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(籠池)結局「右」でカネを集めたいだけの人では?

 森友学園問題の渦中にある籠池理事長について多くの記事から見えてきたのは、

 

 自分を「右」や「保守」(を実はバカにしていて、右や保守)の運動家と名乗ることで国内の多くの保守系の金持ちから寄付金を集める商売を行ってきたかっただけの人ということだ。

 

 しかし、不況の中カネはなかなか集まらない。しつこく声をかける。安倍総理も「あの人しつこい」と嫌い、竹田恒泰はついに応じなかった。

 

 本物と思わせるため、傘下の幼稚園で軍歌を歌わせ、安倍晋三小学校と名乗ったりしようとした。安倍昭恵はおだてられて名誉職に就いた。

 

 彼が偽物に見える理由は、保守の本物に似ても似つかないからだろう。三島由紀夫頭山満安岡正篤などとは違い、明らかにオーラがない。

 

 カネが思ったほど集まらないから、国有地の異常な値引きを画策した。この時も右や保守を売りにした。

 

 田母神俊雄と同じ事案。商品の「右」がまがい物だった意味では詐欺師であり、寄付した人や入園させた人は詐欺の被害者である。

 

 

 

 

 

 

(カルテット)叩かれる多くの人たちへの応援歌

 良いドラマだった。

 

 真紀は週刊誌で話題の人になっていた。しかし3人はアパートまで迎えに行った。

 

 どこの部屋か分からないので、ストリートミュージシャンになって真紀を誘い出した。すずめの楽しんだ表情がいい。首を降ってアクティブに演奏している方が似合っている。

 

 そして、話題の悪人になっていることを逆手にとってコンサートを開く。狙い通り満員だった。

 

 真紀には様々な事情があってこうなったとはいえ、世間に叩かれている。ふと思った。いま叩かれない人なんているのだろうか。

 

 三菱も東芝も叩かれている。埼玉も茨城も叩かれている。三流企業も一流企業も叩かれている。総理も皇室も叩かれている。私も大河の脚本を毎週叩いている。石原も籠池も朴も叩かれている。

 

 松たか子は叩かれながらもめげず、3人もくじけず、そして徐々に成功していくところで終わるストーリーだった。

 

 かつては叩かれる側は悪人だった。叩くマスコミは正義だった。しかし今や半分以上、いや大半が叩かれる社会になっている。

 

 このドラマの主役4人は世間の主流の生き方ではない。それでもお互いに協力しあって道を切り拓いている。この新しい価値観、

 

 見習いたい。

 

 

 

 

(直虎)ニセ元康は要らない

 昨夜の「おんな城主 直虎」。冒頭から疑問点があった。

 

 元康が妻子を今川から奪還するために行った、松平で捕まえた鵜殿の人質との交換を、いかにも元康独自のオリジナルのようにナレーションが語ったが、実は、

 

 大昔からある手法だ。

 

 古代中国で劉邦が父や妻子を奪還するために捕虜にしていた項羽の妻と交換した話は有名。

 

 また元康自身も竹千代時代に織田の人質になっていたとき、義元の軍師の雪斎が信長の兄の信広を安生城に攻めて捕虜にし人質交換を持ち掛けた。以後、竹千代は今川の人質になった。こうした雪斎の大車輪の活躍を佐野史郎に演じさせるべきだったが、どういうわけかこの女性脚本家はまったく描かなかった。

 

 元康を格好いい頼り甲斐のある人物に仕立てたかったためなのは分かるが、人質交換劇が鮮やかに映ったのはむしろ今川が没落していたからである。

 

 こうした没落から多くの領主が離反していくと氏真が母の寿圭尼に語る場面があり、直親の離反もそのうちの1つに過ぎない。ならば、

 

 直親の暴走とする必要はない。そして、

 

 今川の鮮やかな罠を描くのもおかしい。そんな罠を仕掛けられる力があるなら今川は没落しない。クレバーな政次も追い詰められやしない。このドラマでは、

 

