賢者のつもり

主サイト(ツインサイバーシステム)に載せていない異説を中心に紹介します。

政治の左右対立の誕生経緯

カントの有名な二律背反も、前節で言うところの補ヒュームなのか?

「世界は有限である/無限である」「世界は必然である/偶然である」「神はいる/いない」などだが、確かに片方の観念連合と同時に生じる分断の話ではある。

しかしカントは二律背反という矛盾は実在的ではないという点で退けた。

その後ヘーゲルはカントの二律背反の解決法を評価して弁証法哲学を打ち立てて大哲学者と呼ばれた。すなわち正-反-合を繰り返して世界に理性が実現していくとした。

このヘーゲル哲学を経済学に言い換えたのがマルクスで、共産主義が実現するとしたが、結局米ソ冷戦は資本主義側が勝った。今もリベラルや左翼は政治におり、彼らの源流は上記のように遡る。

ただヒュームの本流は左ではなく、後輩スミスを経て右に展開している。観念連合のために競争社会を肯定するからだ。

最近の新自由主義だと、競争社会の中で観念連合が繰り返されてサービスが良くなるから、競争に良くない規制は撤廃せよという。

その結果として起きる様々な問題、格差や環境、過労死など、これらを総合的に見る場合に補ヒュームがキーワードになると思うのだが、左的な視点との違いは何かとなると、冒頭の流れを把握しておかなければならない。

つまり、二律背反や正と反といえば問題だが、連合と分断であれば実際的な話である。

補ヒューム勉強会のお知らせ

現代は様々な面で価値観の見直しが求められています。

 

コンビニの24時間経営は全店必要なのか? 保育士の給料は安過ぎないか? 少子化は進む一方。AIで今の仕事は将来もあるのか?

 

個々に見直すだけでは一向に改善されない中、もっと高い視点から広く深く見直す方法として、哲学というものがあります。

 

しかし、ただ哲学を行おうとしても、その考え方がすでに過去にあったものか、批判されたことがあるものか知る必要があり、だからこそギリシャ哲学から近代まで続く哲学史を先ず知らなければなりません。

 

長い哲学史を知るには市販の入門書でも十分ですが、必ず突き当たるところこそ、哲学史のターニングポイントとして有名な18世紀イギリスの哲学者、ディビッド・ヒュームの「観念連合の三法則」です。

 

発見した当初こそ誰も見向きもしませんでしたが、遠くドイツではあのカントの目を覚まさせて哲学に進ませ、後輩のアダム・スミスは経済学を始め、宗教界は激しく激震して彼を無神論者と罵りました。逆に実験科学が発展するきっかけとなったと後にホワイトヘッドはヒュームを評価しています。さらに科学者のマッハやアインシュタインも早いうちに参考にするなど、影響は計り知れないほどです。

 

ただし、ヒュームを支持する中には前世紀半ばから猛威を振るった新自由主義もあり、現代もまだこれに代わる哲学がないようですが、利潤と効率を求めることを更に強め、多国籍企業に有利な環境をつくり冒頭のような問題が起きても解決できないままでいます。

 

この状況に疑問を持った一人が故橋本元首相で、日本の政治の在り方を省庁再編で変えようとしました。これは、「国家、富、文化、福祉の4本柱」に基づいて雑多だった省庁を統廃合するものですが、新自由主義に染まった内外の政治家、役人、マスメディアは敏感にも気付いて、「省庁再編は能率的、効率的でないから始まったのであって、能率性や効率性の視点で行うべき」と批判しました。しかし、本当に社会に重要なことは徳目の実現、すなわち真実と富と秩序の実現にあることに自信を持つ橋本氏は聞く耳を持たず、結果21世紀は、文部省と科学技術庁を合わせた文部科学省や、経済産業省や、国土交通省などの名称となる省庁再編で始まりました。大蔵省はなくなって財務省に代わり、さらに防衛相が遅れて発足しました。つまり、新自由主義とは異なる新しい価値観による政治がこの時行われたのです。もちろん反対派の反動はあり、それが次の政権での堺屋太一氏や竹中平蔵氏の入閣ですが、うまくいかずいったん下野しました。今の安倍内閣新自由主義ですが経済面では数字をごまかしたことがバレ、景気の下方修正を迫られ、限界が露呈しています。

 

