賢者のつもり

主サイト(ツインサイバーシステム)に載せていない異説を中心に紹介します。

日本人の恥の文化と韓国

  昨年から日韓の間は徴用工とレーダー照射問題で騒がしい。

 

  日本人は本来「恥の文化」があると言われ、恥たなら潔く切腹することが武士道だった。

 

  それを知ってか知らずでか、お隣の韓国は日本を恥じさせるような嘘を世界に振り撒こうとする。自衛隊が提供した動画に反論した動画を効果音を加えて作ったりしたが、これは逆効果で、世界に韓国が事実をねじ曲げる恥ずべき国であることを拡散してしまった。

 

  そもそも韓国には恥の文化はない。昔は、いやつい最近まで路上が糞尿だらけだったという。一説によるとシベリアに散在する部族を祖先とし、だから凍った肉を食べれるようエラが発達して肉食文化が栄えるようになった。

 

  要するに狩猟民が半島にいるわけで、日本人とは全く異なる民族である。

 

  シベリアの狩猟民は今も散在する。ただ彼らが国際社会の一員として国際法に則って政治を進められるかというと違う。和をもって貴しとはしない。

 

  

 

2019年は節目か?

  歴史には節目と呼ばれる出来事が時々あるが、それらはたいてい後になって分かるものであり、当時はなかなか気付きにくい。

 

  日本史では檀ノ浦の合戦や関ヶ原の合戦は大きな節目と言え、平家から源氏へ、豊臣から徳川への移行が落ち着いてからあの合戦が節目だったと分かったりする。

 

  近現代ではベルリンの壁が崩壊した1989年を節目と見る向きが多く、この見方に従うと2019年はちょうど30年目に当たる。安倍総理がインタビューで今年は節目になると答えたのは、元号が変わることからの発言と思われるものの、他にもTPPの本格始動や周辺国との国際関係も節目を連想させるものがある。

 

  ただ30年という数字そのものは、企業の寿命30年説とか姓名判断での区切りが30年、十干十二支が60年周期など何かと取り扱われている。

 

  そして実際、人生に置き換えても周期説が該当しそうな出来事が重なったりもする。気になる人は30年前、15年前、10年前、5年前の出来事を書き出して比較してみると良い。

 

  はたして2019年は、東西冷戦が終わった1989年から30年後のような何かが起きるのか、例えば東西ドイツ南北朝鮮、米ソと米中、どうだろう?  

 

食物連鎖のピラミッドと政治・経済の権力関係について

  学校で習う食物連鎖のピラミッドの図では、最終捕食者として魚類ではサメとか鳥類ではワシなどの猛禽類が頂点に立っており、実際にアメリカのシンボルもワシなので政治権力のピラミッドにも例えたりする。

 

  しかし、一番強いはずのサメにも小魚だった時代が必ずある訳で、現実には多くの上位に位置する魚がまだ幼い小魚の時に中間の魚類に補食される。

 

 これを身近な権力関係に置き換えると、例えば仕事で新しく入社した新入社員は、中途採用の新入社員も含むが、ベテラン社員に比べれば小魚のようなものである。これら小魚たちは大事に会社の戦力になるよう育成される建前だが、食物連鎖の三角形の中で起きていることと同様、補食されている。

 

  具体的にはパシリにされたり、からかわれたり、非公式な掟を押し付けられたり、ハラスメントを受けたりする。こうして小魚のうちに退職するものも少なからずおり、これらをくぐり抜けてベテラン社員になると、今度は小魚を食べる側に回っていく。

 

  ところで、お隣の韓国との関係が日々悪化している日本だが、その根本的な原因は上記の話で考えると非常に分かりやすくなる。いわゆる文大統領が就任時から掲げている積弊精算とは、前政権までに溜まった様々な膿を人事の刷新を通して解決することだが、これによってベテランの職員や軍人が大量にいなくなり、代わりに素人同然な人たちが各部署に据えられた。

 

  アメリカをはじめ日本や中国もそうだが、海外の担当者たちは皆、現在の韓国に対して、今まで長い間交渉してきた人たちはどこに行ったのか? と、首を傾(かし)げているらしい。

 

  ただ、重要なことはこれら現韓国の素人たちは能力的にはまったく小魚なのである。小魚がより大きな魚に容易に食べられてしまうことと同様、外交では怒られたり叱られ、経済では急激にガタガタにさせ再びIMFなどの下になるなどの屈辱を受け、さらに野党から糾弾され、支持率を落としレームダック化するのは避けられない。こうしてまた大統領選が行われて前の大統領が全て悪いを繰り返すのが韓国である。

 

  最後に、これは韓国だけに限った話ではなく、例えば日本の企業でもブラックな所は社長や会長の独断で素人同然の人事刷新が行われ、ベテラン社員は陥れられ、というのはよく見る光景である。そして小魚の集まりになった元大手の家電や自動車産業は買収される。

