プーチンに詳しい研究者の多くが、今回のウクライナ侵攻を決定したことを「よく分からない」という。
先ほどテレビでも、プーチンが昔とは「変わった」と特集していた。
そういえば昔の日本にも、誰もが首をかしげる戦争があった。
「西南戦争」である。
なぜ西郷隆盛は戦争を起こしたのか? なぜ鹿児島を出て攻めにくい熊本城に向かったのか? そして長期化したのか? 結局敗れたが、明治新政府軍に劣ると分かっててなぜ薩摩一国で戦ったのか、西郷らしくなく動機が謎と言われる。
共通点①【ロシアの後進国化】
江戸時代末期の薩摩は、英明な藩主「島津斉彬」のもと西洋の工業技術や最新式の銃を積極的に取り入れ、日本で最も先進的な地域だった。
しかし明治時代初期は、廃藩置県のあと全国で近代化が進められているのに、薩摩だけは西郷を長とする私学校を中心に治められ、日本で最も遅れた地域になりつつあった。
ロシアも、かつては米ソ対立という構図のもと2大トップにいたが、最近はまるで北の田舎と見做されているかのように、温暖化対策でもSDGsでも遅れをとり、経済は後輩の中国に抜かれて韓国並みに落ち、五輪でも国としての参加はできず締め出されていた。
共通点②【次々と離れられる】
西郷を慕って薩摩の私学校に加わる人も多いが、東京に残って明治新政府の役職につく人も少なくなかった。
特に、大久保利通や西郷従道、川路利良など優秀な人物ほど薩摩には帰らなかった。
ロシア周辺の国々も次々とNATOへの参加を希望し、ロシアから離れようとした。
ウクライナのゼレンスキー大統領も、コメディアンとして早くから成功し、主演ドラマがバズり、41歳で大統領になるなど優秀と言って良いほどだが、それでもロシアから離れNATOへの参加を熱望した。
共通点③【敵の圧力への反発】
西南戦争の発端は、明治新政府がジワジワと薩摩への圧力を強めていった(大久保が潜り込ませたスパイが見つかったり、武器庫を調べられそうになった)ことからの私学校生徒たちの暴発だった。西郷本人は神輿で担がれたようにお飾り的だった。
ロシアも欧米からの圧力がジワジワと接近していた中で戦争を選んだ。
そしてプーチンの表情はテレビで見る限り終始「うかない」まま。軍部や高官たちのお神輿、お飾りのようにただ代表しているだけの感じに見えるが、西郷と同じく唯一無二の存在である。
共通点④【近場に攻め入る】
西郷軍は挙兵後、本来は憎き新政府を相手にするからには海路で東京に直接乗り込む選択もあり得たが、何故か薩摩のすぐ北の肥後へのルートをとり、熊本城を攻めた。熊本城攻めから得るものは特にない。これは西郷の判断ミスか?事実、加藤清正が築城した熊本城は難攻不落のため薩摩軍は時間がかかり、長い期間足止めをくらった。
※陸路を東へ向かっていくうちに反政府勢力が増えて膨らんでいくと考えたのでは?という説があるが、思惑通りにいかなかった。
ロシアも近場のウクライナを攻めたが、そこから何か得るものはあるのか? 反アメリカが大きくなる訳でもない。
下記の通り、そんなプーチンの判断ミスを指摘するサイトもある。
※ウクライナ侵攻はプーチンの「戦略的判断ミス」 戦争は独裁者が「誤算」したときに起きる(ニッポン放送) - Yahoo!ニュース https://news.yahoo.co.jp/articles/a864b907f4eb1a6db8da4d387f7fe0780d0a73d9
共通点⑤【最後の戦争?】
西南戦争では、全国vs薩摩という構図のもと、西郷軍は熊本城を落とすことができず撤退、鹿児島に向けて南下した。故郷の城山に少数でたてこもり、圧倒的な大軍に包囲された中「晋どん、もうここらでよか」「オイは官軍に負けたのではない。清正公に負けたのだ」等の名言を残し介錯させた。
明治10年の西南戦争の後、日本では国内での戦争はなくなった。
今回のウクライナの件でも、世界中がロシアに味方しない。戦争に違和感さえある。もう古いとさえ思われており、これを最後になくなってもおかしくない。
ウクライナが降伏せず熊本城のように粘れば、ロシア軍が最終的には撤退するだろう。
ロシア国内でも「ウクライナに申し訳ない」「恥ずかしい」といった声が溢れており、プーチンは糾弾されて政治生命が終わる・・・。