憲法の3本柱は「基本的人権の尊重」「国民主権」「平和主義」。
自由権には言論の自由や表現の自由、集会結社の自由などがあるが、「国家は国民に構うな」「自由にさせてくれ」、親子に例えると「親は子に構うな」であり、逆に社会権は「もっと構ってくれ」、教育や生活(健康で文化的な)に国家が構うよう求めたりする。
ただし、「内心の自由」以外の自由権には全て「公共の福祉」という客観的制限がある。
心の中で何を思おうと自由だが、言論や表現は公共的に良くないと自由をおさえなければならない。街なかの裸体彫刻にリアルな色を塗っては不快だし、映画館で上映中に大きな声で喋り合って言論の自由を過剰に行使すると、他の観客たちの見る自由を侵害するため係員が注意する。
もし、内心の自由の向くままに言動を自由にする人がいれば、公共の福祉に照らして多くの人々がその自由に制限をかけようとする。
いくら親が「娘のお気持ちが大事」と言っても、無職の怪しい男と結婚しようとすれば反対の声をあげたのが昨年秋の出来事である。
そもそも一般人は、身分の高い家柄の相手と結婚することはいくら婚姻の自由があるからといってもいろいろ考えて躊躇するのが普通である。躊躇せず接近すること自体が普通でなく、身辺調査は当然行わなければならない。
ではなぜ「お気持ち」が先走ってしまったのか?
公共の福祉が分からなかったことが一つ。
生まれながらに身分が高いのにきちんと帝王学を受けてこず、自由気ままに育てられた人なら「お気持ち」が優先する。
たとえ祖父の喪中であっても、まだ大学に在学中で仕事をしていなくても結婚する。
いわゆる独裁者もそう。心の向くままに振る舞い、周囲はひれ伏し、気に食わない者は消し、ルールがあっても無視する。
もちろん、きちんと指示したり面倒を見てくれるリーダーがいると安心だから、国民は名君を待望するものだが、名君とて万能ではないから賢臣や諌臣を側近にして暴君にならないようにする。
現状の日本、外国、企業はどうだろうか?
上記の話に同意する人はいるにはいるが、あまり多くない感じがするのは何故か考えたりする。
言いたいことも言えないブラック企業に務めた経験があったり、心の中だけにしまってオモテの言動は公共ルールを守ったりする人には当たり前な話に聞こえると思う。
ただ「権利の濫用(独裁)」には簡単に傾きやすいことも確か。憲法が触れている通り、国民は不断の努力を止めてはならない。
※世界情勢についてはメインサイトのブログに連載。本日ようやく更新した。