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「西郷どん」は現代に不要か?

作り手の思惑では西郷を「優しさと強さを兼ね備えた稀有な英雄(または救い主メシア)」に描きたかったはずだが、視聴者の多くはヤフコメにもある通り「浅い考えのまま倒幕を実行に移す非常に危なっかしいテロリスト」と思わせてしまったことが低迷の原因だろう。

 

かといって信長や秀吉のように大河の王道を歩む素材でもないし、現代社会に西郷隆盛とは視聴率通り不要なのか改めて考えさせられた。

 

今回の大河、奄美編を長期間描いたが、あの超どん底状態から短期間で官軍リーダーに進化した原因は一体何なのか? ドラマでは故斉彬お墨付きのレジェンドだった、有能な大久保と親友だった、等が強調され本当にそうだったかもしれないが、いずれも我々にはあまり参考にならない。

 

現代の50万人以上のニートは知力や体力は十分あれど「派遣じゃなくて正社員になりたい」とか「就職したい気持ちはある」などと言ってはいつまでも家にいて優しい親のスネをかじる状況が多く、その欠けている労働力の穴を外国人就労者で埋めたり、やがてはユニクロのように経営者がAI化を進めて物流倉庫から9割の人員を削減しようとしている。

 

西郷が流刑から戻っていい意味で冷静に全体を見れて謙虚になり社会貢献的に変わったように、ニートもその俯瞰的な視点を生かしたりもっと自分を信じて就労し、採用側もそのやる気の芽生えに応えてあげるようになれば、大河的には良い流れを与えたと言えよう。

 

残念ながら西郷どんは途中でNHK自画自賛記事や岩倉など驕った配役が目立ち余計にそっぽを向かれて失敗し取り返しのつかないことになってしまった。

 

この先、鹿児島にてまた西郷は無職になり、最期は同じく無職の桐野や村田たちと蜂起し東京の正規軍に惨敗を喫することになる。

 

もはや描き方に何も期待はしてないが、あえて私見を述べさせて頂ければ、後に必ず日本が直面するであろう日清日露など列強との国際的な対外戦争に備えて、この西南戦争児玉源太郎乃木希典東郷平八郎など前途有望な若者たちが平和ボケせず貴重な実戦を経験する場を与えてもらった意義はあると思う。

漫画の記号に誰もが納得する不思議

 例えば「ドラえもん」でジャイアンが怒った時に頭の上に噴き出す水蒸気のような記号、実際には見えるはずがないものだが、この記号があるかないかで受け手の印象は大きく違う。他にも走った時の足の後ろに描かれる記号、驚いた時の記号、なぜ我々は違和感なくそれらの記号に納得するのだろうか?

 

 この疑問を科学的に解けばイグ・ノーベル賞をもらえるかもしれないが、これをきっかけに更に根本的な問題に進みたいので、ここは実験や検証よりも哲学を選ぶ。

 

 つまり、漫画に描かれる記号の視覚情報が読み手の眼球から視神経を通って脳内に伝わっていく時、その外部からの波動と人の内部の波動とが一致していると考えられ、では始めから有るその波動情報はいったいいつからあるのかと考えると、怒りや悲しみや嬉しさといったものは動物に限らず植物にもある(植物に火を近づけると波動が乱れる)ことから、遅くとも原始生物の頃からこれらの波動は有ったのである。

 

 では感情の各波動は生物特有なものなのか? そもそも波動は感情に限るものなのか?

 

 1、2、3…などの「数」も目の前にモノとしてある訳ではないというのは非常に有名な話で、これも観念の1つ、すなわち波動である。

 

 また、音楽についても、実際は楽器を奏でて音波が出てはいるが、楽器を通す以前のメロディは波動的なものだろう。

 

 そして昔の人々が重視した霊的なものも、例えば観音様は観察の観という字と音という字の組み合わせだが、可視化された音となると、これも上記同様に波動的なもので、観音菩薩像という物を通すと具体化される。

 

 ところで波動とは分子や原子よりもさらに細かい量子の話になり、光子や電子などの波のレベルになる。原子や分子などからなる物質宇宙ができる以前の段階を考えれば、まだ原子や分子が成り立っていない、どんな世界なのか?

