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欧米日が再び組むようになった

  1980年代まで、日本経済は右肩上がりだったが、これを快く思わなくなった欧米は盛んに牽制するようになった。通貨や制度、貿易バランスなど多方面に渡るが、その1つに中国や韓国へのテコ入れというものがあった。

 

  お陰で中国も韓国も経済が上向いて豊かになる一方、日本はといえば、何の手も打たなかった訳ではないが、自動車や家電などの大企業が振るわなくなり、工場閉鎖に追い込まれていった。本題から少し逸れるが、それでも高い退職金を払うので工場や役場の社屋は壁も柱も廊下までペンキが剥げて汚いままで、残された若者の労働環境よりも、長年働いた世代を優先している。その金で投資や消費をしてもらう思惑もあるみたいだが。

 

  さて、本題に戻ると、現代は中国や韓国の台頭に欧米が牽制を始めている。昔の日本への時と違い、中国も韓国も文化や制度が欧米と違い過ぎることが要因にもなっている。中国は一党独裁体制、韓国も歪んだ歴史観を持ち親日罪という罪まである。こんな国が経済的に優位に立つと、世界の民主主義にとって脅威になる。そこで欧米は、中韓を牽制するとともに、同じ価値観を持つ日本へのテコ入れを考え始めた。

 

  そもそも日本はアジアの中で先駆けて欧米化ができた国だったが、その要因を封建制度識字率、米相場、工業技術などに求める中で、欧米が誇る近代哲学思想を的確に翻訳、理解したことも挙げられる。欧米はキリスト教の伝統に反発する形で哲学者たちが人権や平等、公正な競争などを確立していったが、日本も神社仏閣を尊びながらも無神論と言われるぐらい合理主義とバランスをとっていた。

 

  結論に入るが、かつて欧米が中国や韓国にテコ入れした時に、文化や制度の重要性を二の次にしていたことが間違っていたのである。経済だけ豊かになっても、その財力や権力で他国や他民族、自国内でも横暴を行う。欧州の中でも歴史的に大哲学者を出さなかったロシアはその先例であり、今だに独裁者がいる国々は例外なく哲学思想に弱い。

 

  再び欧米と日本が手を組むようになった先には、狙い通り中国や韓国が振るわなくなるかどうか。日本は昔のように傲慢にならないことが肝心だ。

 

日韓問題が人材を輩出しているとは??

  少し前まで、安倍総理の後は誰か総理になる人はいるのか、真面目に心配していた。安倍氏は確かに政治家一家の出身でボンボンだったが、一期目であまりに「美しい国」を連呼し過ぎて苦手な経済と距離を置いたことから敗北し、野党になった期間に鳩山宇宙人政権の大失政を見て大いに反省し、2期目はアベノミクスを連呼して長期政権になった。

 

  しかしながら、後続の育成が全然できていない。そもそも安倍氏自体、親分肌でもなく子分がいない。このままだと唯一目立っている小泉ジュニアがまさか総理になるのか? と本気で心配していた。それぐらい政治家が小粒化している。小粒化の原因は選挙制度だと池上彰氏は言うが、ではこのまま大粒の政治家は出てこないのか?

 

  その懸念を吹き飛ばした事案こそ現代の日韓摩擦だ。連日この話題でネットも大賑わい。そんな中、河野太郎外務大臣や世耕経産大臣、菅官房長官など従来とは異なる強い姿勢を示す政治家が台頭してきた。

 

  もしかしたら将来、河野総理や菅総理などが現実になるかもしれない。

 

 

知識人受難の時代

  インターネットがない1990年代前半までは、知識人は出版社から雑誌や本などの媒体でよく登場していた。話す内容が本当に良いのかは別にして、媒体に出ているから良いとなっていた。ちなみに哲学者サルトルは知識人の役割を重視していたが、これでプラトンが理想として失敗した哲人政治が実現すると考えていたのか? 実際の20世紀は第二次世界大戦と米ソ冷戦、ソ連崩壊とグローバリズム台頭の100年だったが、知識人は政権批判の方で少し目立っていたぐらいだった。

 

  インターネットが出て次第に状況は変わってくる。大新聞は1面トップの見出しや編集、社説などで特色を出そうとするが、ネットでニュースを見る者にとっては、読者を啓蒙して誘導する意図を感じて忌避されるようになった。さらに、コメントに誰でも書き込めるようになると、知識人が思うところを長々と述べても、誰とも分からない読み手から短く鋭く切り返され、それに「いいね」の賛同者が何万も集まったりするので、知識人としては立場がない。

 

  一昔前の知識人のヒーローたちは今も健在だが、結局かつての勢いは失っている。コメントの方が賢く、逆に愚かさが露呈するのだから、本人もさすがに気付いて、もうヤフーには載せないでくれと頼む者もいるだろう。読者がいるのかよく分からない雑誌でヌクヌクと勝手な記事を書いている昔を懐かしむ者もいるだろう。

 

  コメントする人たちも皆が賢い訳ではないし、暴論もたくさんあるが、中には感心するものも多い。これらがコメントで終わらず、もっと活かされることこそ、まさしく哲人政治になるように思うのだがどうだろう。残念ながら彼らは書くだけでそれ以上は出てこない。

 

売れ残りを活かす

  経済学の常識では、売れ残りに価値はほとんどない。しかし、茶道の創始者千利休の数ある面白い逸話の1つに、必ずしもこれにあてはまらない話がある。

 

