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この30年の次にカギになるもの

 空白としての平成30年間をもう少し書く。

 

 1980年代後半に発刊した「哲学思想コーパス事典」(日本実業出版社)序文には、新しい発想を行うためにはこれまでの哲学者全員について先ず知っておかなければならないと書かれており、読後私は全員の関係を非常に単純な構図にまとめた。後で分かったことだが、物質の状態と同じであり、次第に冷静になっていく認識論の過程(ソクラテス~カント)と、次第に熱くなっていく実践論の過程(マキャベリサルトル)との2プロセスが円環を成している。こうして得られる結論の1つこそ、「もう大哲学者は現れない」である。

 

 実際、1980年代にいちおうデリダたちポスト構造主義者が多少目立っていたものの、この30年間というもの、時代がこんな目まぐるしい割りには目立った大哲学者は現れていなかった。まさしく自著が予言した通りである。

 

 現れるとしたら、これまでとは違うタイプになるはずだが、今のところ、それすらない。とにかく1989年時点での上記構図で哲学思想の歴史は一旦終わりを告げたのであって、それに気が付かない小物の言論人は非常に多いものの、実際に哲学的貧困な状況は続いている。

 

 次に、上記のプロセスをサイバネティックスのモデルで表して更に分析を深めたところ、状態を良くするために必要な幾つかの結論が導き出された。私はそれが産業社会に役立つものと期待していたが、30年経った今ようやく誤りに気付いた。

 

 前回この30年間を3つに区分した最初の10年間で何が起きたか? ウィンドウズ95という新しいタイプのコンピューターが出現したのである。従来のプログラム言語だけのコンピューターと違いアイコン(絵)を用いたタイプはすでにアップル社から出てはいたが、このウィンドウズ95は世界中で使用されるに足る汎用性が高かった。こうして世界はネットワークで繋がり、表計算も文書の共有も格段にアップした。そもそもコンピューターの創始者であるノーバート・ウィーナーが考案したサイバネティックスを基にしていれば、わざわざこちらが提唱しなくとも、ウィンドウズで簡単に実現してしまっていたのである。

 

 30年の最初の10年はウィンドウズ98の普及までであり、次の10年間はウィンドウズXPで始まり、アイポッドガラケー全盛期でもあり、スマートフォンの普及直前までである。ウィキペディアにもある通り、最後の10年間はスマートフォンとユーチューブ、タブレットの時代とまとめられ、誰でも手元にパソコンのような画面とダウンロード機能を持つ端末を持ち歩けるようになった。

 

 一方、この話題以外にも30年間の中で起きた変化として、日本のグルメが世界各地に広がったことが挙げられる。元々一部の日本通の外国人にしか知られていなかった寿司やラーメン、天麩羅、うどん等が次第に知られ、特にスマートフォンの普及以後、爆発的に認知度が高まった。

 

 すると今度は、知るだけでなく実際に日本を訪れて本場のグルメを味わってみたくなるだけでなく、グルメ以外にも観光地を回ったりアニメ作品の舞台を訪ねてみたり、と大きく状況は変わっている。

 

 私は30年前に「衣食住×衣食住」で9分類した産業区分の中で、食の衣(グルメ)や住の衣(インテリア)の充実を提唱していたが、どちらも自然に実現してしまっていたのである。ちなみに食の食(食糧)、食の住(栄養、医療)となる。

 

 30年2期目の始まりは2001年1月の省庁再編だったが、この始まりこそ、橋本総理が従来に複雑化していた雑多な省庁を「国家、富、文化、福祉」の4本柱で再編すると唐突に発表したことだった。5年前の10月16日の夕刊フジに関連記事があり、ターゲットとなった役人たちは必死で犯人捜しをしたが分からずじまい。この時に載っていた写真は官邸の森蘭丸こと若き江田憲司氏で、今も政治家として活躍し、最近は国会で安倍総理のロシア訪問が多すぎる割りに成果がないと厳しく追及していた。プーチンの日本訪問が少なく対等ではないという指摘は確かにその通りで、安倍総理も答弁が少し上ずっていた。

 

 さて、話がだいぶ逸れてしまったが最後に、つまり「大哲学者はもう現れないという学問的な限界が30年前に起きていた」、「コンピューターの普及で産業による状態改善は30年間にできていた」の次に続く3つ目の話題に少しだけ触れておこう。

 

 私は哲学が好きならヒュームを重視しなければ本物ではないと思っており、実際同じことを言う人も多いのだが、ヒュームを重視するなら私の言う裏ヒュームの話を重視しなければならないと思っている。