 

 おそらく、各物理定数が定まった後に物質宇宙ができたはずなので、各物理定数が定まる段階と、まだ定まらない段階とがあると考えていく。この後者の方のまだ物理定数すら定まっていない世界こそ、始源たる「混沌」のことだろう。

 

 混沌が混沌でなくなる時とは、物理定数が定まる時だ。この時、一緒にできたものの中に、喜怒哀楽の感情の波動や、数字の波動、各欲、愛や美や義などの徳目もある。

 

 物理定数の細かな数字がわずかでも違えば、この世はまったく別の世になると言われるが、定数同士、定数全体の絶妙なバランスがどこから来たのかいまだ説明できる理論はない。

 

 ただ、先に定数が決まって物質宇宙が生まれた後、温度変化に応じて固体が液体、気体へと変わっていく物質とは別に、生物とも無生物とも言えないウィルスが変化するものとして広がり、やがて単細胞生物から多細胞生物へと進む中で、もとからあった愛の波動や親子の波動などが生物の中で発動した。

 

 それは現代の私たちの中にも残っており、だから万人に共通の波動に共振させるべく、漫画の中には記号が多用されるのである。

 

 以上の話には何ら証拠はない。共感すべきものでもない。しかし、このように考えたら今のところ納得できる自分がいる。いずれまた誰かの発見や本などによって覆されるかもしれないが、この考えに今のところ満足している。

 

 

天地開闢の前に何があったのか?(無面目より)

 再び諸星大二郎の作品について。

 

 一般に科学ではビッグバンによって宇宙が始まったと説くが、ビッグバンの前がどうだったかは説かないし考えてもいない。

 

 非科学的と言われる東洋思想でも、最初に太極が生まれ、次に陰陽に分かれたと説き、太極より前は分かっていない。

 

 世界中の神話では最初に神が生まれ、次に宇宙ができたと説く。ではこの神はどこから生まれたのか?

 

 こういった疑問を持つ人は私を含め時々いるが、話し合う相手を見つけられないまま歳をとる。そんな中、鬼才・諸星大二郎はこの疑問を1988年に著した作品「無面目」で回答している。

 

 まず無面目についてだが、南極老人が東方朔に説明するシーンによると、天窮山の岩の上で深い瞑想にふけっている、天地開闢の前から思索を続けている神で、本来の名前は混沌という。すると、それに朔がかみついた。天地開闢の前からいるなんてあり得ないと。

 

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 この朔の疑問には南極老人も理解を示す。「そういうことになるな。だいたい始原の頃の神はわしら神仙の目からも隠れて普通姿を見ることはできん」「だが無面目は別じゃ。しかも天地の始まりの時から存在しているから、宇宙の秘密、天地のしくみについて知らぬことはないという・・・」

 そう聞いた朔は嬉しそうに「そんな神なら一度会ってみたいですな」と応じた。「だいたい私は宇宙の始まりについて常日頃疑問をもっていたのです」

 

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 こうして物語はスタートする。ただ今回はこの作品の紹介は行わない。気になった方はレビューを参照して購入してほしい。

 

 2人は天窮山の混沌に会う。

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 そして、のっぺらぼうでは質問し答を聞けないので、顔を描くことにする。

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 朔は混沌に質問し、古代の女媧が天地を治した時の五色の石がどんなものか質問すると、それは木火土金水の五行のことだと混沌は明解に答える。「なるほどのう」と南極老人が納得する一方、朔はどうやってそれらのことが顔がなくて分かるのかと聞くと、「目で見ずとも天地のことは五行の動きを通じてわかる。へたに目で見ようとする者こそ、物事の真実を見誤るのだ」と返す。さらに朔は、「あなたは太極から天地が生じた時からおられたといいますが、それは本当ですか?」と質問する。それに対して、

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 ここに出てきた「太極が内蔵する純粋な智」とは何か?

 

 以前から述べてきた通り、これこそ物質宇宙が生まれる前からある、波動だろう。先に波動上の混沌があって、智的に進行し、やがて各定数のバランスが生まれ、定数に基づいて物質宇宙ができていった。

 

 とどのつまり、私は諸星作品の影響を知らずに受けていたのである。

 

 

サバイバルウェディング最終回のインド行き について

今や世界経済の最重要拠点はインドという非常にマトモな視点を持ち、さらに実際に起業までして欧米や中国に対抗しようとする柏木のような若者が実際にいるのか知らないが、編集長の「大事なことは選択することより選択後の生き方だ」という言葉がこんなに皆に新鮮に聞こえ感動させられるのはなぜだろうか?