  自分の茶器をたくさん並べて、弟子たちに欲しい物を1つずつ取りなさいと言った利休。皆がそれぞれ手に取り、最後に赤い色の椀が1個残った。誰も取らなかったため、この椀の価値は低いはずだ。

 

  しかし利休は、この赤い椀に「柿守」という名前を付けた。柿守とは、文字通り柿の木を見張る意味で、毎年秋に柿の実を収穫する際、来年もたくさん実が成りますようにとの願いを込めて、1個だけ枝に残す柿のことだ。この絶妙なネーミングに皆はあっと驚き、柿守と名付けられた赤い椀には高額の値がついたという。

 

  さすが利休、と感心だけするのではなく、現代でもコンビニで売れ残った食品の再生策にも何か応用できそうだ。

 

 

 

  

 

60点でスタートするインド

前回の本田圭佑とほぼ同じ記事を見つけた。

 

今や世界のIT大国となったインド躍進の秘密は「60点主義」にある。何でも100点を求める今の日本と違い、60点で始めるからスピードが早く、修正や改善は後で加えていくという。

 


IT大国インドの強さ「60点主義」100点でなくてもキックオフする - ライブドアニュース

 

  実際、仕事でも何でも、同じことを何度も繰り返すうちに修正点を見つけ、何ヶ月経っても何年経ってもそれは終わることはない。やがて言葉では伝えきれない、老荘思想でいうところの「道」とはこういうことかと思いながら、いろいろな場面や局面に応じて微妙な部分まで高度にこなしていくようになる。

 

  60で始め、100点には永遠に達しない。常に90点台でよい。それを100点100点というのは勘違いか道を知らない傲慢さからきている。

 

 

  

本田圭佑の革命的な指導法

  ミスに対して不寛容は当たり前な日本社会に対して、本田圭佑は逆にガッツポーズをしろとカンボジアで教えている記事があった。

 


本田圭佑が明かしたカンボジア人への仰天指導法「ミスをしたら…」 - ライブドアニュース

 

  ガッツポーズはサッカー場ではともかく他の場所、例えば仕事場では経営者からナメとんのかとなる。ケツを吹く側からすればたまったもんじゃない。だからミスをしないよう日頃から注意喚起をし続け、ミスをしたら再発防止に取り組み、ミスをした人を区別する。

 

  いつしかミスを恐れる宗教のように職場が息苦しくなり、いたたまれなくなった人は辞めて、日本に無職が増えていく。残る人もミスはするが、そこは縁故で隠されたりミスが起きにくい無難な部署に移動したりと差別も見られる。

 

  本田はミスを成長の証と捉え、ガッツポーズするほどにしないと脳は変わらないと説く。

 

  ミスをすることで脳が変わることは確かだが、フォローの仕方については我々も一工夫加えるべきである。二度続かないようにし、以前と変わらないように遇する。マスコミや保険会社を含め、何か変えていかないと日本社会全体の低下は今後も進んでいくだろう。

 

    本田自身、いろんな試合で身勝手に見えるほどのパフォーマンスでミスもしてマスコミから叩かれる時があったが、大事なワールドカップでは交代出場後の短時間で貴重なゴールを幾つもあげた事実がある。してはやらないことをせず、すべきことを彼だけが分かっていたからだと思う。ミスが少ない他の選手はこんな時に逆にしなくてもいいことばかりし、昔の日本のフォワードは無駄なシュートが多かった。

 

 

  

 

 

押印と脚本が重要なのは何故か?

 ハンコを押す行為は誰しも重要と認めている。まるい印鑑の上下の向きを老眼の目を細めてよく確認し、小さな紙の裏に指を当て、力を込めて押し付けたりするが、紙の方が上下逆なのをよく確認していないので、結局印鑑が逆さまに押されてたりしている。

 

 この押印、または外国ではサインという行為、5素サイクルでは記号化と言い換えられる。では何が記号に変わったのか?

 

 5素サイクルは文字通り5つの要素がパタパタと変わる環状のプロセスだが、その中でも「特徴」の要素が、記号的特徴に変わることこそ押印(サイン)である。

 

 5素サイクルでは6段階目の所であり、記号的特徴に換わることにより、これまでの手段的特徴は消えてなくなる。つまり今までの一連の行動は押印によって終結する。そして新しい世界(様相的対象)が広がる。つまり押印(サイン)によって世界は新しく変わる。

 

 一方、逆のパターンもある。それが脚本、台本、または設計図である。ここでは、記号的特徴が台本の完成によって消え、台本をもとにして動くように、特徴の要素は手段的特徴に換わる。そしていろいろと用意されて新しい物体的対象が広がっていく。

 

 押印と脚本を5素サイクルは同列かつ表裏のものとして扱うが、ここに衣食住を絡めると、変換的特徴と製造的特徴の2つが重要視される。両者はともに資産的対象と資材的対象に関わる。

 

 何が言いたいかというと、国富の増大は市場競争以外にも何か方法があるのではないか、ということだ。株式市場はどうなるんだとか、当然のように湧く疑問だとは思うが、この説は既存の経済学よりもポランニーの経済人類学やヴェブレンの制度学派の主張に近く、要するに新し過ぎるので長い目で見守っていきたい。押印や脚本に当たる所は、例えば実った果実の収穫や、受領直後の包装紙を破る行為だと思うが、今日は取り合えずここまでとする。