私はヒュームの哲学が好きですが、好きだからこそ限界を知り、補うべきことに気付き、そして政治に助言したりもしました。ヒュームの哲学が何が良くて何が問題なのか? そろそろ本題に入りましょう。

 

簡単に言うと、皆さんを取り巻く様々な「因果律」、つまり「Aが原因でBという結果が導かれる」ものの多くは、実験科学以外は全て信用するに足りないこと、つまり「単純観念Aと単純観念Bとが連合した複合観念」に過ぎないとヒュームは看破し、だからこそ宗教のような「神が原因、悪魔が原因」といったものも複合観念の束に過ぎなくなるのです。これは、宗教に限らず伝統文化や企業の社風など様々な物事に適用されます。

 

ヒューム哲学を知れば、宗教が求めるおとなしい羊の群れの中の1匹におさまることもなく、近代人としての自立が進みます。ただ一方で、人間は1人だけで生きることはできないので誰かと連携しなければなりませんが、それでも歯車の1つではなく自立した者同士の連携が可能になります。現実には少ない事例かもしれませんが、それはヒューム哲学が広まっていないからでしょう。

 

かようにヒューム哲学は重要ではあれど広がりは持たないところがあります。また、新自由主義が冒頭の問題を解決できないようにどこか見直すべきものでもあります。

 

ではそれは何でしょうか?

 

ヒュームは、観念連合は類似、近接、因果の三法則で連合すると説きました。本人と肖像画、本人とキセル、煙と火のように。ここまでは広く知られている話です。

 

しかし、観念連合が成立すると、同時に、連合しなくなるものもあります。例えば煙の原因が火なので、他の火やドライアイスや他のタバコとは連合しません。言わば「観念が連合しない、分断」も同時にあるのです。

 

同じ理屈で、本人と肖像画の類似の連合と同時に、他の人とこの肖像画との分断、本人とキセルの近接の連合と同時に、他の人とこのキセルとの分断があります。これは極めて重要な事実ですが、今まで誰も気付いたり指摘していません。

 

観念連合とは逆の観念分断。類似、近接、因果とは逆の相違、遠隔、意外の分断。この哲学をヒュームを補う意味で「補ヒューム」と名付けることにします。

 

この補ヒュームで何が言えるのか? 例えばイギリスで始まった近代民主政治はより良い観念連合に導くために王制の独断より議会政治を重視しました。同じくイギリスで始まった市場経済も競争によってより良い観念連合を導くためのものです。しかし補ヒュームに気付くと、これらを全てとはせず、冒頭のような問題点を見つめ改めるきっかけにもなります。

 

以上、長くなりましたが、補ヒュームの重要性を認め、真剣に話し合い、新しい時代にふさわしい新しい哲学、価値観を進めたい方は是非こちらまでご連絡ください。

 

reigan3941@gmail.com

 

 

この30年の次にカギになるもの

 空白としての平成30年間をもう少し書く。

 

 1980年代後半に発刊した「哲学思想コーパス事典」(日本実業出版社)序文には、新しい発想を行うためにはこれまでの哲学者全員について先ず知っておかなければならないと書かれており、読後私は全員の関係を非常に単純な構図にまとめた。後で分かったことだが、物質の状態と同じであり、次第に冷静になっていく認識論の過程(ソクラテス~カント)と、次第に熱くなっていく実践論の過程(マキャベリサルトル)との2プロセスが円環を成している。こうして得られる結論の1つこそ、「もう大哲学者は現れない」である。

 

 実際、1980年代にいちおうデリダたちポスト構造主義者が多少目立っていたものの、この30年間というもの、時代がこんな目まぐるしい割りには目立った大哲学者は現れていなかった。まさしく自著が予言した通りである。

 

 現れるとしたら、これまでとは違うタイプになるはずだが、今のところ、それすらない。とにかく1989年時点での上記構図で哲学思想の歴史は一旦終わりを告げたのであって、それに気が付かない小物の言論人は非常に多いものの、実際に哲学的貧困な状況は続いている。

 

 次に、上記のプロセスをサイバネティックスのモデルで表して更に分析を深めたところ、状態を良くするために必要な幾つかの結論が導き出された。私はそれが産業社会に役立つものと期待していたが、30年経った今ようやく誤りに気付いた。

 

