賢者のつもり

主サイト(5素サイクル)に載せていない異説を中心に紹介します。

修復に用いた5色の石とは何か?

  古代中国の書物「淮南子」に、大昔天地が荒れた時に女媧という神が五色の石を使って修復した話がある。その五色の石とは、東洋的な木火土金水、いわゆる五行のことだというらしいが・・・。

 

  諸星大二郎著「無面目」より


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  そもそも物質は何から出来ているか? 原子よりも以前に重要なのは「微細定数」である。

 

  並木紳一郎著「超常識のサイエンス」より


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  これらの定数の、ほんの少しでも数値が違えば、世界は、宇宙は今より全然違ったものになるという。つまり各定数の値が先に決まった後で、この世は現れた。では定数の値が決まる前は、それこそ「混沌」である。この意味で真の混沌とは、物質的なものではなく多分に波動的なものに近い。

 

  波動的な混沌の中から、例えばキリスト教でいうところの神による「光あれ!」や科学でいうビッグバンのようなスタート段階があり、次に各微細定数の決定、そして物質世界ができていった。

 

  こう考えると、天地を修復する5色の石とは、念的なものを含む5つの要素だと思われる。

 

  そこで先に仮説を立てると、5つの要素とは5つの母音「あいうえお」(AIUEO)のことである。最近のブログで仮説を検証した通り、5つの母音は恒常的な安定を目指す制御回路を成している。通説では意識を含まない機械的な4つの要素からなる回路だが、本当の制御回路は5つの要素(観念、意識、自我、特徴、対象)でできている。

 

  女媧は荒れた天地を修復するために5つの母音から成る制御回路を用いて再び安定させたのである。この時、旧来の神に代わって新しく生命が生まれた。原子生物である。

 

  実験で生物をつくれない以上、他の星に酸素や水などがあろうと生命がいるとは簡単に結論づけられない。生命の謎は、神の謎や宇宙の謎と同じくらいのレベルだと思う。

 

  前回のブログでは、「~れば、~なる」という仮定形と終止形の組み合わせについて触れたが、最後に動詞にかかる副詞について簡単に述べておきたい。

 

  「早く歩く」「テキパキと片付ける」という時の副詞は、考えた後に閃いたことである。ただし「嬉しそうに歩く」というような感情的なものを除く。いろいろ考えて閃いたアイデアのもと、早く歩いたり、テキパキと片付けたりする。自分の状態の選択や他人の状態の決定の際に参考にしてほしい。

 

  メインサイトのモデルを使えばもっとスッキリする話だが、これはスライドで公開したい。

 

 

  

「~れば、~しろ」に「~れば、~する」

  コインランドリーで靴を洗っている間、スマホを開いた。仕事で使うスニーカー靴の場合、安物を買って買い換えたらいいという意見もあるが、安い靴では底が破れたり剥がれたりが多い。丈夫な物を買ってここで洗えば、40分300円で済む。

 

  昼食も最近はマーガリンが入った4個100円のパンが好きで割りと食べている。その分、浮いた金は貯金して何かもっと有意義なことに使えばいい。カップラーメンもほぼ毎日食べているが、当たりの味に出会った時の幸福ホルモンの分泌量は決して少なくない。真の金持ちも贅沢な食事をせず結構ケチだと聞く。

 

  さて、今後の構想を箇条書きに書くと、

 

・「動詞の五段活用=身体の5要素」という仮説の実証に、サイバネティックスの4要素のモデルに意識を加えた5素が段階的に変わる方法を用いたことが前回までの内容だった(絵図参照)。

 

・そこにレベル0~4までを加える。例えば動詞の終止形のレベル1を「U1」と表記すれば、「U0=A1」と未然形を表せられる。

 

・制御回路は「~れば、~する」という仮定形「E1」と終止形で表し、対応する側は「~れば、~しろ」と命令形「O1」をつける。

 

・この「~れば、~しろ」と「~れば、~する」の対応は、「魚へんに弱いがつけば鰯(イワシ)と読め」、「こんなラケットを持てばこう振れ」の他に、「こんな故障にはこの工具を使え」「真夏になれば、これを飲め」「敵が下がればこれを撃て」「地下の仲間にはこれで知らせろ」など、"衣食住"に渡りいろいろある。

