賢者のつもり

主サイト(ツインサイバーシステム)に載せていない異説を中心に紹介します。

姓か、名か、の人類史

 その昔、人類はイエを大事にしていた。

 

 イエの存続のために、早くから子を結婚させ、子供を産ませていた。この時代の頃は今のような未婚者は多くなく、結婚が当たり前だった。

 

 いつの頃からか、人類はイエよりも個人の情を優先させるようになった。いつからだろう? 例えば近代革命の思想的支柱となったルソーは、若い男は年増の女と結婚し、壮年になれば若い女と結婚するのが理想的と述べたが、確かに個人の情を最優先するならそうかもしれないと思える。しかし子供のことを考えればあまりにも酷な話であり、これはルソー個人の生い立ち(スイス出身で若い時に年増の女性と交際していた)と関わりが深いだけのことである。

 

 そう、人類史は、姓を優先するか、名を優先するか、が究極の選択肢なのだが、現状ではどちらを最優先するということもなく曖昧になっている。自民党社会党共和党民主党、東京と地方、皆そうだ。

 

近現代化は確かに素晴らしいが、全面的に良い訳ではない。

 

 

 

小泉純一郎が凋落した時代が意味するもの

  第二次世界大戦のドイツは国家全体がナチスに洗脳されていた。この少し前に名参謀ルーデンドルフが著した「総力戦」こそ、これからの時代を方向付けた名著である。軍人だけが戦うのではないと。ナチスは巧みな宣伝手法で国民全体を熱狂の渦に巻き込み、そして敗戦後ドイツは狂気から目を覚ました。

 

21世紀初頭、小泉純一郎首相が絶叫した「郵政民営化こそ日本を救う」も、小泉劇場と呼ばれて国全体がおかしくなった時代だった。疑問を呈する一部の声は決して大きくならず、自民圧勝の選挙結果に愕然としたものだった。

 

そして現代、あの狂気は何だったのかというぐらい、郵政民営化で日本は良くなってはいない。郵便局も悪化して土日を休みにするらしい。小泉純一郎はいま原発反対を連呼しているがはっきり言って目立ってない。息子2人の好感度は良いものの何故か結婚しないままでおり、陰りが出てきた。そして悪名高い竹中平蔵ももうメッキが剥がれている。

 

この状況を考察するに何かが当時までとは変わったのだ。それは、メディアによる大衆操作の限界を意味している。ルーデンドルフから小泉純一郎まで続いた戦略はもはや通じない。決して悪いことではないと思う。

 

人は空(そら)に憧れるが空(くう)にも憧れる

 先月、写経を始めたいと思って書店に行くと、数ある写経関連の多くが「般若心経」で、と言うより般若心経ばかりだった。仏教イコール般若心経なのか?

 

 ちなみに写経のメリットとして自分なりに挙げられるのは次の3点。

・なぞることで心が落ち着く。

・なぞることで字がきれいになる。

・なぞることで時間をつぶせる。くだらないことに進まなくなる。

 

 しかし、仏教といえば膨大な経典があるはずだが、なぜに般若心経しかないのか? 各メーカーともつくるからには売れなければならず、そうなると一番人気の般若心経ということになるのだろう。

 

 ただ、写経をやりたい側からすれば般若心経しかない状況は非常につまらなく、最初はそれで良いものの、もっと他のお経にも取り組みたい気持ちに応えてほしい。そこで通販で観音経を購入した。1400円。筆ぺんも「筆ごこち」やぺんてるの慶弔サインペンなど良いものが出ている。

 

 本題に入ろう。お経の意味はお寺のお坊さんに問わずともインターネットで簡単に調べることができる。観音経も決して難しくはなく、観音様を念じればどんな苦境も救われる、といった意味に尽きる。ただ、そういったお経に比べれば、やはり般若心経は意味的に数段上で人気が高いのも納得できる。

 

 これは仏陀が悟った真実を一番弟子のサーリプッタに語る場面を映したお経である。その真実こそ有名な「色即是空」「空即是色」であり、この意味もネットを調べれば各宗派によって若干の違いは認められるものの非常に詳しく説明されている。

 

