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(直虎)ラスト氏真がおかしい今回

 ある書き込みで、直虎は井伊を潰したが直政は建て直した、とあった。

 

 一見そう見えるが、直虎の時の上司は今川家で、直政の時の上司は徳川家、という点がまず違う。もしも直政の上司が今川家で家康ではなかったら、小姓になることすらないし、評価されないままだったろう。

 

 直虎の時の今川家は、現代でいえば老舗のブラック大企業。井伊家の支店長は代々その謀略で消えていった。直虎もハメられかけたが、今川ブラック企業はボンボンの若社長が武田カンパニーに敗れ、なんとか助かった。

 

 そんなボンボン元社長の氏真が、今回は最後に登場した。まだ出る意味があるのか? 相変わらず女性脚本家の意図がよく見えない時がある。今さら家康が氏真を頼るのか? 史実の記録もないし、その他の証拠もない。

 

 そんな氏真が出てくるシーンで締めくくられると、今までの家康の決定に生母お大が絡んでいたことも信康をめぐる疑惑の全ても嘘くさく見えてしまう。

 

 もちろん、信康捕縛の場に直虎が居合わせる訳がない。どうしてもそうしたいなら、居合わせたことで次回以降、直虎や直政に大きな変化をもたらせる構成にするべきである。

 

地方活性化のためにも循環型システムを

 日本海側のある地方に行くと、空き地に錆びた滑り台が放置してあるのをよく見た。何年も誰も気にしていないのか? 

 

 おそらく、日本海側に限らず、また滑り台に限らず、たくさんの錆びた物が公然と放っているのだろう。割れ窓理論によれば絶対に良くないはずだが、気持ち的にも予算的にも余裕がないのか?

 

 そこで提案なのだが、こういった放置案件の報告、検討、撤去、交換にも経済上の需要があると考え、そういった産業や資格者の育成を活性化してはどうだろうか?

 

 これこそリサイクルに限らない本説の循環型社会なのだが、うまくいけば螺旋状に良くなっていく。地方に人口も増える。

 

 そもそも循環型社会の江戸時代には地方にも活気があったのだ。現代の経済方法だから太平洋側に人が偏った。こちらのコンビナートも今や錆びまくってきたが。

 

 

(この声を君に)大成功したドラマではないか?

 7話も名作だった。

 

 決してイヴァンカ・トランプのような美女ではないはずの麻生久美子が、ここでは高嶺の花のような美人に咲き誇る印象を確かに与えている。「泣くなハラちゃん」の時もそうだったが、こんな特殊なヒロインが物凄く似合う女優なのだ。他に代わりはいない。

 

 そして竹野内豊もどこからどう見ても数学者にしか見えないほどの芸達者であり、その堅物が徐々に軟化していく絶妙な加減も天才的に演じきっている。他の豪華な役者陣(柴田恭兵平泉成ミムラ杉本哲太他多数)を脇役に追いやれる実力は確かにある。

 

 筋書き自体は朗読会が主戦場のせいか地味なのは仕方ないが、深夜に酒を飲みながら主役2人の真の実力を鑑賞するだけでもう十分な気がする。たぶん次回最終話で穂波の離婚は覆らないし江崎京子は穂波とくっつくことはないはずだし、そうはいっても何か教えられることの多い内容になるとは思う。

 

 現実の周辺の朗読会に江崎京子のような先生なんて絶対にいないはずだが、むかし両さんが亀有公園前の派出所にひょっとしたらいるかもしれない期待と錯覚を抱かせたように、各レビューの多数の好意的なコメントにあるように、もしかしたらそんな魅力的な先生が意外と近くにいるかもしれない思いを視聴者に与えただけでも大成功だと思う。

 

 エンディングのJUJUの歌も相変わらず良かった。

 

 

 

ルールを守るからルールが増える逆説

  神戸製鋼の違反についての記事で、「そもそもルールが多すぎる」というコメントが上位にあったが、確かに最近は特にどこもかしこもルールが増えてきている。

 

 なぜルールが増えたか? 建前上は事故や問題防止のためと言うだろう。しかし、このコメント賛同者たちが言いたいことは、ルールが増えたからさらに問題が起きたのだ。守るべきルールが闇雲に増え、どちらかを守ればどちらかを破ることになる。例えば時短を守ってるか管理表を毎日提出しろと言われた作成者が時短を守れなくなる。

 

 これはルールを出す方が悪い。考えずにルールを出し過ぎる。良い例では、新しいルールを守らせるために実際的な補足を加えたり、古いルールを公式に引っ込めたりする。

 

 考えずに情念の赴くままルールを増やし過ぎた行き着く先は、反乱や革命もあり得る。歴史上このパターンは多く、結局バカな王や皇帝を取り替えるしかなくなるのである。

 

 では繰り返しになるが、なぜルールを増やすのか? 歴史や周りの現実を見る限り、逆説的だが、皆がルールを守るからと言える。誰もがルールを守っても事態が良くならないと思えば、これも守るだろうと、さらにルールをつくり、当たり前のようにルールが増える。

 

 もしも野蛮でルールを誰も守る習慣がなければ、ルールは増えようがない。

 

 だからルールを今後も守り続ける限り、明日も明後日も来月もルールは追加される。そしていつかは、ルール破りが出て来る。彼に悪気はなく、まさに非自発的違反者といえ、ある意味かわいそうな犠牲者である。それは中央から離れた遠方であったり、新人であったり、または時代遅れがちな老人であったり、あるいは真っ直ぐな正義感であったりする。

 

 ベストなのは、ルールの数が適度で、内容が適切で、あると誰もが助かり、まともな人が違反者にならないことである。

 

