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(前節の)あとがき

 昔話「桃太郎」の桃が妊婦だったのではという説は以前からある。現実的な考えだと思う。

 

 ではなぜ桃太郎が村を出なければならなかったのか? 現実的に考えてたった1人で出掛けることには違和感を感じた。鬼たちが村に悪さをするなら、村人と協力して迎え撃つ手もあり、鬼たちの来襲に備えて普段から備えておればよい。

 

 ところが彼はたった1人で鬼の本拠地、鬼ヶ島に向かったという。無謀にもほどがある。

 

 実は鬼の本拠地へ攻めていった話は他にもあり、それが金太郎である。実際、酒呑童子という鬼のリーダーが潜む大江山に、源頼光率いる武士団が攻めていった。この話と桃太郎たちの鬼ヶ島行きは重なる。

 

 で、鬼とは何者か?というと、これも腕力が強く長身で天然パーマで目がギョロリとしているならば、ロシア人のような白人とも思える。ただ当時はロシア人というくくりはなく、東アジアまで来るのは黒テンの毛皮を求めシベリア大陸を横断した江戸時代の頃だが。むしろギリシャ人は孫権がそうだったように東アジアまでとどいていた。その系統か。

 

 浦島太郎の渡海伝説も海外との貿易が背景にあり、竜宮城の乙姫とは貿易で財を築いた一族であろう。

 

 これらを考えて先の「三太郎異聞」を書いてみた。

 

三太郎異聞

 昔々、ある村で悪い噂が広がった。

 

 悪い噂をまかれた「彼」は、その村にいたたまれなくなった。

 

 「彼」はいま祖父と祖母の3人で暮らしているが、実の母は自分が生まれる前に川で溺れてしまった。祖父は山へ柴刈りに行っていた。川で洗濯中の祖母はなんとか助けて家に連れ帰ったものの間に合わず、せめてお腹の子だけでもと、腹を切って「彼」を取り出した。

 

 しかし、「彼」が成長したとき傷つく噂を聞いてしまった。祖母が包丁で母を殺したと。「彼」はいたたまれなくなって、村を出ようとした。「どこへ行くのじゃ?」「おとうの所へ」

 

 祖母は吉備団子を作って見送った。途中、犬っぽい顔のはぐれ者や、猿っぽい顔の、キジっぽい顔のはぐれ者とめぐりあい、同行することになった。そうして都に着いた。都でもいろいろな噂はあれど、村と違って人が多いのでそんなに目立たない。

 

 やがて、都のカドに立て札が立った。「なんて書いてあるのじゃ?」「源頼光様が大江山に潜む鬼たちを成敗しに行くそうじゃ」「家来を募集しておるらしい」

 

 鬼は、異国から流れ着いた人らしい。当時はギリシャ人や白人もアジア地域に来ていた。浦島の太郎という男も海の向こうへ旅立って戻って来ないという。むかし金太郎と呼ばれていた坂田金時が頼光の隊に加わった。「彼」も仲間の3人と参加した。

 

 大江山の鬼退治は無事終わった。頼光一行は都に戻り大歓迎を受けた。「彼」も褒美をもらった。金時が「これからどうする?」と聞いた。少し考えたが、おとうが見つからない今、田舎の祖父母のことが心配になり、結局帰ることにした。

 

 田舎でも鬼退治の話は伝わっており、村中から歓迎を受けた。もはや「彼」は村の英雄だった。出生にまつわる噂は、「川から大きな桃が流れてきた」「おばあさんが桃を切ると中に赤子がいた」話に変わり、「桃太郎」という昔話になった。

 

 めでたしめでたし

 

 

(女性宮家)新ルールをつくりたがる愚か者たち

 「自分がルールをつくりたい」「そのルールを破った誰かを罰したい」という欲望も実在する。

 

 子供たちで遊ぶ場合もよくそんなセリフがある。大人になると分別があれば言わなくなる。国内のルールをつくるのは国民に選ばれた議員、社内のルールをつくるのは社長、結果が悪ければ責任をとる。

 

 しかし、敵国が野党を使って国内を悪化させるために、ルールを新設する場合もある。いま話題の「女性宮家」も伝統ある皇統の無価値化を狙ったものであり、気付く人は男系を養子に迎える案もあると述べている。

 

 オバマ時代のTPPも医薬や農業分野で外来種ブラックバスのようなルールを設けようとした。

 

 ルールは基本的に社会生活を良くするためのもので、民主主義や市場経済も国内に益をもたらすからこそ導入されていった。

 

 現在は、国内にも社内にも家庭内にもルールが多く、また次から次へとルールをつくるので前のルールと衝突するものもあり、真面目に守る者すら優先順位の低いルールを破ってしまう。それを罰する側もどうかと思う。ルールをつくる側が愚かだと不幸な事態が生じることになる。

 

 そういった不幸な事態を避けることを皆が分かっている所は非常に幸福だと思う。

 

 

(哲学の転回)知られずに終わってゆく

知的遊戯と言ってしまえばそれまでだが、

哲学史上の有名な言葉をひっくり返すのは哲学的に非常に意義のあることである。主なものを3つあげると、

 

1,「観念の連合には類似、近接、因果がある(ヒューム)」に対して、「観念連合の分断には相違、遠隔、意外がある」

 

2,「神は死んだ。これからは超人だ(ニーチェ)」に対して、「神は死んだ。超人も死んだ」

 

3,パースの「記号」に対して「手段」(デジタルとアナログ)

 

 以上1つ1つに詳しい説明が必要だし、他にもたくさんあるが、今回述べたいことを1つだけに絞る。

 

 ヒュームもニーチェもパースも哲学史上は非常に重要な人物で重大なことを言っていることは確かなのに、それを上記のようにひっくり返したり広げたりすることは重視しなくて良いのか?

