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(ゴチ)ビリから3番目で国分をクビにした演出

 先日、ゴチで国分がクビになったが、江角の時と同様にガチではなく演出だろう。

 

 家族がこの番組が好きで毎年毎回見ているが、いくら美味しいとはいえ牛肉や伊勢海老や蟹をずっと食べ続けているからリアクションを無理していることはよく分かる。いつぞやにどこかの高級店で食べた生ガキこそが本人にとって至高の味だとしても、番組の演出上は目の前の牛肉が最高と喜ばなくてはならない。だからゲストも演技がうまい俳優や女優が選ばれる。

 

 ゴチはガチか? 正式にはガチに見せることに長けている。

 

 今回はだいぶ前から国分のクビが決まっていたはずだ。理由はよく知られている病気か、多忙か、あるいは他か。しかし、19年もやっていれば単独クビにはなるのは不自然で、ならばビリから3番目ぐらいの位置でクビにしてやろう。

 

 という理由で、まず二階堂が女優業に専念という理由で最初に離脱。それでも2人クビとルールが変わらず、矢部とセットで国分が番組を離れた。生放送をうたったり、いろいろとガチさを演出したせいか、誰も全て演出だとは思っていない。

 

 前に江角マキコがクビになったのも、タイミング的には落書き事件でのバッシングから出演番組がゴチぐらいしかなくなったところだった。おみやルーレットで羽鳥が箱から手にした封筒は、箱に細工をして裏から入れ替えれば偶然ではなくなる。

 

 

 

ディスり記事で恩を売るのか?

 視聴率が振るわず惨敗したドラマを主演俳優や主演女優のせいにする記事がよくある。ネットの記事だとコメント欄に、「主演のせいではない。ドラマがつまらないのは脚本が悪いからだ」という書き込みが同意多数になることが多く、なおさら記事の書き手に悪意があることが分かる。

 

 主に週刊誌やスポーツ紙の主演をディスる記事の背景を少し考えてみると、おそらくこういうことではないかと思う。つまり芸能事務所同士の争いがまずある。事務所としては所属の芸能人が売れれば売れるほど売上が上がるので、ドラマ主演という狭い枠をめぐり、他の事務所のライバルにあたる芸能人には是非とも人気が落ちてほしい。

 

 そんな中、記者は「あの女優をディスる記事を書いてやりましたぜ」と、恩を売る見返りに、新たなネタをもらおうとする。事務所としてはありがたいとお礼を言い、オカネは露骨なのでネタを提供する。そのネタも記者が喜ぶことはもちろん、ライバル芸能人を傷つける噂だったりする。

 

 

 

大変革期は今

 現在がいったいどんな時代でどこへ向かっているか明快に説明できる人も本も皆無。

 

 ただ、長時間労働の禁止や社会保障の拡充などの動きの真っ只中にいると、それは長い円環的な歴史上の大きな転換なのか、否か?と思ってしまう。

 

 明治維新や戦後のGHQの時に匹敵するほどの。いや、あの時は戦争があって勝敗がついてから起きた動きだった。今回はそんな殺し合いはないから違うという向きもあろう。しかし、戦争に伴う技術革新の新しい波は、今回の場合1995年からのウィンドウズパソコン、インターネットの普及、スマートフォンの普及が当たると思う。

 

 プラトン以来の歴史を四季のように分ける見方で言うと、冷戦終焉、バブル崩壊の1990年代前半が前時代の末期、1990年代後半が技術革命の開始時期、そして2010年代後半の今が、新制度樹立期になる。新しい憲法があってもよいが、憲法改正の方法がそもそも設定ミスなので未だできない。それがなくとも、実体社会が大きく変化している。今やサービス残業も保険未加入も難しい。

 

 夏目漱石の名作「吾輩は猫である」では、大変化する明治時代を元ノラネコのイエネコの立場から叙述していたが、1980年代後半から1990年代前半の漫画「ハード&ルーズ」では、崩壊しつつある戦後冷戦体制と迫り来る新しい管理社会の境目でノラネコのような私立探偵が叙述していた。当時はパソコンネットワークがまだない。その後、原作者の狩撫麻礼はあくまでも管理外のアウトローにこだわった作品「ボーダー」を、画を担当したかわぐちかいじは潜水艦やまとで冷戦世界にとどめを刺す「沈黙の艦隊」でどちらも大ヒットした。

 

 少子高齢化や産業空洞化などが進む中で舵取りを失敗すれば衰退するしかなく、どう変化して対処するか取り組む中で、後から振り返ってみると1990年代後半から2010年代後半はインターネットと社会保障をはじめ大変革期と言われるようになるのだろう。