 そのためにも、ルール作成側は良いブレーンを揃え、適格な判断を行わなければならない。そのためにも議員や役人、企業幹部の現代的な公職追放か自らの考え直しが必要なのだが、そこに動きが無ければ、ルールをただ皆が守るだけでは逆に事態が悪化していく。

 

 註:言いたいことはもちろん「ルールを破れ」ではなく、「ルールはよく考えて出せ」である。よく考えてルールを出せず二次災害を起こす場合はそれこそルール違反に当たる。新法を追加して事態が良くならないことも同じ。良くならないのに新法を引っ込めないことも同じ。そもそも新法を出す立場で良いのかという問題になるし、周囲も何も声を上げなければ責任は同様にある。

 

 

資格ビジネスを循環させる試案

 そういえば今まで資格ビジネスの話が抜けていた。例えば昔とった資格の内容が古すぎて現代に役立たなかったりする例はよくある問題点だと思う。

 

 話を本ブログとメインサイト(ツインサイバーシステム)で説く循環型経済から書く。まず、「衣食住✕衣食住」の9業界で「衣の衣」はいわゆるモード業界、ファッション業界としてきた。その循環は、

 

 「インストラクターが教え、教え子がコンテストに出て、コンテストの結果をメディアが報じ、報道を見て評論家が分析し、分析結果をインストラクターが採用すると循環する」ものだった。

 

 しかし、実際のモードやファッションは世界のどこかで今年の流行が決められて一方的に広がっていく直線型であり、他の経済分野と同じく資源(枯渇)のことも環境(汚染)のことも考えられていない。大量生産大量消費を実現するためのモードなのだ。

 

 それでは4者交換(カルテットエコノミー)は、現実には難しいのかもしれない。

 

 ただし、インストラクターという職業はスポーツや資格ビジネスにも多い。

 

 インストラクターに教わった生徒は資格試験に挑戦する。そこにカネのやりとりが起きる。試験結果は出るがそれをマスメディアは特に報じてはいない。そして資格は一度とれば一生ものだったりする。

 

 日本では資格ビジネスは一見盛んに見えるが、問題がなくもない。冒頭に述べた通り真面目に見直せば、学んだ時のテキストが古いと現在に役立たなかったりする。安く簡易に更新できれば良い。また、インストラクターの教育も古かったりする。

 

 もし本当にその分野の発展を望むならば、資格ビジネスを循環させ、「インストラクターが教え、教え子が受験し、受験結果をマスメディアが報道し、報道を受けて教育方法を評論家が見直し、インストラクターが採用する」または、資格内容を変えていく。

 

 この循環を推進するには、一見循環とは無縁なはずの国家、機関による統制も必要で、中央機関が吸い上げと放出を適度に行ってこそ循環が徹底される。

 

 

(直虎)近藤武介のエピソードは出たものの・・・

 小姓、井伊直政が初陣のとき寝所に忍び込んだ武田の忍者を斬った話はよく知られている。

 

 脚色が多い今大河でその話自体が出るか出ないか気になっていたところ、確かに出るには出た。視聴者は直政の活躍に拍手喝采だろう。

 

 しかし、伝わる話では近藤武介(ドラマでは武助)は忍者の頭領と言われ、あんなに若くはない。信康の部下として随行しているとはいえ、あんなに若ければ手柄1万石に違和感を覚える。

 

 武田忍者の頭領自身が家康を暗殺しようと近づいたところ、小姓・直政が武士らしく警戒して武士らしく気づき、武士らしく主人を守った。そして捕縛した。このように描けば、井伊直政が武士として優秀なところが際立つはずだ。

 

 しかしドラマでは、気配に気付くところまではあってもその時は仕留められず逃げられ、次に横になった際に偶然、薬箱の結び目の違いに気付き、名探偵ばりに推理し、罠をかけた。「薬担当の小姓(直政)が寝てしまって起きない。誰か薬を出せる者はおるか」と。

 

 真犯人はそんな時みすみす現れるだろうか? 忍者ならなおさら姿を隠し出てこないだろう。まるで直政に現代の警察や探偵のような要素を含ませているようだが、むしろ時代劇らしくない。

 

 ドラマの直政は今のところ好評だが、実際はもっと武士らしかったはずで、だからその後の各合戦での大活躍がある。その武士らしさ、武将らしさを抑え気味にしてよくあるヤンチャ坊主に描く意図は、主人公直虎をあくまでも引き立てるためだろう。

 

 終盤で直虎を見習って直政が落ち着いていく筋立てならまだ良いが。

 

 

学校教育に戦術の詳細を加えるべき

 偉人や英雄の伝記を読む他に、過去の戦記を知ることも有益である。

 

 勝った方の戦術がいかに正しかったか? 敗れた方の間違いは現在にどう参考になるか? 知ると知らないとでは実際的な思考に影響の差が出ると思う。

 

 戦術を説いた本は図書館で無料で読むこともできるし、書店やアマゾンにも手頃な値段で売られている。またウィキペディアにもたいていの戦いは詳しく載っている。

 

 誰の戦術がどう良いかという話はここでは割愛する。読めばその魅力や凄さが分かる。ブログで説くものではないし、多くは図面が必要である。

 

 ただやはり、戦術家としてはアレクサンダーやハンニバル韓信モルトケロンメル、ナポレオン、バトゥ、秋山真之などは一流であり、誰もが常識として知っていなければならない。

 

 もちろん現代の戦争とは技術も環境も異なるけれども、どの分野にも通じる真実が多い。学校教育でも、「カンナエの戦い」や「関が原の合戦」、「ワーテルローの戦い」などは教えたっていい。そこで生徒は、ワーテルローの指示待ち姿勢による敗北を教訓にする。

 

 戦術教育は、個人の天才の能力の育成というより、高度な戦術を用いる凡人の勇気こそ育まれると思う。