 

一昔前の「今や消費者の選択する自由の時代」と言い売れっ子になった堺屋太一経済企画庁長官になってスベりまくった二千円札や愛知博など、無意味で、日本経済を誤った方向に導いた件を思い出した。

 

その後、同じ路線を引き継いだ竹中平蔵小泉内閣に入閣し派遣労働者を増やしたが、もしこの頃に宇佐美編集長のこの言葉を若者たちが知っていたなら、彼らは選択後の強い生き方をよく考え、安易に派遣へ流れなかったかもしれない。

 

今のIT起業家の多くは孫や三木谷の系譜からであり、国は堺屋や竹中を入閣させ堀江や村上ら若手の芽を摘み取り、現代の惨状を招いたのだろう。

 

ただドラマの生瀬の通り、悪気からではなく可愛い息子に自分達のような危ない橋を渡ってほしくなく、良かれと思ってやったようだとも言える。

「孔子暗黒伝」はヘーゲル的のようでそうではない

  たまに諸星大二郎の名作「孔子暗黒伝」を読み直す。大昔の少年ジャンプになぜか、孔子老子ブッダが登場するSF漫画が数回、若き鬼才によって掲載されていた事実がまた凄い。現在は文庫化され、今なおこれに勝る漫画を見たことがない。

 

 名作というものは、半端ない深みをもつせいか、歳をとるたびに読み直して新たな発見があるものだ。この作品も、昨夜は少し上空から俯瞰して読んでみたことで新しい発見があった。著者はおそらく自覚していないと思うが、東洋の思想哲学を扱っているようでいて、実は西洋哲学にも重なる構図になっていることに気が付いたのだ。そこで「孔子暗黒伝 ヘーゲル」でググッてみると、まだ誰にも気づかれていないようなのでここに書くことにした。

 

 まず、最初に孔子が登場する。学校の教科書や江戸時代の寺子屋よりも著者はズバリと核心を突いた描き方をする。孔子とは、まさしく古代の周の政治を理想として周王朝を復活すべく唱えていただけの人物なのだ。しかしその周の政治の詳細までを孔子は知らず、ただ徳の高い周公旦のような人が南に向いて座っていただけで万事うまくいっていたと思っている。だから孔子は実際の人生では流浪の日々で政治的には成功していない。

 

 その周そのものを表すアイコンとして「赤(せき)」が登場する。漫画では古代コンピューターや永遠の肉をもつ視肉などで惑わされるが、この歳になるとそこはほとんどスルーして、周=赤だけを抽出する。

 

 次に老子が登場する。老子は少年の赤に「自分の影を探す」旅に連れていき、西方で亡くなる。そしてインドの地で赤はほぼ同年齢の少年、アスラに出会い、自分の影と確信する。アスラはインドカーストの最下層に位置して暴言ハラスメントを行う主人を殺害して脱走するが、赤は周王朝の末裔なので血統的には最上層に位置し純真無垢で対照的である。孔子の政敵、陽虎が対照的だったように、老子は、赤とアスラを対置させる。その関係はまさに、ドイツの哲学者ヘーゲルが唱えた弁証法の正と反の関係なのである。カントの頃は二律背反で止まりその先へは進まなかったが、ヘーゲル止揚(アウフヘーベン)を重視し、正と反の後に合がくるとした。この哲学を日本で最初に注目したのは仏教関係者だった。

 

 漫画でも、赤とアスラは、入滅寸前の老ブッダによって遠い別次元を浮遊した後、半身ずつが合体した主人公「ハリ・ハラ」となった。

 

 ヘーゲル哲学では、弁証法的運動を歴史は繰り返して、理性は絶対的になっていくと唱えた。確かに、これまでは最高と思われた因果律が新たな現実に直面して崩壊した後、さらに強固な因果律へと進化することはよく分かる。

 

 しかし、ヘーゲルが夢見た遠い先の理想は、マルクス共産主義社会として夢見たものの、若い諸星自身あまり期待してはいなかった。ブッダも「何もない」と言い切り、ハリ・ハラも救世主にはならなかった。奇妙なルックスからインドでは人々が熱狂したが逃げ出し、インドネシアでは伴侶を得て初めて安息の日々を覚えたものの、女は神への献上品だったため犠牲になり、怒ったハリ・ハラはそこでも皆を滅ぼして北方へ移った。日本では部族同士の争いに巻き込まれ、最後は諏訪の湖に皆と一緒にいなくなってしまう。

 