 前回この30年間を3つに区分した最初の10年間で何が起きたか? ウィンドウズ95という新しいタイプのコンピューターが出現したのである。従来のプログラム言語だけのコンピューターと違いアイコン(絵)を用いたタイプはすでにアップル社から出てはいたが、このウィンドウズ95は世界中で使用されるに足る汎用性が高かった。こうして世界はネットワークで繋がり、表計算も文書の共有も格段にアップした。そもそもコンピューターの創始者であるノーバート・ウィーナーが考案したサイバネティックスを基にしていれば、わざわざこちらが提唱しなくとも、ウィンドウズで簡単に実現してしまっていたのである。

 

 30年の最初の10年はウィンドウズ98の普及までであり、次の10年間はウィンドウズXPで始まり、アイポッドガラケー全盛期でもあり、スマートフォンの普及直前までである。ウィキペディアにもある通り、最後の10年間はスマートフォンとユーチューブ、タブレットの時代とまとめられ、誰でも手元にパソコンのような画面とダウンロード機能を持つ端末を持ち歩けるようになった。

 

 一方、この話題以外にも30年間の中で起きた変化として、日本のグルメが世界各地に広がったことが挙げられる。元々一部の日本通の外国人にしか知られていなかった寿司やラーメン、天麩羅、うどん等が次第に知られ、特にスマートフォンの普及以後、爆発的に認知度が高まった。

 

 すると今度は、知るだけでなく実際に日本を訪れて本場のグルメを味わってみたくなるだけでなく、グルメ以外にも観光地を回ったりアニメ作品の舞台を訪ねてみたり、と大きく状況は変わっている。

 

 私は30年前に「衣食住×衣食住」で9分類した産業区分の中で、食の衣(グルメ)や住の衣(インテリア)の充実を提唱していたが、どちらも自然に実現してしまっていたのである。ちなみに食の食(食糧)、食の住(栄養、医療)となる。

 

 30年2期目の始まりは2001年1月の省庁再編だったが、この始まりこそ、橋本総理が従来に複雑化していた雑多な省庁を「国家、富、文化、福祉」の4本柱で再編すると唐突に発表したことだった。5年前の10月16日の夕刊フジに関連記事があり、ターゲットとなった役人たちは必死で犯人捜しをしたが分からずじまい。この時に載っていた写真は官邸の森蘭丸こと若き江田憲司氏で、今も政治家として活躍し、最近は国会で安倍総理のロシア訪問が多すぎる割りに成果がないと厳しく追及していた。プーチンの日本訪問が少なく対等ではないという指摘は確かにその通りで、安倍総理も答弁が少し上ずっていた。

 

 さて、話がだいぶ逸れてしまったが最後に、つまり「大哲学者はもう現れないという学問的な限界が30年前に起きていた」、「コンピューターの普及で産業による状態改善は30年間にできていた」の次に続く3つ目の話題に少しだけ触れておこう。

 

 私は哲学が好きならヒュームを重視しなければ本物ではないと思っており、実際同じことを言う人も多いのだが、ヒュームを重視するなら私の言う裏ヒュームの話を重視しなければならないと思っている。

 

 表のヒュームが「観念は連合する」なら、裏のヒュームは「観念は分断する」というだけの話で、両者は同時に起きる現象でありながら、誰も何故か注目しない。

 

 ヒュームは「観念は連合する」を発見して、キリスト教もただの観念連合に過ぎず、宗教が真実とする「イエスは処女から生まれた」「イエスは死んでも復活した」「イエスはパンと魚を増やした」等も観念が連合しただけだからと無神論者になり、当時激しく非難されたり、また「聖ヒューム」と落書きされたりした。もっとも、本人はこの落書きをもったいないと喜んではいたが。

 

 ヒュームの言説は近現代の各方面に強い影響を与えた。例えば観念連合が真実なら人間の認識とはなんぞやと遠くドイツのカントを刺激し、カントが見直した人間論が導き出した結論の1つ、二律背反から正反合のヘーゲル、更にマルクスへと向かい東西冷戦は今も米ロ、米中の対立に続いている。

 

 経済学的にはヒュームの葬儀委員長を担った12歳下の友人、アダム・スミス国富論を著し、規制を撤廃して市場に任せ競争させることこそ国を富ませると説いたが、これも自由な競争で観念連合を活性化させる人間論が根本にある。

 

