「群盲像を撫でる」という諺で思い出すのは、諸学問が各々この諺の通り像の耳や鼻や牙、背を個別に撫で、撫でた結果から直感して「像とは○○である」と主張している様である。
果たして像とは、細長くうねる動物か、それとも平べったくパタパタとする生物か、いや固い肌で広い範囲で何もないのか、はてさて固い骨のようで先が尖った生き物か?
一度、像そのものを目で見てしまえば、今までの各学が個別にやってきたことが馬鹿馬鹿しくなる。
したがって、先に像の全体の把握から始めるべきなのだが、どうしても各分野の権威にとって立場がなくなるので、このような全体から始める話には誰も乗ってこない。
例えば哲学の場合、人間の状態の全体を先に知れば、プラトンの主張などその一部に過ぎないことがよく分かる。
すなわち、人間の状態とはこれまで述べてきた通り、存在して、見て、興味を持って、と始まっていき、認識に至ると今度は動き、より良く動こうとし、と進んで、最後は目指す存在に至って一巡する。パルメニデスの存在論から始まってハイデガーの存在論で一巡する。
プラトンの有名な「洞窟の比喩」はその中の、見て興味を持ち、の部分に当たる。壁に映った影を現実と錯覚する洞窟内の囚人の、あの比喩である。
そして、この状態より一段進んだ状態を提示した哲学者がアリストテレスで、動物や植物、言語や政治などを分類したりして迷う状態に留まらないようにした。
その後の 哲学史は、客観的な状態のデカルトら近代認識論、理性的な動きを追うヘーゲル哲学、そして実存主義を経て再び存在を問い一巡する。
前回までの動画をもとに改めて言うと、プラトンの「洞窟の比喩」は、見る状態に直感心機能が関与して、興味を持つ状態に展開した段階の話である。
経済学もプラトン同様、手持ちのモノが変容し変わる状態に、直感心機能が関与して不足を思う状態から始まっている。これが初期の経済学者、フランスのケネーが提示した「経済表」である。
そして社会学もまた、互いに自由な者同士がいると直感心機能が関与して、危機を思う闘争状態になるという、ロックやホッブスの議論から始まっている。
全体を先につかめば、各部分の正しい位置が分かり理解が進むのに、現状の教本では、プラトンの比喩とは、ケネーの経済表とは、ロックやホッブスの自然状態とは、と個別に解説し聞き手は難しく感じている。