 

  きちんと弱肉強食を理解し、小魚ばかりにならないような体制づくりが大切である。

 

大河ドラマと小国の行方

  ここ数年の大河ドラマは、左右の大国に挟まれた小国を舞台にしたものが多かった。

 

  今川と織田に挟まれた井伊家の「おんな城主直虎」、武田家滅亡後、北条と織田に挟まれた「真田丸」、そして兵庫の地にて毛利と織田に挟まれた小寺家を舞台にした「軍師官兵衛」。今年の「西郷どん」については後述する。

 

  ひと昔前の天下をとった主人公の話ではなく、こうした小国の悲哀と葛藤を描く意図は、現代のアメリカと中国に挟まれた日本の状況と無関係ではないと思う。世論に多少なりとも影響すると思い、企画したのである。

 

  そもそも左右に大国に挟まれる小国は、紛争地帯であり、判断の誤りが滅亡にもつながって成功例よりも失敗例の方が多い。そんな中で真田家は兄信幸が江戸時代に生き残り、井伊家は徳川幕府重臣となり、黒田家は現代も栄える福岡をひらき成功した。

 

  一方、黒田家が仕えた小寺家は毛利についたため滅び、井伊家でも今川についた家臣はいなくなり、真田家も豊臣についた幸村は華々しく散った。

  

  ここで再び現代のアメリカと中国に挟まれた小国の話に戻すと、日本は依然アメリカ寄りに立ち続け、北朝鮮は中国寄り、韓国は文政権に変わってアメリカの言うことを聞かなくなり怒らせる話が目立ってきた。

 

  いわば日本は、戦国時代の織田徳川同盟のように、尾張の兄と慕う信長が西方面に進むため弟家康が東方面の今川や北条に対峙する形でアジアを押さえている。逆に韓国は、戦国時代でいえば官兵衛がかつて仕えた兵庫の小寺家のように、毛利から織田に寝返ると言いつつ毛利に戻ったり、織田寄りの官兵衛を幽閉したことと同じく親日親米派の人を捕縛してブレている。

 

  そして今年の「西郷どん」だが、冒頭から少年吉之助が「Kagoxima」と表記された地図の切れ端を大事に持つという創作が入っていた。これは今までの大河同様に小国日本を念頭に置きつつ、欧米寄りの姿勢を暗示している。その後、明治に変わって西洋を軽視する頑迷な朝鮮への対応をめぐって下野する話が最近あった。

 

  歴史上の事例は、小国が選択を行う上で揺るぎなく参考になる。

 

 

 

姓か、名か、の人類史

 その昔、人類はイエを大事にしていた。

 

 イエの存続のために、早くから子を結婚させ、子供を産ませていた。この時代の頃は今のような未婚者は多くなく、結婚が当たり前だった。

 

 いつの頃からか、人類はイエよりも個人の情を優先させるようになった。いつからだろう? 例えば近代革命の思想的支柱となったルソーは、若い男は年増の女と結婚し、壮年になれば若い女と結婚するのが理想的と述べたが、確かに個人の情を最優先するならそうかもしれないと思える。しかし子供のことを考えればあまりにも酷な話であり、これはルソー個人の生い立ち(スイス出身で若い時に年増の女性と交際していた)と関わりが深いだけのことである。

 

 そう、人類史は、姓を優先するか、名を優先するか、が究極の選択肢なのだが、現状ではどちらを最優先するということもなく曖昧になっている。自民党社会党共和党民主党、東京と地方、皆そうだ。

 

近現代化は確かに素晴らしいが、全面的に良い訳ではない。

 

 

 

小泉純一郎が凋落した時代が意味するもの

  第二次世界大戦のドイツは国家全体がナチスに洗脳されていた。この少し前に名参謀ルーデンドルフが著した「総力戦」こそ、これからの時代を方向付けた名著である。軍人だけが戦うのではないと。ナチスは巧みな宣伝手法で国民全体を熱狂の渦に巻き込み、そして敗戦後ドイツは狂気から目を覚ました。

 

21世紀初頭、小泉純一郎首相が絶叫した「郵政民営化こそ日本を救う」も、小泉劇場と呼ばれて国全体がおかしくなった時代だった。疑問を呈する一部の声は決して大きくならず、自民圧勝の選挙結果に愕然としたものだった。

 

そして現代、あの狂気は何だったのかというぐらい、郵政民営化で日本は良くなってはいない。郵便局も悪化して土日を休みにするらしい。小泉純一郎はいま原発反対を連呼しているがはっきり言って目立ってない。息子2人の好感度は良いものの何故か結婚しないままでおり、陰りが出てきた。そして悪名高い竹中平蔵ももうメッキが剥がれている。

 

この状況を考察するに何かが当時までとは変わったのだ。それは、メディアによる大衆操作の限界を意味している。ルーデンドルフから小泉純一郎まで続いた戦略はもはや通じない。決して悪いことではないと思う。

 

人は空(そら)に憧れるが空(くう)にも憧れる

 先月、写経を始めたいと思って書店に行くと、数ある写経関連の多くが「般若心経」で、と言うより般若心経ばかりだった。仏教イコール般若心経なのか?