 西洋哲学でも、ヘーゲル的な見方に徹底的な異を唱えたのが実存主義哲学であり、キルケゴールニーチェハイデガーサルトルなどだった。諏訪の湖に現れたフツヌシが、孔子の政敵の陽虎だったこともここで分かる。反は個として永遠にあり続けるのだ。

 

 ヘーゲルは同一性を重視する先輩の哲学者シェリングに対し、「全ての牛が黒くなる闇夜」と批判し、段階的に理性は発展すると楽観したが、現代なお、共産主義でも資本主義でも良くなってはいない。科学や技術は発展すれど、闇夜もあり続ける。孔子暗黒伝の暗黒も、孔子(正)の反という意味だけでなく、シェリング的な暗黒なのである。そして著者は次作、「暗黒神話」を書いていく。こちらは理性ではなく、徹底的に「個」を描いている。8つの紋章を持つ選ばれしアートマン。蛇やらタケミナカタやら、いろいろ惑わせるオプションに富むけれども、個の話で間違いなく、そして最後に弥勒菩薩を出して究極の個で締めている。

 

 最後に付け加えておきたいことがある。「孔子暗黒伝」日本編に出てきたオモイカネである。仮面の下のその顔は非常に賢そうな老人だった。バランス感覚に富む判断をするこの老賢者こそ、著者が仏陀よりも、当然孔子老子よりも期待した存在なのではないか。オモイカネとは、古事記に登場した知恵の神であるオモイカネノミコトなのだが、著者は実在した人物と考え、熱狂する部族たちの中で1人だけ冷静でいる役割を与えた。その会話の相手は、これも孔子よりも賢そうな顔回である。結局、ハリ・ハラを含め誰もが闇夜に埋没する中で、たまにいるマトモな人が実は役に立っている。先日迷子を発見した老ボランティアの判断もマトモだったし、全土が停電した北海道で自家発電し温かい食品を提供したセイコーマートもマトモだった。我々は部族の慣習に従いつつも、一方でオモイカネの系譜も必要不可欠であることを忘れてはならない。

 

 

 

 

スポーツ協会会長の問題とニーチェ哲学の限界点

  今年になって、誰もがご存知の通りスポーツの各界で会長の問題が噴出している。

 

  1つめは、大学のアメリカンフットボールの試合で日大幹部でもある内田監督が選手に反則行為を強制して相手選手にケガを負わせたものの、日本大学トップの田中理事長がすぐには出てこず、やがて絶対権力者ぶりが世間の知るところとなった。

 

  2つめは、日本ボクシング連盟の山根会長が長年アマチュアボクシング界に君臨し、奈良判定と呼ばれる不正な試合や、元五輪金メダリストの村田諒太選手への圧力などが挙げられ、更にインタビューのたびに滅茶苦茶なコメントを発して世間が呆れるところとなった。

 

  3つめは体操の世界を長年牛耳ってきた塚原会長夫妻が、これも女子体操選手に対し、五輪に出られなくなるなどと圧力をかけてコーチを辞めさせた問題で、最初は選手が全部嘘を言っていると全面否定したものの、世間が騒いだためか一部否定に変わり、最初の発言は何だったのかとなっている。

 

  共通点は、3つとも「会長は自分がいなくなったら協会は何もできなくなると思っている」、「若い選手が勇気を出して記者会見に臨んで立ち向かった」、「スポーツの世界である。他のスポーツも似たようなことはあると思われている」。

 

  これらのことから、様々な評論が出てきているが、私はスポーツということから哲学者ニーチェを思い出した。「ニーチェ 塚原夫妻」で検索してもヒットしないのでこの視点からの分析はまだないようだ。

 

  19世紀ドイツの牧師の家に生まれたニーチェは、現代に多大な影響を与えたと言われている。多くの名言の中でも「神は死んだ」は最も有名な1つであり、解説するまでもなく宗教に関心が低下した現代人の実感するところである。そして神に代わりニーチェは「超人」を据えた。ギリシャ彫刻の肉体美がルネサンス期に再評価された通り、現代人も筋肉隆々として記録を更新する若者に憧れ、褒めあげている。最近では野球の大谷翔平が最たるところだ。

 

  ニーチェが存命中ここまで予見していたかは不明だが20世紀になって、特にスポーツで超人は目立った。マラソンやサッカー、テニス、陸上、相撲。

 

  しかし、ニーチェは神に代わる超人の登場までは思考できても、その後のことまで思考を延長できていたのかどうか。

 