 それにしても、仏教はなぜ「空(くう)」をそんなに重要視するのか? 色を(しき)と読んで、無色透明な空(くう)に「むなしい」意味まで加える。世界で初めて0(ゼロ)を発見したのはインド人だが、0は空と同義でもある。

 

 インド人の特異な抽象化する思考法が中国に伝わって三蔵法師らの努力で漢字のお経になり、中国の仏教が暴君の皇帝や邪教によって衰退する(最終的には共産党によって寺院ごとなくなるが)直前に、中国語とインド語に長けた空海が訪ねて日本に持ち帰られ、日本で真言宗として発展し、やがて親鸞道元栄西、一遍、日蓮など様々な宗派が出てくるようになる。

 

 それでも般若心経の位置づけは高いままで、空(くう)は最重要視され、僧侶たちは世俗から隔絶した寺院でお経を唱えたり、修行に励んだりし、時に人々の冠婚葬祭に関わる。無宗教な人でも生死に関することは儀式でケジメをつけざるを得ず、そこには世俗的な祭司よりもプロの祭司に任せた方が良いことは認めざるを得ない。

 

 儀式に招いた僧侶は一般人よりも高い位置にある。それは政治的な高さとはまったく別次元の高さである。物理的な高さといえば空だが、僧侶の場合は空と書いて空(くう)と読む高さに近い意味で高位であり、一般人は空から遠い意味で低い。

 

 空(そら)もよく憧れられる。鳥が自由に飛んでいるのを見て自分も羽ばたける翼が欲しくなる。しかし空(くう)も同様に憧れる。これは仏教に限らず、例えば剣豪・宮本武蔵の著書「五輪書」でも、最後に空の巻があり、戦い方を説く火の巻や他流を比べる風の巻などよりも最重要視し、簡単に言えば空のように自在で最強の境地を説いている。

 

 武蔵の空と仏教の空とは全くの別物と見る向きが多いが、同じ空という漢字を使っている以上、関連性は当然ある。空気の空も同様、例えて言えば気体であり、固体や液体とも違う。本ブログでも時々触れている通り、人間の状態は冷静に思考する冷却化と、熱血的に動く加熱の中にいる。

 

 様々な看板や情報が風のように耳目に入り、それらを水のように混ぜ合わせて思考し、認識が固まると固体になるが、時に頑固でもあり、動きの中で固体は液体化し、加熱し、沸騰し、気体となる。自由な状態への憧れは、西洋風に言えば自己実現でもある。

 

 ただ仏教は、空と書いて「空しい」意味も含めている。いくら境地に達しても空しい? 悟ったはずでも空しい? 優れた書籍もお経も空しい? 偉人も空しい? 空しくないものはないのか?と言えばある。生活の中の基本的なことは決してはずしてはならない。歯磨きをさぼれば虫歯になる。

 

 生活の基本だけというのも味気なく、そこにもっと色をつけたりしたくなるし、興味は時が経つと飽きたり別の興味に移るものだが、そう考えればどの色付けも空しい。私のブログもメインサイトも空である。色即是空

 

 そして空即是色。捨て去るほどでもないが、かといっていつまでも持つものでもない。今はそんな心境である。

 

 

「西郷どん」は現代に不要か?

作り手の思惑では西郷を「優しさと強さを兼ね備えた稀有な英雄(または救い主メシア)」に描きたかったはずだが、視聴者の多くはヤフコメにもある通り「浅い考えのまま倒幕を実行に移す非常に危なっかしいテロリスト」と思わせてしまったことが低迷の原因だろう。

 

かといって信長や秀吉のように大河の王道を歩む素材でもないし、現代社会に西郷隆盛とは視聴率通り不要なのか改めて考えさせられた。

 

今回の大河、奄美編を長期間描いたが、あの超どん底状態から短期間で官軍リーダーに進化した原因は一体何なのか? ドラマでは故斉彬お墨付きのレジェンドだった、有能な大久保と親友だった、等が強調され本当にそうだったかもしれないが、いずれも我々にはあまり参考にならない。

 

現代の50万人以上のニートは知力や体力は十分あれど「派遣じゃなくて正社員になりたい」とか「就職したい気持ちはある」などと言ってはいつまでも家にいて優しい親のスネをかじる状況が多く、その欠けている労働力の穴を外国人就労者で埋めたり、やがてはユニクロのように経営者がAI化を進めて物流倉庫から9割の人員を削減しようとしている。