 

・以上がレベル1の話で、従来とは別の見方を示したに過ぎない。レベル2以降は、例えば「靴が汚れたら買い換えろ」と「靴が汚れたら洗って使え」の比較に触れていくが、文法と経済を結びつける見方なので、もっとまとめるべきか、それともブログで散文的に書いて良いものか検討中。

 

 

  

側近や幹部はボスの知識である

  国語の授業で日本語の五段活用を習った時になぜ「未然連用終止(連体)仮定命令」しかないのか? なぜ母音字「あいうえお」の5文字がそっくり使えるのか?疑問だった。今は特に疑問とは思っていない。「五段活用は制御回路の仕組みに合致する」と分かったからだ。

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  上の図で左側はコンピューターの創始者、ノーバート・ウィーナーが考案したサイバネティックスの「制御回路」。エアコンや調速機が温度や速度を一定に保つ様子や、人間が弓矢で的の真ん中を射ようとフィードバックして調整する様子に当たる。しかし人間は機械とは違う。矢が外れたら悔しがったり、中央に命中すれば嬉しがったりする意識がある。その様子を忠実に映すなら右側の図の通り5つの要素になる。これが母音字5文字と合致するのだ。
  まず自我と対象との間に特徴をつくり、フィードバックして意識を生じ、観念が関与して再び見たり行なったりする。
  「見る」や「聞く」、「持つ」、「歩く」などの終止形は目や耳、手、足などの各器官に当たる。「見て、聞いて、持って、歩いて」と用言をつなげる連用形には意識が当たる。そして「見ない」「持たない」ということは図の通り終止形がない(U0)イコール未然形(A1)であり、主体たる自我である。さらに「~れば・・なる」という仮定形は大脳新皮質たる観念に当たる。命令形と対象については後述する。

 

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 いよいよ本題だが、段階ごとに対応するモデルについて見ていく。まずは赤い円のところ。

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    上の図の右側のモデルは意識がインプットで対象がアウトプット。「よぉ~く見てください」と命じたりする。逆に左側は対象がインプットで意識がアウトプットになる。間にフィードバックを挟む。このような形のモデルはアメリ政治学会第4代会長イーストンが議会政治を表すものとして(法案がアウトプット)考案している。次は青い円の方。

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  左側の図は仮定形+終止形で、「~れば・・・る」。例えば、こんな形の文字、記号、音、声などを目や耳などの器官で受ければ、こういう意味とする。また、こんな形の棒を持てば、このように振る、など。

 一方、右側の図は仮定形+命令形で、「~れば、・・・しろ」。例えば、こんな形の文字、記号、音、声などを目や耳などの器官で受ければ、こういう意味とせよ、と命令する。また、こんな形の棒、バットやラケットなどを持てば、こう振れ、などと両者は対応する。

 

 最後に、認知パターンや行動パターンは各自で違うものであり、それこそ左側の図は自己そのもの。自己と自我とは違い、自我は中心的であるのに対して、自己の方は自己紹介で出身地や現在の住まい、家族構成、趣味、特技など包括的であり、確かに上図の左側のモデルに相当する。自己紹介でその人の認知パターンや行動パターンが限定されていく。

 他方、認知パターンや行動パターンを限定させる右側の図とは知識と言える。本人の知識がどんなものかで、その文字の意味やその棒の振り方も変わるからである。

 つまり、自己と知識とは対応関係にある。これは組織の頂点にいる会長や社長などのボスと、対応する側近や幹部との関係でもある。いかにワンマンといえどボス1人では何でも出来る訳ではない。側近や幹部に質問したり提案させたりして状況を制御しようとする。だからこそ、ボスという自己に対応する側近や幹部はボスの知識とも言える。

 両者どちらも優秀だと判断も正確になるが、どちらかが劣っていれば判断を誤るし、ブラック度が高い場合はどちらも優秀ではないと言える。

 

 

5つの母音は身体の5つに該当する

 今日書いたメインサイトの方の記事に使った2つの画像ファイルを、ここでは逆に並べてみたい。

 