 

 私は自分の前に哲学好きを自称する人が現れると必ず上記の話をぶつける。説明不足なのかもしれないが、たいていの人は反応しない。確かにという言葉を聞きたいが出て来ない。そしていなくなる。

 

 あと何年生きるか知らないが多分反応がないまま終わる。そして観念連合分断は消えてなくなる。超人が死んだ話もなくなる。記号論(デジタル)に対する手段論(アナログ)もなくなる。なくなって、誰も知らないまま世界は続く。

 

 大哲学者16人が整って配列されることも、ニーチェソクラテスより前のギリシャ哲学に共感した理由も、誰も知らないままになる。

 

 そんなものなのか。

 

 ヒュームの葬儀委員長を務めた12歳下のアダム・スミス近代経済学を通じてヒュームの哲学が浮上した。

 

 ニーチェには妹がいたから、この妹が兄の真価をどこまで知っていたか分からないが死後広まり、次の世紀も影響を与え続けた。

 

 パースも生前はパッとしなかったがジェームズやデューイがプラグマティズムの始祖として持ち上げたから真価が注目された。

 

 そう考えれば、はるか未来に誰か現れるのだろうか。

 

(直虎)今川をブラック企業と見れば現代とつながる

 今年の大河ドラマはほとんど無名な題材だけに新しく知る名前が多い。

 

 前回出てきた高瀬姫も、調べてみたら実在の人物だった。次回の舞台である繁栄した堺のような商人支配の町、気賀も実在した地名とある。

 

 井伊直親が亡くなった3月までの展開は、直虎関連で事前に調べて分かっていた話だが、4月以降の展開は果たして12月まで話題があるのかと思いきや、意外に濃い内容が続いており、しかも調べたら高瀬姫も気賀も方久も本当の話だった。

 

 柳楽優弥演じる龍雲丸は架空の設定だというが、これも火坂雅史著の徳川四天王で出てきた鈴鹿党のように素材の味を引き出すスパイスのようなものだろう。記録には残らずとも実在したっぽいと思わせている。

 

 さて、そんな「直虎」をじわじわと面白くなってきたと褒める記事が散見されてきた。

 

 その理由には、高橋一生小林薫などの高い演技力、脚本の良さなど挙げられているが、私はどん底からの挽回劇だからだと思っている。

 

 今川氏というどうしようもないブラック企業にいる主人公が、近隣に織田&徳川カンパニーという新興企業があったお陰で劇的に良くなり、さらに直政はその会社の重役まで上り詰める。

 

 現代の我々も、似たような状況にある。今川氏のような大威張りの、それでいて桶狭間で負けたように実は弱いブラック企業

 

 織田&徳川のような常勝企業に出会いたい、組みたい、入りたい、などと思うものである。

 

 

 

 

 

(ニーチェ)神はいない 今や超人もいない

 19世紀に「神はいない」と高らかに宣言した哲学者ニーチェ。その代わりに提唱したのが「超人」と言われる。古代ギリシャの肉体美も賞賛した実存主義

 

 彼の系譜から現代思想は展開し、いまだ超えられていない。そして21世紀になり、限界が来ている。ならば言おう。

 

 「超人もいない」と。

 

 ウサイン・ボルトイチローなどスポーツ選手の名は挙げられるが、もはやそれがどうしたという風潮で、マスコミのみが騒いでいる。

 

 神はいないし超人もいない

 

 そこから展開する方向は、諦めてしまうか、悪さに走るか、それでも考えるか

 

 こんな夜中に、公園でプロポーズする男と拒否する女のそばを通り過ぎた。

 

 そう、凡人しかいない。

 

 あとは凡人の成功術のみである。

 

 

 

 

 

ニートのトリアージ、ニーチェからサルベージ

 実際的に国がやるべきこととして、

 

 まず、100万人以上いると言われる無職の把握と等級分け。つまり、まったくの手遅れかまだ見込みがあるか等を段階的に整理する。

 

 次に、等級に基づいた就労支援。再生の度合いに応じた次のステップ。並行して既存の就職者への結婚支援。方法は海外の成功例を参考に導入する。

 

 それらの資本金は、今までの政策の失敗を認めさせて国家官僚の退職金や年金から捻出し、議員も海外のように無報酬にする。

 

 そうでもしないと、この国は労働力不足で何もかも破滅する。掛け声はいいから実際にどう動くかが大事である。

 

 最後に、ここに至った原因を哲学史の側から導き出す。

 

 17世紀のデカルトから始まった近代理性哲学は、ロックやカントを経てヘーゲルで完成を迎えるが、対抗して実存主義が始まった。特にニーチェは現代にも影響が強い。

 

 「神は死んだ」「超人」等の思想は人間の可能性をよりいっそう引き出したことは確かだ。しかし、実存主義で「本人がそれで良いなら良いではないか」「自己責任だ」と突き放す風潮が蔓延し過ぎている。

 

 戦後、少しだけ実存主義が敗れたことがあった。構造主義レヴィ・ストロースサルトルを論破した時で、あのまま縁や構造や伝統を重視すれば良かったのだが、ニーチェに影響を受けたデリダが「脱構築」した。そしてポスト構造主義以降、目立った哲学は現れていない。

 

 つまり、ニーチェ実存主義が依然強く、成功例の各超人ばかりを見るのではなく、裏側にいる大多数の失敗例(非超人、凡人、大失敗例が海外にも多いニート)を我々は直視しなければならないのだ。

 

 当たり前だが、親に限らず師匠や兄弟子、仲人など誰かが面倒を見る社会が最も良いと思う。