 政治的には王政よりも、代議士たちが議会で話し合って政治を進める民主政治が、これも観念連合の観点から望ましいとなるが、こちらはヒュームの先輩であるジョン・ロックの観念連合がイギリス名誉革命の思想的支柱となった。フランスではヒュームと一時親友となったルソーがフランス革命の思想的支柱となった。

 

 他にも、より確かな観念連合を得るために実験科学が重視されたということをホワイトヘッドが説き、さらにマッハやアインシュタインもヒュームに強い影響を受けたことを認めている。アメリカではプラグマティズム(実用的な哲学)の創始者パースが、ヒュームの観念連合を判断の連合に置き換えて説いた。(肖像画と本人→類似の判断、タバコと本人→近接の判断、煙と火→因果の判断)

 

 つまり、近現代の多くがヒュームの哲学から始まっており、近現代の問題や限界もヒュームの哲学を見直すことから始めなければならないのである。

 

 そこで再度、裏ヒューム「観念は分断する」に注目してほしい。これは「観念は連合する」と同時に起こっているにも関わらず重視されてこなかった。

 

 類似の連合、肖像画と本人の場合、同時に「違う肖像画と本人」や「この肖像画と違う人」との観念分断、類似とは逆の相違が起きている。

 

 近接の場合は逆の遠隔、因果の場合は逆の意外という観念分断が同時に起きている。

 

 そして、観念連合が民主主義や自由主義を導き出した一方で、民主主義や自由主義の弊害、例えば衆愚政治や貧富の格差は裏ヒュームがカギになってくる。

 

 連合しない観念同士、水と油のように互いに連合しない独立性を持った観念とは、例えば真善美などの徳目がそうだが、生活に重要な徳目でないといけない。省庁再編が徳目を掲げてその実現のために行うと唱えた時、当時の新自由主義に毒されているメディアは「省庁再編は業務の効率化のために重要」と一斉に批判し、更に堺屋太一は次の小渕内閣で入閣して新自由主義を進めようとしたが頓挫した。織田信長楽市楽座が競争経済というだけでは上向かず、「相変わらず庶民の財布の紐が固い」と言っては月例経済文学と揶揄され、二千円札も失敗した。

 

 ちなみに反動としての彼の入閣も自著で予言した通りである。

 

 競争とは無縁なものを重視する姿勢は、最近安倍内閣が行っている感じもするが、まだまだでもある。改元に伴う10連休も働き方改革も生活視点からは程遠い。あと、足りないものの1つが高い教養である。こちらも政治を衆愚にさせないために重要だが、ほど遠い。と、いろいろ書いたが総じて言えることは新しい哲学や法則への関心が重要である。

 

  最近、セブンイレブンの店長が長時間対応はおかしいと声をあげたことに対し本社が契約をタテに押さえつけようとしたことが話題になった。契約か命か、という問題に加え、このような本社と現場の対立は割りと多い。現場を知らず独善的な本社と、時代や環境の変化を理由に本社と対立してしまう現場。

 

  これも下記サイトの「OAEIUの法則」がカギとなる。

https://twincybersystem.wordpress.com/%e3%81%93%e3%81%ae%e3%82%b5%e3%82%a4%e3%83%88%e3%81%ab%e3%81%a4%e3%81%84%e3%81%a6-2/

 

 

  

 

 

 

 

 

 

平成を3つの10年に区切ると

  平成元年、すなわち1989年はベルリンの壁が壊され、ゴルバチョフソ連を潰した。それから10年の間、日本ではバブルが崩壊し、ソ連はロシアに変わり、ウィンドウズ95が登場して普及した。

 

  次の10年、日本では省庁再編で始まり、大蔵省はなくなって財務省になった。堺屋太一竹中平蔵が入閣したのも省庁再編への対抗意識からというのが私の見立てだが、先日亡くなった堺屋太一は月例経済文学と呼ばれたり二千円札がスベった。竹中平蔵は正社員から派遣へ強引に移したと悪名高い。今は派遣会社の顧問になっている。アメリカではニューヨークの同時多発テロで始まった。

 

  平成最後の10年は、日本では左翼政権の後に第二次安倍内閣、世界ではテロは下火になったが中国が台頭、アメリカではオバマ政権が二期続きトランプになった。

 

  今後の10年が何になるかは、平成から次に切り替わってから顕著になるだろう。

 