 

 表のヒュームが「観念は連合する」なら、裏のヒュームは「観念は分断する」というだけの話で、両者は同時に起きる現象でありながら、誰も何故か注目しない。

 

 ヒュームは「観念は連合する」を発見して、キリスト教もただの観念連合に過ぎず、宗教が真実とする「イエスは処女から生まれた」「イエスは死んでも復活した」「イエスはパンと魚を増やした」等も観念が連合しただけだからと無神論者になり、当時激しく非難されたり、また「聖ヒューム」と落書きされたりした。もっとも、本人はこの落書きをもったいないと喜んではいたが。

 

 ヒュームの言説は近現代の各方面に強い影響を与えた。例えば観念連合が真実なら人間の認識とはなんぞやと遠くドイツのカントを刺激し、カントが見直した人間論が導き出した結論の1つ、二律背反から正反合のヘーゲル、更にマルクスへと向かい東西冷戦は今も米ロ、米中の対立に続いている。

 

 経済学的にはヒュームの葬儀委員長を担った12歳下の友人、アダム・スミス国富論を著し、規制を撤廃して市場に任せ競争させることこそ国を富ませると説いたが、これも自由な競争で観念連合を活性化させる人間論が根本にある。

 

 政治的には王政よりも、代議士たちが議会で話し合って政治を進める民主政治が、これも観念連合の観点から望ましいとなるが、こちらはヒュームの先輩であるジョン・ロックの観念連合がイギリス名誉革命の思想的支柱となった。フランスではヒュームと一時親友となったルソーがフランス革命の思想的支柱となった。

 

 他にも、より確かな観念連合を得るために実験科学が重視されたということをホワイトヘッドが説き、さらにマッハやアインシュタインもヒュームに強い影響を受けたことを認めている。アメリカではプラグマティズム(実用的な哲学)の創始者パースが、ヒュームの観念連合を判断の連合に置き換えて説いた。(肖像画と本人→類似の判断、タバコと本人→近接の判断、煙と火→因果の判断)

 

 つまり、近現代の多くがヒュームの哲学から始まっており、近現代の問題や限界もヒュームの哲学を見直すことから始めなければならないのである。

 

 そこで再度、裏ヒューム「観念は分断する」に注目してほしい。これは「観念は連合する」と同時に起こっているにも関わらず重視されてこなかった。

 

 類似の連合、肖像画と本人の場合、同時に「違う肖像画と本人」や「この肖像画と違う人」との観念分断、類似とは逆の相違が起きている。

 

 近接の場合は逆の遠隔、因果の場合は逆の意外という観念分断が同時に起きている。

 

 そして、観念連合が民主主義や自由主義を導き出した一方で、民主主義や自由主義の弊害、例えば衆愚政治や貧富の格差は裏ヒュームがカギになってくる。

 

 連合しない観念同士、水と油のように互いに連合しない独立性を持った観念とは、例えば真善美などの徳目がそうだが、生活に重要な徳目でないといけない。省庁再編が徳目を掲げてその実現のために行うと唱えた時、当時の新自由主義に毒されているメディアは「省庁再編は業務の効率化のために重要」と一斉に批判し、更に堺屋太一は次の小渕内閣で入閣して新自由主義を進めようとしたが頓挫した。織田信長楽市楽座が競争経済というだけでは上向かず、「相変わらず庶民の財布の紐が固い」と言っては月例経済文学と揶揄され、二千円札も失敗した。

 

 ちなみに反動としての彼の入閣も自著で予言した通りである。

 

 競争とは無縁なものを重視する姿勢は、最近安倍内閣が行っている感じもするが、まだまだでもある。改元に伴う10連休も働き方改革も生活視点からは程遠い。あと、足りないものの1つが高い教養である。こちらも政治を衆愚にさせないために重要だが、ほど遠い。と、いろいろ書いたが総じて言えることは新しい哲学や法則への関心が重要である。

 

  最近、セブンイレブンの店長が長時間対応はおかしいと声をあげたことに対し本社が契約をタテに押さえつけようとしたことが話題になった。契約か命か、という問題に加え、このような本社と現場の対立は割りと多い。現場を知らず独善的な本社と、時代や環境の変化を理由に本社と対立してしまう現場。

 

  これも下記サイトの「OAEIUの法則」がカギとなる。

https://twincybersystem.wordpress.com/%e3%81%93%e3%81%ae%e3%82%b5%e3%82%a4%e3%83%88%e3%81%ab%e3%81%a4%e3%81%84%e3%81%a6-2/