 

 

 

(直政)全ては最終回につながる

 名将・井伊直政の名は井伊直虎小野政次からとった。

 

 この元服につなげるために直虎と政次の物語が紡がれた大河ということか。いちおう面白いものの、南渓和尚が家康に託してそう名付けた展開よりも、万千代が望んで自ら名乗った方が良いように思われた。家康は政次をそれほど知らないはずだからだ。

 

 あと、小牧長久手の戦いで初披露となった井伊の赤備えでは、南渓の弟子の2名の僧侶が武装して従った話もあり、直政の両脇を固めることを期待した。そして秀吉に勝利する様子を幼いおとわたち4人が見つめる光景があっても良かった。

 

 それを言い出したら井伊直弼桜田門外の変までキリがないかもしれないが。

 

 

 

 

戦争は哲学史とともに進化した

1,ファランクスとプラトン

 

 ギリシャ時代の戦い方は、主に「ファランクス(密集方陣)」が用いられた。右手に槍と左手に盾とを持ち、縦数列✕横数列で密集する。理想的なファランクスは、最強のスパルタのように教育育成が徹底されたものだった。この理想に近づけようとするところは哲学者プラトンの「理想のイデアへの憧れ」にも通じる。

 

 

2,アレクサンドロスアリストテレス

 

 ギリシャを統一して遠くペルシャやインドまで征服した王はアレクサンドロス。彼は従来のファランクスに遊撃騎兵を加えたり、左右のファランクスを後ろへ引いて敵の中央が左右に引き裂かれたところを騎兵で突っ込んでダレイオス王を討つなど現実的な応用に長けていた。幼少時の家庭教師だったアリストテレスプラトンの弟子だが現実的に動植物を分類したり政治を考えるところがあった。ファランクスの応用自体はテーベの戦術家エパメイノンダスがスパルタを破り、弟子にアレクサンドロスの父フィリッポス2世を指導したことが大きい。

 

 アレクサンドロスの他、著名な古代の戦術家にはハンニバルカエサル韓信孔明、バトゥなどがいるが、いずれも包囲戦と奇襲に長けており、陣形の妙をつくる点と隙を突く点ではいずれも現実的でアリストテレス的といえる。歩兵、騎兵、弓矢、盾、槍などの時代が長らく続く中、近代になってようやく、戦争に数学を取り入れて常勝となる英雄が現れた。

 

 

3,ナポレオンとデカルト

 

 大砲の使用は中国の火薬玉に起源を持ち、モンゴルの遠征でヨーロッパに伝わった。誇り高い騎士たちと違いフランスの農家の娘ジャンヌ・ダルクは大砲を効果的に使用してイギリスに勝ち、彼女を尊敬する砲科出身で数学が得意なナポレオンによって更に角度の精度や撃つ場所などの技術が高められた。フランスでは17世紀にルネ・デカルトが現れ、数学座標や理性を重視し近代哲学の父と呼ばれた。

 

 

4,ウェリントンとロック、ヒューム

 

 ナポレオンをワーテルローの戦いで破ったのがイギリスのウェリントン。大雨が降った翌日で地面が泥でぬかるみナポレオン自慢の大砲を運用できず、地面が乾く昼まで開戦時間が延びたことが、イギリスの同盟軍プロイセンの到着が間に合い決め手となった。哲学ではフランスのデカルトに代表される演繹法に対して、17世紀イギリスのロックや18世紀スコットランドのヒュームは帰納法といい、数学以外の多くの要因から答を導き出す。

 

 

5,モルトケヘーゲル

 

 ドイツのモルトケもナポレオン戦術に疑いを持った1人だった。哲学では、演繹法帰納法の他にドイツのヘーゲルが唱えた弁証法があり、正ー反ー合で知られる。反に当たるところに新しい技術、電信や鉄道の普及があると、ナポレオン時代の進撃方法よりも、数本の鉄道に乗り分かれて軍隊を運ぶ分散進撃の方が良い。こうしてナポレオン3世を降伏させた。

 

 

6,ロンメルニーチェ

 

 19世紀ドイツの哲学者ニーチェは秩序だったアポロン的と陶酔のディオニュソス的という対置を通してヘーゲルの理性至上主義を批判し、能動的ニヒリズム実存主義を唱えた。ここにナチスの暴走が関連するという見方もあるが、当時ドイツの若き元帥ロンメルの戦車部隊の暴走によるパリ占領、そして北アフリカでの戦闘も本部を無視してニーチェ的ではある。最後は本国からの補給が追いつかず敗れた。