  もう一回振り返ると、東西冷戦が終わって各地でテロが起き、テロが潰されると、中国が台頭した。しかし中国が君臨するかどうかは、近代化に逆行する独裁を続ける限り世界は納得しないし、すでに陰りが見えてきた。次の10年で後退すると思う。一方、日本では橋本行政改革会議への民間人参加に対抗して堺屋太一竹中平蔵が挑んで頓挫し、次に鳩山菅野田左翼政権が頓挫し、第二次安倍内閣で一見安定を取り戻したかのように見えるが、評価は決して高くない。

 

  現時点ではまだ次の10年は誰もが言い当てられないでいる。

 

 

良い人がいる所と、悪い人がいる所について

  いろんな職場や団体があるが、良い人が多いと感じる所もあれば、悪い人がいると感じる所もある。

 

  ここでいう良い人とは、通常の感じの良い人のことである。小鳥たちが肩に集まってくるほど良い訳ではないが、常識と礼節があって笑顔もある。

 

  一方、悪い人とは、逆に感じの悪い人であって、犯罪を犯すほどでなくとも、加害する側にいる。

 

  そして、良い人が多い所、職場、団体について考えると、しばらくの間みると答えは自ずと導かれる。悪い人がいたたまれずやめていく所こそ良い所なのである。

 

  逆に、良い人がいるにはいるが、悪い人もけっこういる所、職場、団体とは、悪い人がいたたまれないどころか、居心地がいい所なのである。

 

  つまり、悪いこと、加害、勝手なことをおこなっても、何も言われず続けられたりする。

 

  イジメが多い学校、職場、虐待のある家庭、これらは悪い人にとって居心地がいいのである。

 

  ではどうやって悪い人がいたたまれない所にするのか?  これは単に注意や指摘をすればいい訳ではない。

 

  1秒の隙もなく忙しい所、大きな目的をもって長時間詰める所、こういった所こそ淘汰される。

 

  逆に暇な所、目的もなくルーティンな毎日を送る所は悪い虫がはびこりやすい。

 

  休日も大事だが、上記の論理もまた真実であり、良い人に恵まれたければ暇な所は避けて忙しく活気のある所に行くべきである。

 

地方が寂れる原因は常識

  地方が急速に寂れていっているニュースにコメントが多い。

 

  解決策はないというものばかりだが、昔は各地方とも活気があって賑やかだったから解決策はないはずはない。

 

  かくいう私も地方を捨てて都会に出た1人だが、今は阪神のどこかに住んでいる。ここはまだ寂れてはなく、学校に子供は多い。

 

  地方が寂れる原因は何か? なぜ昔は活気があったのか? 

 

  昔は交通機関が発達してなく、地方の有能な才能が簡単には外部へ流れなかった。そこで地方は彼らを活かして政治を進めたこともあると思う。

 

  だからこそ現代、地方は彼らを囲い込むことが必要である。予算を割き、仕事場を与え、育成する。

 

  馬鹿なことを言うな、と常識は反論する。自由を重んじる現代、彼らが都会に出たいと言えば止めることはできないし、依怙贔屓すれば皆が妬む。予算は公平に議員たちで決める。

 

  しかし、こうした常識こそが地方が寂れる真因なのである。

 

  有能な若手は地方の古株を脅かすからいない方がマシなので、上記の常識を理由に何もしない。

 

  まずは常識はあくまでも限定的なものとして、目的のもとに真剣に疑おう。

 

 

日本人の恥の文化と韓国

  昨年から日韓の間は徴用工とレーダー照射問題で騒がしい。

 

  日本人は本来「恥の文化」があると言われ、恥たなら潔く切腹することが武士道だった。

 

  それを知ってか知らずでか、お隣の韓国は日本を恥じさせるような嘘を世界に振り撒こうとする。自衛隊が提供した動画に反論した動画を効果音を加えて作ったりしたが、これは逆効果で、世界に韓国が事実をねじ曲げる恥ずべき国であることを拡散してしまった。

 

  そもそも韓国には恥の文化はない。昔は、いやつい最近まで路上が糞尿だらけだったという。一説によるとシベリアに散在する部族を祖先とし、だから凍った肉を食べれるようエラが発達して肉食文化が栄えるようになった。

 

  要するに狩猟民が半島にいるわけで、日本人とは全く異なる民族である。

 

  シベリアの狩猟民は今も散在する。ただ彼らが国際社会の一員として国際法に則って政治を進められるかというと違う。和をもって貴しとはしない。