 なおも今川を強く描き過ぎである。本来は、

 

 政次が直親をハメただけに過ぎないのではないか? 政次に勧められて駿府へ向かった直親が山中で討たれたと。離反を考えていたため。そこにほっしゃんは要らない。

 

 NHKや脚本家は制作前に、資料が少ない分、自由度が高いと楽観的だったが、事実の点と点を結ぶ線をあまりいい加減に書くと視聴者は頭の中でつながらなくなり、作品全体に違和感を抱く。

 

 特に今川の描き方は酷く、雪斎が健在だった時の隆盛と義元のみになった時の桶狭間までの暴走、そして氏真からの没落をきちんと区分けしなければならない。

 

 在ったか無かったか分からないほっしゃんの偽元康ばかり印象に残った回だった。

 

 

 

 

 

 

 

モノマネバトルからカラオケバトルへ

 いま人気の番組、カラオケバトル。

 

 過去のビッグな歌が次々と出てくる。音程が合っているのでどれも高得点なのだが、オリジナルには似ていない。安全地帯も岡村孝子椎名林檎も・・・かつてのモノマネバトルだったら、似させた上で歌の方も上手だった。

 

 しかし、今の時代、オリジナルを知っている人はかなり少なくなった。オリジナルを観客が知っているからこそモノマネはウケて盛り上がる。若年層をはじめオリジナルを知らない中では、モノマネよりもカラオケで得点を競い合い盛り上がるしかないのだ。

 

 コロッケがモノマネ芸人のために活躍する劇場を作ったことがあったが失敗したのも、そういった時代背景がある。

 

 さらに、カラオケバトルに出てくる選手はモノマネ芸人が醸し出す負の雰囲気とは一切かぶらない別物なのも効果を増している。モノマネ芸人の多くはオリジナルのポイントをデフォルメしたり笑いに変えることでウケを狙うものの、本人には存在感が劣り、コバンザメ感がどうしてもつきまとう。

 

 一方、カラオケバトルの選手もオリジナルよりオーラは劣るものの、元宝塚や元舞台、音楽教授、オペラ歌手などその道の第一人者が多く、また将来が楽しみな小中高生も出てきて好感度が高い。

 

 ただし、

 

 トーナメントの組み合わせ方や、歌の選び方にどうにも疑問が残る。

 

 もし堀優衣と鈴木杏奈が1回戦で戦ったら、もしも過去に100点をとった曲で勝負したなら、等と思うが、おそらく番組の演出を考える人が組み合わせを調整し、選曲にも口を出すのだろう。

 

 そして機械が結果を出すという審査方法。モノマネバトルでの10名の芸能人による点数よりも公正な感じはするものの、99点代の僅差に実力の差などほとんどなく、運みたいなものだと思う。

 

 

 

(カルテット)「最高の離婚」から最終回を予想

 人気ドラマ「カルテット」の最終回を予想する記事が多い。

 

 はたして、ハッピーエンドになるのか、バッドエンドになるのか・・。

 

 そこで、同じ坂元脚本で3年前に話題になった「最高の離婚」から本作を見直してこれを考えてみたい。まず共通点は、

 

 ・男性2人、女性2人の計4人。男女2組、いや2組の夫婦。

 ・4人とも演技派。(瑛太尾野真千子真木よう子綾野剛

 ・「まき」がいる。

 ・理屈っぽく喋る人がいる。瑛太高橋一生

 ・長野県が出て来る。

 ・最後は1年後の様子で終わる。

 

 次に「2つのドラマは何が言いたいか?」だが、これも多くの人が分からないと言う。「最高の離婚」は、インパクトのあるタイトルで確かに目立ち、瑛太と尾野の離婚への経緯も丁寧に描かれているが、それでも最高という言葉は似合わない(平凡でもないが)。

 

 視聴者としては瑛太と尾野にヨリを戻してほしかったろう。本人たちにもそんな気持ちは少しはあった。しかし瑛太の長い手紙が長野へ送られ、長野では尾野が親戚の男の子とキャッチボールをするシーンで終わる。