  スポーツの各協会の会長、特に長年君臨した絶対権力者の会長は、選手よりも強く、協会幹部をはじめスポーツ関係者は全員がひれ伏し、反抗できず、選手ですら生殺与奪を握られている。

 

  こうした状況に反旗を翻す手段として日大宮本選手は個人的に記者会見を開いたわけだが、内田監督までは及んでも田中理事長は依然君臨し続けており、たとえ日大ブランドが低下し、名門アメフト部がほぼ崩壊しても絶対安泰を維持している。

 

  つまり、表面的には超人の時代ではあるものの、実は超人が超人であり続けることは非常に厳しく、短期で終わる者も多いし、その割りには協会会長の方がまさに「神」と呼んでいい絶対的権力者の位置に居座っているのである。

 

  神は死んでいない。

 

  宗教がその非科学性で廃れ、聖職者に魅力がなくなって後継者不足が深刻化する一方、スポーツの世界は超人の活躍で支えられ、協会会長は「神」となって統治するようになった。しかし会長とて所詮は人間。好き嫌いで人事が決まったり、老化すると余りにもおかしな判断が起きるようになった。それでも協会関係者は神を失っては何もできないのでおとなしく従う。そんな構図だ。

 

  この構図は、スポーツ以外にも芸能はもちろん、政治経済の職場でも散見される。そのような所は当然、かつての宗教と同様に近代的でなく問題が多い。

 

  戦前の日本は天皇を神として軍部が暴走して焼け野原になったと言われるが、戦後の連合軍による政治経済の公職追放を経て若手が台頭し、奇跡の復興を遂げたことから考えると、神は天皇以外にも各公職にたくさんいて問題山積だったのではないか。

 

  そう考えると現代の老害でもある各「神」も追放すべきではあるが、それができない。まずはニーチェ哲学を思い出し、これとてニーチェを崇めるところで止まってはならず、19世紀ならではの限界点を見極めて今後に思考を延ばさなければならない。

 

 

 

 

幕末のヒーローがゴジラ、ウルトラマン、仮面ライダーになった

先日の「西郷どん」で、フランスの黒船が神戸に現れ、関西各地が大騒ぎになるシーンがあった。このシーン、絶対に見たことがある。

 

東京湾に現れた黒くて大きなゴジラ、東京中が大騒ぎするシーンとダブる。そう、伊豆浦賀沖に現れたペリーの黒船は、ゴジラの登場と重なるのだ。

 

太平の 眠りを覚ます 蒸気船(お茶のジョウキセンの意) たった四杯で 夜も眠れず

 

ではゴジラを誰がどう倒すのか? 映画では、日本人の力で倒す。しかし、同じく怪獣が現れる人気特撮番組では、宇宙からきた優しい巨人が倒す。

 

ウルトラマンのことを、以前読んだある本では、自然たる怪獣に対する赤と銀の工業を象徴する側と解いた説を読んだことがある。

 

しかし、上記の流れに沿って言えば、もう少し違った解釈になる。大きな目を持つ大きな男と言えば、西郷隆盛そのものなのである。大河ドラマを見た人なら分かると思うが、島津斉彬に認められながらも斉彬没後は5年間も遠く南方で島暮らしを強いられ、やっと戻った時には伝説のヒーローが待望の復活となった。そう、遠く宇宙から来たウルトラマンとここも重なるのである。

 

黒船出現以来、荒れた国内を武力で鎮めた西郷隆盛は、怪獣をスペシウム光線で鎮めたウルトラマンとダブる。そして遠くへ飛んでいく。西郷も星になった浮世絵があった。

 

ではもう一方のヒーロー、仮面ライダーは何か? 1号ライダーの場合、敵のショッカーによって改造された本郷猛が脱出するシーンで始まった。となれば、坂本龍馬だろう。元土佐藩郷士が、江戸幕府の海軍操練所で操船術を修得するも、薩長側に寝返り、時には幕府の追っ手たちと派手な銃撃戦となるも逃げ切る。

 

こういった幕末のヒーローイメージが背景にあってこそ、戦後のヒーローは人気につながったのだろう。

 

ただし、平成のヒーローは若干変わる。ウルトラマン仮面ライダーも上記の趣旨とはまったく異なる路線で再度の人気を得た。この理由はまだ分析中である。かつてほどの人気があるのか今一つ分からないが、オダギリジョークウガは成功例といって良いと思う。以来、平成仮面ライダーは磐石となった。