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知識人受難の時代

  インターネットがない1990年代前半までは、知識人は出版社から雑誌や本などの媒体でよく登場していた。話す内容が本当に良いのかは別にして、媒体に出ているから良いとなっていた。ちなみに哲学者サルトルは知識人の役割を重視していたが、これでプラトンが理想として失敗した哲人政治が実現すると考えていたのか? 実際の20世紀は第二次世界大戦と米ソ冷戦、ソ連崩壊とグローバリズム台頭の100年だったが、知識人は政権批判の方で少し目立っていたぐらいだった。

 

  インターネットが出て次第に状況は変わってくる。大新聞は1面トップの見出しや編集、社説などで特色を出そうとするが、ネットでニュースを見る者にとっては、読者を啓蒙して誘導する意図を感じて忌避されるようになった。さらに、コメントに誰でも書き込めるようになると、知識人が思うところを長々と述べても、誰とも分からない読み手から短く鋭く切り返され、それに「いいね」の賛同者が何万も集まったりするので、知識人としては立場がない。

 

  一昔前の知識人のヒーローたちは今も健在だが、結局かつての勢いは失っている。コメントの方が賢く、逆に愚かさが露呈するのだから、本人もさすがに気付いて、もうヤフーには載せないでくれと頼む者もいるだろう。読者がいるのかよく分からない雑誌でヌクヌクと勝手な記事を書いている昔を懐かしむ者もいるだろう。

 

  コメントする人たちも皆が賢い訳ではないし、暴論もたくさんあるが、中には感心するものも多い。これらがコメントで終わらず、もっと活かされることこそ、まさしく哲人政治になるように思うのだがどうだろう。残念ながら彼らは書くだけでそれ以上は出てこない。

 

売れ残りを活かす

  経済学の常識では、売れ残りに価値はほとんどない。しかし、茶道の創始者千利休の数ある面白い逸話の1つに、必ずしもこれにあてはまらない話がある。

 

  自分の茶器をたくさん並べて、弟子たちに欲しい物を1つずつ取りなさいと言った利休。皆がそれぞれ手に取り、最後に赤い色の椀が1個残った。誰も取らなかったため、この椀の価値は低いはずだ。

 

  しかし利休は、この赤い椀に「柿守」という名前を付けた。柿守とは、文字通り柿の木を見張る意味で、毎年秋に柿の実を収穫する際、来年もたくさん実が成りますようにとの願いを込めて、1個だけ枝に残す柿のことだ。この絶妙なネーミングに皆はあっと驚き、柿守と名付けられた赤い椀には高額の値がついたという。

 

  さすが利休、と感心だけするのではなく、現代でもコンビニで売れ残った食品の再生策にも何か応用できそうだ。

 

 

 

  

 

60点でスタートするインド

前回の本田圭佑とほぼ同じ記事を見つけた。

 

今や世界のIT大国となったインド躍進の秘密は「60点主義」にある。何でも100点を求める今の日本と違い、60点で始めるからスピードが早く、修正や改善は後で加えていくという。

 


IT大国インドの強さ「60点主義」100点でなくてもキックオフする - ライブドアニュース

 

  実際、仕事でも何でも、同じことを何度も繰り返すうちに修正点を見つけ、何ヶ月経っても何年経ってもそれは終わることはない。やがて言葉では伝えきれない、老荘思想でいうところの「道」とはこういうことかと思いながら、いろいろな場面や局面に応じて微妙な部分まで高度にこなしていくようになる。

 

  60で始め、100点には永遠に達しない。常に90点台でよい。それを100点100点というのは勘違いか道を知らない傲慢さからきている。

 

 

  

本田圭佑の革命的な指導法

  ミスに対して不寛容は当たり前な日本社会に対して、本田圭佑は逆にガッツポーズをしろとカンボジアで教えている記事があった。

 


本田圭佑が明かしたカンボジア人への仰天指導法「ミスをしたら…」 - ライブドアニュース

 

  ガッツポーズはサッカー場ではともかく他の場所、例えば仕事場では経営者からナメとんのかとなる。ケツを吹く側からすればたまったもんじゃない。だからミスをしないよう日頃から注意喚起をし続け、ミスをしたら再発防止に取り組み、ミスをした人を区別する。

 

  いつしかミスを恐れる宗教のように職場が息苦しくなり、いたたまれなくなった人は辞めて、日本に無職が増えていく。残る人もミスはするが、そこは縁故で隠されたりミスが起きにくい無難な部署に移動したりと差別も見られる。

 

  本田はミスを成長の証と捉え、ガッツポーズするほどにしないと脳は変わらないと説く。

 

  ミスをすることで脳が変わることは確かだが、フォローの仕方については我々も一工夫加えるべきである。二度続かないようにし、以前と変わらないように遇する。マスコミや保険会社を含め、何か変えていかないと日本社会全体の低下は今後も進んでいくだろう。

 

    本田自身、いろんな試合で身勝手に見えるほどのパフォーマンスでミスもしてマスコミから叩かれる時があったが、大事なワールドカップでは交代出場後の短時間で貴重なゴールを幾つもあげた事実がある。してはやらないことをせず、すべきことを彼だけが分かっていたからだと思う。ミスが少ない他の選手はこんな時に逆にしなくてもいいことばかりし、昔の日本のフォワードは無駄なシュートが多かった。

 

 

  

 

 

押印と脚本が重要なのは何故か?