 

 ちなみに写経のメリットとして自分なりに挙げられるのは次の3点。

・なぞることで心が落ち着く。

・なぞることで字がきれいになる。

・なぞることで時間をつぶせる。くだらないことに進まなくなる。

 

 しかし、仏教といえば膨大な経典があるはずだが、なぜに般若心経しかないのか? 各メーカーともつくるからには売れなければならず、そうなると一番人気の般若心経ということになるのだろう。

 

 ただ、写経をやりたい側からすれば般若心経しかない状況は非常につまらなく、最初はそれで良いものの、もっと他のお経にも取り組みたい気持ちに応えてほしい。そこで通販で観音経を購入した。1400円。筆ぺんも「筆ごこち」やぺんてるの慶弔サインペンなど良いものが出ている。

 

 本題に入ろう。お経の意味はお寺のお坊さんに問わずともインターネットで簡単に調べることができる。観音経も決して難しくはなく、観音様を念じればどんな苦境も救われる、といった意味に尽きる。ただ、そういったお経に比べれば、やはり般若心経は意味的に数段上で人気が高いのも納得できる。

 

 これは仏陀が悟った真実を一番弟子のサーリプッタに語る場面を映したお経である。その真実こそ有名な「色即是空」「空即是色」であり、この意味もネットを調べれば各宗派によって若干の違いは認められるものの非常に詳しく説明されている。

 

 それにしても、仏教はなぜ「空(くう)」をそんなに重要視するのか? 色を(しき)と読んで、無色透明な空(くう)に「むなしい」意味まで加える。世界で初めて0(ゼロ)を発見したのはインド人だが、0は空と同義でもある。

 

 インド人の特異な抽象化する思考法が中国に伝わって三蔵法師らの努力で漢字のお経になり、中国の仏教が暴君の皇帝や邪教によって衰退する(最終的には共産党によって寺院ごとなくなるが)直前に、中国語とインド語に長けた空海が訪ねて日本に持ち帰られ、日本で真言宗として発展し、やがて親鸞道元栄西、一遍、日蓮など様々な宗派が出てくるようになる。

 

 それでも般若心経の位置づけは高いままで、空(くう)は最重要視され、僧侶たちは世俗から隔絶した寺院でお経を唱えたり、修行に励んだりし、時に人々の冠婚葬祭に関わる。無宗教な人でも生死に関することは儀式でケジメをつけざるを得ず、そこには世俗的な祭司よりもプロの祭司に任せた方が良いことは認めざるを得ない。

 

 儀式に招いた僧侶は一般人よりも高い位置にある。それは政治的な高さとはまったく別次元の高さである。物理的な高さといえば空だが、僧侶の場合は空と書いて空(くう)と読む高さに近い意味で高位であり、一般人は空から遠い意味で低い。

 

 空(そら)もよく憧れられる。鳥が自由に飛んでいるのを見て自分も羽ばたける翼が欲しくなる。しかし空(くう)も同様に憧れる。これは仏教に限らず、例えば剣豪・宮本武蔵の著書「五輪書」でも、最後に空の巻があり、戦い方を説く火の巻や他流を比べる風の巻などよりも最重要視し、簡単に言えば空のように自在で最強の境地を説いている。

 

 武蔵の空と仏教の空とは全くの別物と見る向きが多いが、同じ空という漢字を使っている以上、関連性は当然ある。空気の空も同様、例えて言えば気体であり、固体や液体とも違う。本ブログでも時々触れている通り、人間の状態は冷静に思考する冷却化と、熱血的に動く加熱の中にいる。

 

 様々な看板や情報が風のように耳目に入り、それらを水のように混ぜ合わせて思考し、認識が固まると固体になるが、時に頑固でもあり、動きの中で固体は液体化し、加熱し、沸騰し、気体となる。自由な状態への憧れは、西洋風に言えば自己実現でもある。

 

 ただ仏教は、空と書いて「空しい」意味も含めている。いくら境地に達しても空しい? 悟ったはずでも空しい? 優れた書籍もお経も空しい? 偉人も空しい? 空しくないものはないのか?と言えばある。生活の中の基本的なことは決してはずしてはならない。歯磨きをさぼれば虫歯になる。

 

 生活の基本だけというのも味気なく、そこにもっと色をつけたりしたくなるし、興味は時が経つと飽きたり別の興味に移るものだが、そう考えればどの色付けも空しい。私のブログもメインサイトも空である。色即是空

 

 そして空即是色。捨て去るほどでもないが、かといっていつまでも持つものでもない。今はそんな心境である。