 

西郷が流刑から戻っていい意味で冷静に全体を見れて謙虚になり社会貢献的に変わったように、ニートもその俯瞰的な視点を生かしたりもっと自分を信じて就労し、採用側もそのやる気の芽生えに応えてあげるようになれば、大河的には良い流れを与えたと言えよう。

 

残念ながら西郷どんは途中でNHK自画自賛記事や岩倉など驕った配役が目立ち余計にそっぽを向かれて失敗し取り返しのつかないことになってしまった。

 

この先、鹿児島にてまた西郷は無職になり、最期は同じく無職の桐野や村田たちと蜂起し東京の正規軍に惨敗を喫することになる。

 

もはや描き方に何も期待はしてないが、あえて私見を述べさせて頂ければ、後に必ず日本が直面するであろう日清日露など列強との国際的な対外戦争に備えて、この西南戦争児玉源太郎乃木希典東郷平八郎など前途有望な若者たちが平和ボケせず貴重な実戦を経験する場を与えてもらった意義はあると思う。

漫画の記号に誰もが納得する不思議

 例えば「ドラえもん」でジャイアンが怒った時に頭の上に噴き出す水蒸気のような記号、実際には見えるはずがないものだが、この記号があるかないかで受け手の印象は大きく違う。他にも走った時の足の後ろに描かれる記号、驚いた時の記号、なぜ我々は違和感なくそれらの記号に納得するのだろうか?

 

 この疑問を科学的に解けばイグ・ノーベル賞をもらえるかもしれないが、これをきっかけに更に根本的な問題に進みたいので、ここは実験や検証よりも哲学を選ぶ。

 

 つまり、漫画に描かれる記号の視覚情報が読み手の眼球から視神経を通って脳内に伝わっていく時、その外部からの波動と人の内部の波動とが一致していると考えられ、では始めから有るその波動情報はいったいいつからあるのかと考えると、怒りや悲しみや嬉しさといったものは動物に限らず植物にもある(植物に火を近づけると波動が乱れる)ことから、遅くとも原始生物の頃からこれらの波動は有ったのである。

 

 では感情の各波動は生物特有なものなのか? そもそも波動は感情に限るものなのか?

 

 1、2、3…などの「数」も目の前にモノとしてある訳ではないというのは非常に有名な話で、これも観念の1つ、すなわち波動である。

 

 また、音楽についても、実際は楽器を奏でて音波が出てはいるが、楽器を通す以前のメロディは波動的なものだろう。

 

 そして昔の人々が重視した霊的なものも、例えば観音様は観察の観という字と音という字の組み合わせだが、可視化された音となると、これも上記同様に波動的なもので、観音菩薩像という物を通すと具体化される。

 

 ところで波動とは分子や原子よりもさらに細かい量子の話になり、光子や電子などの波のレベルになる。原子や分子などからなる物質宇宙ができる以前の段階を考えれば、まだ原子や分子が成り立っていない、どんな世界なのか?

 

 おそらく、各物理定数が定まった後に物質宇宙ができたはずなので、各物理定数が定まる段階と、まだ定まらない段階とがあると考えていく。この後者の方のまだ物理定数すら定まっていない世界こそ、始源たる「混沌」のことだろう。

 

 混沌が混沌でなくなる時とは、物理定数が定まる時だ。この時、一緒にできたものの中に、喜怒哀楽の感情の波動や、数字の波動、各欲、愛や美や義などの徳目もある。

 

 物理定数の細かな数字がわずかでも違えば、この世はまったく別の世になると言われるが、定数同士、定数全体の絶妙なバランスがどこから来たのかいまだ説明できる理論はない。

 

 ただ、先に定数が決まって物質宇宙が生まれた後、温度変化に応じて固体が液体、気体へと変わっていく物質とは別に、生物とも無生物とも言えないウィルスが変化するものとして広がり、やがて単細胞生物から多細胞生物へと進む中で、もとからあった愛の波動や親子の波動などが生物の中で発動した。

 

 それは現代の私たちの中にも残っており、だから万人に共通の波動に共振させるべく、漫画の中には記号が多用されるのである。

 