 まず1つ目はコンピューターの創始者、ノーバート・ウィーナーが考案したサイバネティックスのモデルの中の「制御回路」。

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制御回路

 室内温度を一定に保つエアコンや、速度を一定に保つ調速機、また弓矢で的の真ん中を狙って調整する人の様子に当たる。制御主体は上位のプログラムに従いつつ、制御対象に対して目的地通りの実現値を得るように調整する。

 コンピューターが出始めた当時と同様に、今後進んでいくAI時代にもこのモデルは参考になるだろうか? 残念ながらサイバネティックスという言葉は今やあまり聞かなくなっている。

 そんな中、上の4つの要素からなるモデルとは少し異なる、5つの要素からなるモデルが現れた。

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5素サイクルの基本

  ・・・と、いま見ている「ドクターX」風に書いてみたが、群れを嫌い、束縛を嫌うので何十年もフリーランスのままでいる。

 5つの要素とは、観念、意識、自我、特徴、対象のことだが、まずは自我と対象との間に「見る」や「持つ」などの特徴が作られ、その情報が自我にフィードバックして意識を生じ、その意識に観念が関わって制御回路をなす。

 そして、最近の研究ではこの5つが日本語の五段活用のあ、い、う、え、おに該当することが分かった。

 図の通り、「持つ」や「歩く」、「見る」、「聞く」などの終止形が身体の器官に当たる。次に、「持って、歩いて、見て」というような連用形は意識に当たる。この段階ではインプットからアウトプットまでの一方通行のままである。

 そこへ観念が関与する。「もし~れば、・・・なる」という仮定形は大脳新皮質に該当する。

 う、い、え。あとの2つのうち、未然形のあは「持たない」、「歩かない」、「見ない」、「聞かない」というように自我が該当する。主観的な動詞の終止形「やる」に対して、未然形「やらない」は自我が客観的になる。逆に客観的な動詞の終止形「冷める」に対する未然形「冷めない」の自我は主観的になる。

 最後に命令形のおは、「~を・・・しろ」というように対象が該当する。こうして5素サイクルは5音サイクルでもあることが分かる。

 4要素のサイバネティックスのモデルは5要素で進めていかなければならない。もしこの動詞を経済に関するものや政治に関するものに適用すれば、今までの考え方では超えられなかった限界を、新しい考え方で超えることができる。

 

                     メタ フィロソファーX

 

 

東京30周年周期説と15年周期説を足した結果

 このブログの第1回で紹介した「東京30年周期説」とその後に紹介した故山本七平氏の「出版15年周期説」は実は深くリンクしている。合わせて考えてみると日本の未来が見えてくる。

 

 各説の詳細を読んだ上で次に進めると、まず前者は明治維新を起点にしており、最初の30年が江戸から東京へのインフラ整備、次の30年が本格的西洋化、ところが関東大震災でいったん焼け野原となって明治の45年間と大正の15年間が終わる。これで約60年間。山本氏の15年周期説は昭和5年頃から始まって最初の15年が戦争時代、次の15年が焼け野原からの復興時代、そして高度成長時代の15年と低成長の15年が続いて昭和が終わる。

 

 平成の30年間は本ブログで入退院を繰り返す老人に例えた。事件や事故が起きるたびに制度を変えていたと池上彰氏が解説したからだ。山本氏が復興期を少年、高度成長を青年、低成長を中年に例えていたことにつなげられる。

 

 さて、もう一度東京30年周期説に戻ると、明治から数えて80年後に焼け野原になって、次が少年時代になった。

 

 では戦後の焦土から数えて80年後はいつか?  1945年+80年=2025年。今が2019年の秋なので、あと5、6年後に再び焼け野原になる可能性はゼロではないという結論になる。ただそうなることで次の少年期が始まることを考えれば悲しんでばかりでもない。

 

 第3次世界大戦などおそろしいことが起きるかどうかはまだ分からないが、この周期説をしっかりと受け止めて対処すれば、仏教でいう輪廻からの解脱のようなことができるかもしれない。

 