 ハンコを押す行為は誰しも重要と認めている。まるい印鑑の上下の向きを老眼の目を細めてよく確認し、小さな紙の裏に指を当て、力を込めて押し付けたりするが、紙の方が上下逆なのをよく確認していないので、結局印鑑が逆さまに押されてたりしている。

 

 この押印、または外国ではサインという行為、5素サイクルでは記号化と言い換えられる。では何が記号に変わったのか?

 

 5素サイクルは文字通り5つの要素がパタパタと変わる環状のプロセスだが、その中でも「特徴」の要素が、記号的特徴に変わることこそ押印(サイン)である。

 

 5素サイクルでは6段階目の所であり、記号的特徴に換わることにより、これまでの手段的特徴は消えてなくなる。つまり今までの一連の行動は押印によって終結する。そして新しい世界(様相的対象)が広がる。つまり押印(サイン)によって世界は新しく変わる。

 

 一方、逆のパターンもある。それが脚本、台本、または設計図である。ここでは、記号的特徴が台本の完成によって消え、台本をもとにして動くように、特徴の要素は手段的特徴に換わる。そしていろいろと用意されて新しい物体的対象が広がっていく。

 

 押印と脚本を5素サイクルは同列かつ表裏のものとして扱うが、ここに衣食住を絡めると、変換的特徴と製造的特徴の2つが重要視される。両者はともに資産的対象と資材的対象に関わる。

 

 何が言いたいかというと、国富の増大は市場競争以外にも何か方法があるのではないか、ということだ。株式市場はどうなるんだとか、当然のように湧く疑問だとは思うが、この説は既存の経済学よりもポランニーの経済人類学やヴェブレンの制度学派の主張に近く、要するに新し過ぎるので長い目で見守っていきたい。押印や脚本に当たる所は、例えば実った果実の収穫や、受領直後の包装紙を破る行為だと思うが、今日は取り合えずここまでとする。

 

幸福の基準を集団の熱狂に置く間違い

   「良い時代」とは何を指すのか?

 

  そんな疑問を持ったのは、政府もマスコミもただ国民が「熱狂」していればいいと思い込んでいるのではないかと感じられたからだ。最近では新元号「令和」に変わる時のカウントダウンなど熱狂している様子の報道、東京オリンピック大阪万博の開催が決まった時の熱狂、お花見や花火、大ヒット映画など、確かに嬉しさ満開の表情を見ると幸せそうに見える。

 

  しかし、国民の幸福を図る基準がもし熱狂しかなければ、それは単なる誤魔化しではないだろうか?  ほんの一時的な熱狂した様子だけをメディアが切り取って、これで政治が成功したとか安定したとか、現象の1つに過ぎない。

 

  多額の金と時間をかけて準備して、何も盛り上がらなかったら失敗、熱狂したら成功、それだけの話だったら、我々は感情を振り回されている1人に過ぎなくなる。

 

  たとえ熱狂はない静かな時代であっても、高次元の人物、高品質の物、技術、深い話、厚い人情、偉大な何かに溢れていれば、「良い時代」と言えるわけで、熱狂する集団はその次に発生する現象の1つであって、現代はこれらが少なくなっているのに熱狂を主目的にしているから間違えている。

 

  高齢化社会を迎えるに当たって、様々な価値観の転換が求められているが、政府の予算を使う基準を熱狂や盛り上がりに置くのは一昔前の若者が多い頃の手法であって、成熟した社会を深めるためにももうやめた方が良い。

 

 

感情を重視する記憶術

  「感情」「記憶」で検索すると、まだ新しい題材だと分かる。というより、まだ未知の部分が多い新しいテーマのようだ。

 

  何故この話をするかといえば、先日林修氏の番組で取り上げた「定期テストのない学校」の話が再びネット上で記事になっていたからである。これはテストがない学校と勘違いされやすいが、中間テストや期末テストなどの定期的なものに意味がないとするだけで、テストそのものは単元の終了ごとに行い、再試験も行って生徒が理解し修めることを最優先にするのだという。ネット上では賛否あり、否定的なものの中には定期の方が生徒側の家庭が予定を組みやすいという意見もあった。

 

  生徒の修得を最優先と言っておきながら、その実は教師側の都合を優先している面もある。記憶の完成に本当に重点を置くなら、感情の話を抜きにはできないのではないか、というのが「5素サイクル」なので改めて冒頭のように「記憶」「感情」で検索してみた次第である。

 

  ロザンの宇治原さんもお薦めとの記事もあったが、諺の「食い物の恨みは忘れない」が最も分かりやすいと思う。すなわちミスして悔しい思いをすればなかなか忘れないのである。あまりマイナスな感情ばかりでも良くなく、良い教師とは、生徒の感情を揺さぶって面白がらせたり、惜しいと悔しがったり、あともう少しと発奮したり、そうだったんだと感動させたり、そうするうちに上達していくものなのである。

 

  ではなぜ記憶と感情の話が新しく、今まで無かったかといえば、コンピューターの創始者、ノーバート・ウィーナーが考案したサイバネティックスがそうだったように、人間を「制御装置」と「制御対象」、対象を提供する「環境」、それに装置へ関与する「プログラム」の4素で捉えていたからである。記憶する状況を感情抜きにコンピューター的に捉えられなくもないが、人間にはもう1つ、感情の要素が加わらなければ実際的でも有効的でもない。

 

  つまり、林修先生がその校長に教えを請う構図に違和感を感じ、逆に校長が本当に生徒の記憶を高めたいのであれば、林修流の面白い教え方を教師に身に付けさせるべきなのである。