 以上の話には何ら証拠はない。共感すべきものでもない。しかし、このように考えたら今のところ納得できる自分がいる。いずれまた誰かの発見や本などによって覆されるかもしれないが、この考えに今のところ満足している。

 

 

天地開闢の前に何があったのか?(無面目より)

 再び諸星大二郎の作品について。

 

 一般に科学ではビッグバンによって宇宙が始まったと説くが、ビッグバンの前がどうだったかは説かないし考えてもいない。

 

 非科学的と言われる東洋思想でも、最初に太極が生まれ、次に陰陽に分かれたと説き、太極より前は分かっていない。

 

 世界中の神話では最初に神が生まれ、次に宇宙ができたと説く。ではこの神はどこから生まれたのか?

 

 こういった疑問を持つ人は私を含め時々いるが、話し合う相手を見つけられないまま歳をとる。そんな中、鬼才・諸星大二郎はこの疑問を1988年に著した作品「無面目」で回答している。

 

 まず無面目についてだが、南極老人が東方朔に説明するシーンによると、天窮山の岩の上で深い瞑想にふけっている、天地開闢の前から思索を続けている神で、本来の名前は混沌という。すると、それに朔がかみついた。天地開闢の前からいるなんてあり得ないと。

 

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 この朔の疑問には南極老人も理解を示す。「そういうことになるな。だいたい始原の頃の神はわしら神仙の目からも隠れて普通姿を見ることはできん」「だが無面目は別じゃ。しかも天地の始まりの時から存在しているから、宇宙の秘密、天地のしくみについて知らぬことはないという・・・」

 そう聞いた朔は嬉しそうに「そんな神なら一度会ってみたいですな」と応じた。「だいたい私は宇宙の始まりについて常日頃疑問をもっていたのです」

 

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 こうして物語はスタートする。ただ今回はこの作品の紹介は行わない。気になった方はレビューを参照して購入してほしい。

 

 2人は天窮山の混沌に会う。

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 そして、のっぺらぼうでは質問し答を聞けないので、顔を描くことにする。

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 朔は混沌に質問し、古代の女媧が天地を治した時の五色の石がどんなものか質問すると、それは木火土金水の五行のことだと混沌は明解に答える。「なるほどのう」と南極老人が納得する一方、朔はどうやってそれらのことが顔がなくて分かるのかと聞くと、「目で見ずとも天地のことは五行の動きを通じてわかる。へたに目で見ようとする者こそ、物事の真実を見誤るのだ」と返す。さらに朔は、「あなたは太極から天地が生じた時からおられたといいますが、それは本当ですか?」と質問する。それに対して、

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 ここに出てきた「太極が内蔵する純粋な智」とは何か?

 

 以前から述べてきた通り、これこそ物質宇宙が生まれる前からある、波動だろう。先に波動上の混沌があって、智的に進行し、やがて各定数のバランスが生まれ、定数に基づいて物質宇宙ができていった。

 

 とどのつまり、私は諸星作品の影響を知らずに受けていたのである。

 

 

サバイバルウェディング最終回のインド行き について

今や世界経済の最重要拠点はインドという非常にマトモな視点を持ち、さらに実際に起業までして欧米や中国に対抗しようとする柏木のような若者が実際にいるのか知らないが、編集長の「大事なことは選択することより選択後の生き方だ」という言葉がこんなに皆に新鮮に聞こえ感動させられるのはなぜだろうか?

 

一昔前の「今や消費者の選択する自由の時代」と言い売れっ子になった堺屋太一経済企画庁長官になってスベりまくった二千円札や愛知博など、無意味で、日本経済を誤った方向に導いた件を思い出した。

 

その後、同じ路線を引き継いだ竹中平蔵小泉内閣に入閣し派遣労働者を増やしたが、もしこの頃に宇佐美編集長のこの言葉を若者たちが知っていたなら、彼らは選択後の強い生き方をよく考え、安易に派遣へ流れなかったかもしれない。

 

今のIT起業家の多くは孫や三木谷の系譜からであり、国は堺屋や竹中を入閣させ堀江や村上ら若手の芽を摘み取り、現代の惨状を招いたのだろう。

 

ただドラマの生瀬の通り、悪気からではなく可愛い息子に自分達のような危ない橋を渡ってほしくなく、良かれと思ってやったようだとも言える。