 

 「カルテット」も、軽井沢の景色で終わり、日常シーンで終わる気がする。そこに前回話題に出たリスも登場する。

 

 東京のカップルから、家森の長い手紙が軽井沢のカップルに送られる。

 

 家森の本当の過去から始まり、包帯で顔を巻いて幹生を見舞った話や、カラオケボックスの出会いの裏側、年老いたらまた4人で演奏したい内容など。

 

 

 ・・・と、自由に書けるのも今のうちだが。

 

 前回が大人になりきれない夫婦をモチーフにしたなら、今回は夫婦にすらなれない30代の男女4人か。前回と違い今回は全員に子役時代がある点も気になる。

 

 

聖職者の条件

 たまに宗教のサイトも見る。

 

 例えば、カトリックの神父の独身についてはまだ続くのか? 3年前にイタリアで神父の独身制度緩和を求める嘆願書がバチカンに出された記事があったが、今も何も変わってないので却下されたのだろう。

 

 司祭や修道職の成り手が少なくなったからといって緩和するつもりはないとの記事もあった。

 

 独身制の理由は純潔や清貧を貫くためだという。ただ最近お寺に行くことがあり、そこの住職は妻帯者だったが、袈裟を着てイベントを行う際は厳かな雰囲気を十分に漂わせていた。

 

 むしろ独身の方が、これは実感なのだが、教会の中で何組かの信者の夫婦たちが神父を囲んでいるのを見た時、どうにも信者の方に優越感と、神父の方に劣等感を感じた。そして別の機会に彼と話をすると確かにそれはあるみたいで、その劣等感の克服のためにあるまじき方向への誘惑に駆られることもあるという。

 

 人間にとって誕生や結婚、死別はつきものであり、そこに明確な区別、記号をつけるべきならば宗教は確かに必要である。それを司る人は尊敬に値する。ただ内心劣等感に苛まれるのは可哀想なので、ここは緩和しても良いのではと私も思う。

 

 

(カルテット他多数)嘘に寛容?

 昨夜の「カルテット」。冒頭で真紀の正体は山本彰子とあっさり出てきた。

 

 正体の謎解きを行うドラマではないらしい。嘘をついていた真紀を、皆は責めず、むしろ最後の夜をビデオ鑑賞やゲームで楽しんだ。元夫の幹生も再登場し、ずっと騙されていた側なのに、真紀がそうせざるを得なかったのではないかと発言した。

 

 それでも警察だけは淡々と捜査を進め、次回は最終回。

 

 一方、その前に放送された「嘘の戦争」最終回。草彅剛は次から次へと嘘を繰り出し、とうとう市川正親を追い詰めることに成功した。印象的なセリフは、

 

 「ばーか、詐欺師が人殺してどうすんだよ」「あなたは妻や娘に30年前に起きたことを正直に話せますか?」

 

 本来よくないはずの嘘を、ここでは「嘘も方便」以上に肯定的にとらえ不正を追い詰める有効な手段としている。それでも最後に主人公は日本を離れた。

 

 今朝のニュースで中居正広が女性振付師と6年間同棲していた事実が発覚した。これもずっと嘘をつき続けていたと言える。ただしコメント欄にはそうならざるを得ない事情があったのだろうと同情するものが多かった。

 

 前回、「普段嘘つきな人が他人に嘘をつくなと命じる発言の消音効果」について書いたが、松たか子や草彅剛や中居正広の「普段の嘘をつかない姿」を前提に発覚した嘘は、同じように逆位相の波が発せられて「実は嘘つきな姿」が消音されるものかもしれない。

 

 では最後に稲田大臣に発覚した嘘。

 

 朴槿恵も普段から側近たちに何でもメモをとりなさいと喧しく叱っていたことが裏目になって証拠となり、罷免された。稲田大臣も普段の活動の一部が証拠となり追い詰められ謝罪した。

 

 誰でも通じるものではなく、通じないところには通じないだろう。