 

 

7,現代思想と戦術

 

 戦術がない戦争とは、考えずに情緒に左右される戦いであり、哲学のない動物的な攻防に過ぎないものである。

 動物と動物の争いから離れたものとしてファランクスが出てきた。要するに陣形が現れた。陣形と陣形の争いに対し、戦術家は奇襲や包囲などを編み出した。近代になりナポレオンは数学を採り入れ、ウェリントンは更に多数の要素を入れてナポレオンに勝ち、モルトケは鉄道や電信などの最新技術を採り入れてナポレオン3世に勝った。ドイツ方式が席巻する中でロンメルは突出した積極性で暴れ回った。

 こうした流れの中、哲学は実存主義で一区切りし、その後は構造主義ポスト構造主義などが出たものの戦術家との関連性は薄い。核ミサイルを互いに配備して発言力を強め、経済的優位に立つ戦いの中で新たな平和哲学が求められてはいるが、人類の知能の限界が近づいているのか有効なものは聞かない。

 かといって動物同士で争う戦いに逆戻りする訳でもなく、世界は次の段階がどうあるべきか模索している。哲学者ももっと発信するべきだし、哲学者に耳を傾けるべきとは思うが、この哲学者によって、かつてのように人々が一段と賢くなるような展開はまだない。

 

 

 

 

 

 

(直虎) 信長の舞いが無い本能寺

 ヤフコメには異常な直虎シンパが多く、視聴率が低い記事があると必ず「でも面白い」「視聴率は関係ない」というコメントが並ぶ。内容を批判すると感情的な反撃に遇うこともある。

 

 ただ今回はさすがにガッカリするべきではないのか? まず、本能寺をタイトルにしながら白装束の信長が出て来ない。どうでもいい家康に配膳するシーンや茶器を選ぶシーンはありながら、肝心カナメの炎の本能寺がないのだ。海老蔵の声なら「敦盛の舞い」は期待できた。

 

 そして、これこそどうでもいい龍雲丸の再登場。西洋人の尼への興味も、直虎が酒に毒を盛るのも、龍雲丸が茶屋の知らせの数分先に知らせるのも全てどうでもいい。

 

 女性脚本家がやりたい放題をやって恋愛の話題を無理やり盛り込み、視聴者が本当に見たかった信長の最期や伊賀越えをまったく見せず、視聴者目線を無視した最低の回といっていい。これで抗議をしない視聴者はそうとうのドMである。

 

 この45分をどう描くべきだったか? 光秀が愛宕山でオミクジを3回引くシーンはよく知られている話だから確かにあっても良い。次に軍勢を京都に引き返す時、史実では多くの兵が「家康を討ちに向かっている」と思っていた記録が残っていることから、兵たちがそう話しているシーンを盛り込む。

 

 そして本能寺に到着して攻める相手が家康ではなく信長しかいないと、初めて兵に動揺が走る。もはや手遅れ。主君を裏切った、と。そして二条城の信忠軍をも破ってついに、不忠者のそしりを皆は割り切る。

 

 前回の話をしっかりと続けるなら上記のようになるはずだ。

 

 

歩行ロボットが口から充電してその後・・

 人間型ロボットを造るとしよう。歩行機能や物を掴む、持ち上げる等の運動系統と併せ、目の部分にカメラ、耳に集音装置、鼻に臭いセンサー、そして捉えた情報から判断や指令を下す知覚系統を揃えるとそれなりのアンドロイドになる。

 

 ただ動かすにはバッテリーに充電することも重要だ。人間では口から食べて消化する系統があるが、このロボットは電池を持ち上げて口の部分から舌を出して充電する。更にバッテリー液が劣化すると、それを尻から排出して新しい液を補充できる。人間には消化機関と呼吸機関の2系統があるが、このロボットは電気で動く金属製なので呼吸はない。

 

 また、人間には遺伝系統と免疫系統の2つで種の保存と体外からの異物排除を行うが、このロボットも外部からの攻撃には自ら防衛し、敵が多数勢力の場合は自ら仲間を製造してロボット軍団を造る。

 

 以上は、メインサイト「ツインサイバーシステム」が説く人間の6つの系統(知覚、運動、消化、呼吸、遺伝、免疫・・・要するに衣食住)から類推したロボットの未来像である。これに7つめの系統が加わるとロボットはロボットでなくなる。

 

 それは高い理想である。もしロボットが、現在の情報から考え、判断して、他からの指示に従うことなく、ベストな理想像を描いて行動し、周りを高めていけば、まさしく人間と言える?