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正反合の「合」は観念連合の「合」か

 19世紀哲学界の巨星ヘーゲルは、世界が弁証法的運動(正―反―合)で発展すると説いた。その後の世界は確かに、技術が進んで平和も進み、理性が実現していると言えなくもない。環境破壊やテロ、いじめ等の問題は「反」としてあれど、いずれ理性はそれをも克服して「合」に至ると。

 

 新聞メディアが両論併記して中立性を保とうとするのは「正―反」を併記して読み手に理性的な「合」をもたらすためだが、朝日新聞民進党の場合は「反対のための反対」によく見える。マルクスヘーゲルを仰いだように「理性的に完成した未来」を前提に置くから無理に反を述べているのだろう。

 

 逆に「理性的に完成しない未来」はあってはならないことか、といえば実存主義者でヘーゲルを忌み嫌ったキルケゴールの「単独者」に着目してみるといい。顔の美醜や背丈の違いをはじめどうにもならないことも多く、何でも公平公正で平等という訳にはいかない。

 

 そもそも、「正―反―合」を理性的解決だけに限定するから行き詰まる。野党が政権をとっても綺麗事が通用せず再び下野するのはそのせいだ。

 

 同じく「合」という字を使っている哲学があるだろう。18世紀イギリスのヒュームによる「観念連合」だ。人間の認識活動で行う観念連合に着目すれば、キリスト教会の因果論も観念連合の造物に過ぎず、実験科学で確かな連合をつくればよい。王様の命令も絶対ではなく、議会で話し合って観念連合をつくる民主主義がよい。経済も市場競争で観念連合をより良いものにつくっていけばよい、と。

 

 だから観念連合の「合」は、ヘーゲル哲学での「正」と「反」の連合でもある。

 

 左翼的見方は決して無価値ではないが、かといってヘーゲル的理性の完成をお膳立てするほどのものではなく、あくまで見方の1つに過ぎないと謙虚であった方がよい。

 

 時代によって何が「正」で何が「反」かは違う。幕末は最初幕府が開国で雄藩が攘夷だったが、結局は開国の雄藩が攘夷の幕府に勝った。現代社会も野党が護憲で自民党改憲になっているが、天皇制は野党が女性宮家を唱え与党が男系にこだわっている。

 

 正と反というほど単純ではなく、世界は複雑に構成されている。そこに連合もあれば、私が言うように逆の観念連合の分断もある。

 

 これは「正―反―分」でもある。

 

 アリストテレスが「範疇論」で述べた範疇(カテゴリー)でもある。有名な「形相と質料」での動植物の種類ごとの違いでもある。そして前述の単独者でもある。

 

 全貌はメインサイトをどうぞ。

 

 

 

 

 

 

やせたソクラテスになるな

 哲学者たちの言葉の多くが、20年経った今では額面通り受け取れなくなる。

 

 「神は死んだ、これからは超人だ」に対して「超人も死んだ、凡人でいい」

 

 「語り得ぬものには沈黙しなくてはならない」に対して「沈黙しなくたっていい、賑やかで楽しい」

 

 今回は「太ったブタよりもやせたソクラテスになれ」を扱う。

 

 確かに太ったブタは健康的にもビジュアル的にも精神的にも良くはない。かといって痩せたソクラテスは良いのか? 彼はギリシャで、若者と対話してその中に眠る真理に気づかせる、解答法を自ら見つけ出す活動をしていった。例えば図形に線を足して三角法に気づかせた。それ自体は良いことだ。

 

 やがて、知識を商売にするソフィストに恨まれて毒杯を仰ぐ刑を受けた。

 

 解答法を見つけ出すことを手伝う彼の手法を哲学では「産婆術」という。ただし、

 

 実際の産婆は出産を手伝うが、赤子ができるまでの過程とて当然ある。ソクラテスはその段階は重視せず、出産のみだった。

 

 やせたソクラテスが良くなく、適度な健康体で良い理由がここにある。

 

 

 

 

 

 

語り得ぬものについて沈黙してはならない

 もしウィトゲンシュタインが車の助手席に座っていたら・・。

 