 いずれにせよ平成っぽさは徐々になくなっていく。

 

竹中平蔵の挑発にはまだ乗らない

新しい元号に変わって、悪評高い竹中平蔵も何かウズいてるのか記事を寄稿していた。

 

https://lite.blogos.com/article/412388/?axis=&p=2
https://lite.blogos.com/article/412388/?axis=&p=2

 

ネットの評価は記事の内容よりも彼そのものへの批判が多い。確かに、戦後新しい憲法のもと軍国主義を脱して近代の自由や平等などの理念と経済面の高度成長、一億総中流社会とは国民の中では深くリンクしていたが、やがて企業がもたなくなり、係長やリーダーに出世した真面目な社員が同僚をリストラする最前線に立たされる事態になった。

 

そんな中、正社員のリストラを必要としない人材派遣ビジネスを学問的に肯定し、政治的にも推し進め、さらには大手人材派遣会社の役員にも名を連ねた人物こそ竹中平蔵であり、だからこそブラック企業を渡り歩いていまだ低収入で独身の大多数の中高年たちから嫌われているのである。

 

その竹中が下野後しばらくおとなしくしていたはずが、また記事を書き出した。警戒感を強めるコメント者たち。かたや竹中もああ見えて実は危機感がある。彼の目算ではたとえ今が悪評だらけでも、遠い未来には学者としてよくぞ政治に挑戦したと言われると思っていた。

 

しかし、全然違う未来で、当事の竹中は本当にバカな政治をしたと評価されたら学者としても面目ない。そうはなりたくないからこそ、新元号のもと新しい思潮に危機感があり、出来ればもう出てきて、小さいうちに潰したいと考えており、だからこそこんな内容の記事で挑発している。

 

結論。竹中のように結果を不幸にさせる挑戦は不要である。

 

 

歴史の予言について

 今回はなぜ歴史を予言できるか、予言しなければならないかについて書く。

 

 1990年前後、「これから日本は悪くなる」、「デフレになる」、「自民党政権はもうすぐ終わる」と言っても誰も信じなかった。当時は日本はまだまだ良いままが続き、低成長とはいえ好景気でデフレなどあり得ず、自民党政権も強過ぎて終わる訳がないと思われていた。聞いた人はあざ笑ったり否定したりした。

 

 しかし、実際には私が言った通りになった。だからといって馬鹿にした人たちを批判はしなかった。予言を当てた人はほとんどいなかったからだ。なぜ当てることができたか? このブログの初期の頃に書いた円環史観に基づいた部分もあるし、長期政権15代説で自民党が15代に至っていたからであるが、何よりもその原因は当時の社会状況の中に歴然と見られたからである。

 

 今でこそバブル経済には負のイメージがついているが、当時の日本には「ジャパン アズ ナンバーワン」が売れていたり、なぜ日本経済は強いか、世界最強、経済は一流だが政治は三流など、政府どころか社会の隅々まで驕り高ぶりがあった。

 

 この驕り高ぶりが原因で近い将来に日本は悪くなると率直に思ったら、早々とそうなったのであう。以来30年間、平成の間はずっと長期閉塞と呼ばれる時代が続いた。そして元号が令和に変わると、特に意味もなく日本はまた良くなるという声が囁かれ始めた。

 

 最近、この願望は脆くも崩れた。東日本大震災津波で滅茶苦茶になった東北や関東が、先日の台風19号で再び多くの河川が決壊して水浸しになった。西日本とて阪神大震災と昨年の大型台風の被害に遭った。いや、九州も四国も全国どこだって被災地である。

 

 これら自然災害も国や地方の借金財政で再建もままならない。50万人以上の中高年ニートや止まらない少子化、良いものなんてほとんどないかのように見える。

 

 それでも今度は、皆が良くならないと思っている逆を張りたい。論拠となる円環史観もあるにはあるが、それよりも被災地のことを思って新天皇の即位パレードを取りやめたり、教師間の虐め問題に全国から非難の声が上がったり、韓国の暴挙に毅然と対応する姿勢をパブリックコメントのほとんどが評価したりと、良いタネは散見される。これらを失わない限り、良くなっていくと思う。