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体育会系(夏)、スピリッチュアル系(殷)、そしてネット民(周)

 「史記」高祖本紀 巻末より“現代に例えられそうな箇所”を見つけたので、言い換えながら引用したい。

 

 太史公曰く

 

 夏(か)の政治は忠(質実重厚)であった。忠の弊害は、小人がややもすると粗野になることである。

 

 現代に例えると体育会系の会社に当たる。出社するなりピタッと足を揃えて「おっざぁーっす!」と大きな声で挨拶して入室する。答礼側も全員応じる。まさに忠。理不尽な社則、社訓、社命も全て「社長が決めたことだから」で終わる。粗野になった小人は多いだろう。中国初の国家である夏(か)もそんなイメージで想像した。

 

 それ故に、殷は夏の弊害をうけついで、それを是正するのに敬(恭敬)をもってした。殷の弊害は、小人がややもすると鬼神をたっとんで迷信におちいることである。

 

 体育会系のブラック企業をバカにする非体育会系の人たちの中にもブラックはある。例えばスピリッチュアルにハマッている組織で、脳ミソ筋肉ではないが鬼神(UFOや宇宙人を含む)が全域を占めている脳をもつ。敬うことや儀式を行うこと自体は本来大事だが、教祖や幹部を敬い過ぎて合理的科学的客観的な批判や相対的な冷めた見方を許さない。

 

 それ故に、周は殷の弊害をうけついで、それを是正するのに文(礼節)をもってした。文の弊害は、小人がややもすると上べだけ法則にならって誠実を欠くことである。

 

 甲骨文字の殷と言われるが、次の周になると木簡や竹、後代には紙になるがそういう物に文を書いて文書主義が発展する。それが今や、誰もが持っているスマホにまで進化し、ネット上で文が飛び交うようになったが、上述の通り上すべりしており、実体の改善にまでつながっていない。

 

 上べだけ法則にならって誠実を欠くことを是正するのは、忠がいちばんよい。かくて、夏・殷・周三代の道は、循環するがごとく、終わってまた始まるのである。

 

 ネット上で吠えるだけの軟弱者たちを実体ごと是正するためには体育会系が良い、ということか?

 

 周・秦の間は、文の弊害を問題にすべき時代であったが、秦の政治はその文の弊害をあらためず、かえって文に文を重ねて刑法を厳格にした。謬(あやま)っているではないか。

 

 これもまさに現代で、事故防止対策を無闇に増やす余りに通常業務が前に進めなくなるほど一般社員の負担が大きくなることも「文に文を重ねる」と言える。また、ガソリンの二重課税、競馬の二重課税、消費税や国民保険料の相次ぐ増額で家計負担が厳しくなる悪政も「文に文を重ねる」だろう。

 

 それ故に、漢が興(おこ)ると、文の弊害をうけついで秦の苛法を変易し、人々が安んじて生業にはげめるようにした。

 

 これこそ現代が学ぶべき善政である!

 

 また、天の循環する統紀をえたのである。十月(歳首)に諸侯・群臣を召して朝礼をおこない、車服は赤色を尚(たっと)び、帝の車蓋(しゃがい)には黄絹をつけ、帝旗は車の左前方につけた。

 

 結論として、単純にネット民を体育会系へという訳ではなく、煩雑になった状況をシンプルに、そのためには哲学的なところから固めていく、と結べば本ブログの趣旨と合う。