 長時間のドライブで眠気を催してきたら、助手席に向かって「何でもいいから喋れ」と言うものだが、あいにく彼は主著「論理哲学論考」の末尾にて「語り得ぬものについて沈黙しなければならない」と言った男だ。それが有名になった以上、語り得ることに限って喋る。極めてつまらない。

 

 「おい、あれってこの先どうなるのかなあ」

 

 「さあ・・・」

 

 過去に起きた事実は喋っても未来に起こるかもしれない話には沈黙する。

 

 「君、今は正しいことを言わねばならない慎重な哲学者をやめて、眠たくなるドライバーを助ける助手席の人になってもらわないか?」

 

 ウィトゲンシュタインは従った。そして喋った。意外と面白い。博識なだけある。そういえばこの男は、大学の哲学教授の席へラッセルから誘われはしたが、けっこう在野の職業も経験している。

 

 あ、いま気付いた。

 

 「自分が哲学者という職にあるならば」という前置きを付け加えると、確かに「語り得ぬことには沈黙しなければならない」。

 

 

(前節の)あとがき

 昔話「桃太郎」の桃が妊婦だったのではという説は以前からある。現実的な考えだと思う。

 

 ではなぜ桃太郎が村を出なければならなかったのか? 現実的に考えてたった1人で出掛けることには違和感を感じた。鬼たちが村に悪さをするなら、村人と協力して迎え撃つ手もあり、鬼たちの来襲に備えて普段から備えておればよい。

 

 ところが彼はたった1人で鬼の本拠地、鬼ヶ島に向かったという。無謀にもほどがある。

 

 実は鬼の本拠地へ攻めていった話は他にもあり、それが金太郎である。実際、酒呑童子という鬼のリーダーが潜む大江山に、源頼光率いる武士団が攻めていった。この話と桃太郎たちの鬼ヶ島行きは重なる。

 

 で、鬼とは何者か?というと、これも腕力が強く長身で天然パーマで目がギョロリとしているならば、ロシア人のような白人とも思える。ただ当時はロシア人というくくりはなく、東アジアまで来るのは黒テンの毛皮を求めシベリア大陸を横断した江戸時代の頃だが。むしろギリシャ人は孫権がそうだったように東アジアまでとどいていた。その系統か。

 

 浦島太郎の渡海伝説も海外との貿易が背景にあり、竜宮城の乙姫とは貿易で財を築いた一族であろう。

 

 これらを考えて先の「三太郎異聞」を書いてみた。

 

三太郎異聞

 昔々、ある村で悪い噂が広がった。

 

 悪い噂をまかれた「彼」は、その村にいたたまれなくなった。

 

 「彼」はいま祖父と祖母の3人で暮らしているが、実の母は自分が生まれる前に川で溺れてしまった。祖父は山へ柴刈りに行っていた。川で洗濯中の祖母はなんとか助けて家に連れ帰ったものの間に合わず、せめてお腹の子だけでもと、腹を切って「彼」を取り出した。

 

 しかし、「彼」が成長したとき傷つく噂を聞いてしまった。祖母が包丁で母を殺したと。「彼」はいたたまれなくなって、村を出ようとした。「どこへ行くのじゃ?」「おとうの所へ」

 

 祖母は吉備団子を作って見送った。途中、犬っぽい顔のはぐれ者や、猿っぽい顔の、キジっぽい顔のはぐれ者とめぐりあい、同行することになった。そうして都に着いた。都でもいろいろな噂はあれど、村と違って人が多いのでそんなに目立たない。

 

 やがて、都のカドに立て札が立った。「なんて書いてあるのじゃ?」「源頼光様が大江山に潜む鬼たちを成敗しに行くそうじゃ」「家来を募集しておるらしい」

 

 鬼は、異国から流れ着いた人らしい。当時はギリシャ人や白人もアジア地域に来ていた。浦島の太郎という男も海の向こうへ旅立って戻って来ないという。むかし金太郎と呼ばれていた坂田金時が頼光の隊に加わった。「彼」も仲間の3人と参加した。

