわゆる左巻きではなく、哲学的には英米系なので、こうした反がきても合には進まず、正のまま野党とは絡まない。

 

  前回まで述べたように元来ヘーゲル哲学はカントの二律背反の解決法として正反合を出し、カントはヒュームの観念連合が全てではないとして二律背反に行き着いた。しかし英米系哲学はヒュームから発してカントにはいかない。

 

  野党が声を荒げるものは正反合が易しいものに限られており、複雑な対米外交や金融政策、軍事関係も強く絡んでこない。そして一昔前のように政権をとると、高速道路を千円にしたり教育手当をはずんだりと聞こえのいい政策や、沖縄基地も他島を探すとか、中国との海域問題も仙谷長官が隠蔽しようとしてsengoku氏にユーチューブで暴露されるなど、これら全て自民党が正とするものへの野党の反から政権奪取後の合でヘーゲル的理性社会をいちおう目指したものである。しかしこれらは本当に理性的なのか? 

 

  実際は失敗続きでまた政権がひっくり返ったように、ヘーゲルマルクスの理性はこと人間社会に関しては完全ではなく、だから計画経済は危険だとするのが英米系哲学の立場なのである。そこで安倍総理アベノミクスを掲げて競争経済活性化を目指した。

 

  現状ではアベノミクスもイマイチで、国民の体感ではずっと不景気のまま、給料が上がらないので少子化に歯止めがかからず、すると安倍は61万人の中高年の引きこもりや一生結婚は無理な派遣労働者は放って、外国人労働者を大量に入れて現場作業という名の奴隷人足を賄おうとする。

 

  私は野党には自分達の哲学的ルーツを遡ってほしく、与党にはもう新自由主義への盲信から脱却してほしく書いている。

 

  改めてヒューム哲学は、印象からできた各単純観念を観念連合して複合観念ができることに着目して宗教や伝統を観念連合に過ぎず絶対ではないと崇めず退け、より良い複合観念のため実験科学や競争経済や議会政治を重視したが、私は観念連合の補集合に着目し、同時に生じる観念分断を見るべきと主張した。

 

  これをカントは二律背反(世界は有限である、無限である等)と言い、フィヒテは自我と非我と言い、ヘーゲルは正と反と言い、キルケゴールヘーゲル的理性と実存主義の単独者と言い、ニーチェアポロン的とディオニュソス的(秩序と陶酔)と言った。言い方は様々だが、観念連合と同時の観念分断と言って間違いない。そして観念分断は単独者に限らず複合観念の補集合的な複合観念や単純観念であり、単純観念の1つに実存主義の単独者がある。

 

  だから野党は、与党に絡む分野を狭く限定せずに拡大し、政権交代後も安易な政治を行わないこと。与党は自分達の補集合にもっと目を向けないとこれも狭量になって、多かった支持者さえもいずれは減らす危険があることに注意してほしい。当たり前な話だが。