 

 大江山の鬼退治は無事終わった。頼光一行は都に戻り大歓迎を受けた。「彼」も褒美をもらった。金時が「これからどうする?」と聞いた。少し考えたが、おとうが見つからない今、田舎の祖父母のことが心配になり、結局帰ることにした。

 

 田舎でも鬼退治の話は伝わっており、村中から歓迎を受けた。もはや「彼」は村の英雄だった。出生にまつわる噂は、「川から大きな桃が流れてきた」「おばあさんが桃を切ると中に赤子がいた」話に変わり、「桃太郎」という昔話になった。

 

 めでたしめでたし

 

 

(女性宮家)新ルールをつくりたがる愚か者たち

 「自分がルールをつくりたい」「そのルールを破った誰かを罰したい」という欲望も実在する。

 

 子供たちで遊ぶ場合もよくそんなセリフがある。大人になると分別があれば言わなくなる。国内のルールをつくるのは国民に選ばれた議員、社内のルールをつくるのは社長、結果が悪ければ責任をとる。

 

 しかし、敵国が野党を使って国内を悪化させるために、ルールを新設する場合もある。いま話題の「女性宮家」も伝統ある皇統の無価値化を狙ったものであり、気付く人は男系を養子に迎える案もあると述べている。

 

 オバマ時代のTPPも医薬や農業分野で外来種ブラックバスのようなルールを設けようとした。

 

 ルールは基本的に社会生活を良くするためのもので、民主主義や市場経済も国内に益をもたらすからこそ導入されていった。

 

 現在は、国内にも社内にも家庭内にもルールが多く、また次から次へとルールをつくるので前のルールと衝突するものもあり、真面目に守る者すら優先順位の低いルールを破ってしまう。それを罰する側もどうかと思う。ルールをつくる側が愚かだと不幸な事態が生じることになる。

 

 そういった不幸な事態を避けることを皆が分かっている所は非常に幸福だと思う。

 

 

(哲学の転回)知られずに終わってゆく

知的遊戯と言ってしまえばそれまでだが、

哲学史上の有名な言葉をひっくり返すのは哲学的に非常に意義のあることである。主なものを3つあげると、

 

1,「観念の連合には類似、近接、因果がある(ヒューム)」に対して、「観念連合の分断には相違、遠隔、意外がある」

 

2,「神は死んだ。これからは超人だ(ニーチェ)」に対して、「神は死んだ。超人も死んだ」

 

3,パースの「記号」に対して「手段」(デジタルとアナログ)

 

 以上1つ1つに詳しい説明が必要だし、他にもたくさんあるが、今回述べたいことを1つだけに絞る。

 

 ヒュームもニーチェもパースも哲学史上は非常に重要な人物で重大なことを言っていることは確かなのに、それを上記のようにひっくり返したり広げたりすることは重視しなくて良いのか?

 

 私は自分の前に哲学好きを自称する人が現れると必ず上記の話をぶつける。説明不足なのかもしれないが、たいていの人は反応しない。確かにという言葉を聞きたいが出て来ない。そしていなくなる。

 

 あと何年生きるか知らないが多分反応がないまま終わる。そして観念連合分断は消えてなくなる。超人が死んだ話もなくなる。記号論(デジタル)に対する手段論(アナログ)もなくなる。なくなって、誰も知らないまま世界は続く。

 

 大哲学者16人が整って配列されることも、ニーチェソクラテスより前のギリシャ哲学に共感した理由も、誰も知らないままになる。

 

 そんなものなのか。

 

 ヒュームの葬儀委員長を務めた12歳下のアダム・スミス近代経済学を通じてヒュームの哲学が浮上した。

 

 ニーチェには妹がいたから、この妹が兄の真価をどこまで知っていたか分からないが死後広まり、次の世紀も影響を与え続けた。

 

 パースも生前はパッとしなかったがジェームズやデューイがプラグマティズムの始祖として持ち上げたから真価が注目された。

 

 そう考えれば、はるか未来に誰か現れるのだろうか。