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"黒衣の宰相"崇伝と徳川家康

  火坂雅志著「黒衣の宰相」読了。

 

  江戸に幕府を開くにあたり、徳川家康は様々な賢人や異能の才を集めた。政治では謀臣本多正信正純親子、経済では鉱山開発の大久保長安や小判を流通させた後藤庄三郎、新田開発の伊奈忠次、剣術では柳生宗矩、築城では数々の名城を任された藤堂高虎、元イギリス人の三浦按針・・・。流浪を経験したことがある人も多く(正信や高虎は様々な主君に仕えたことがある)、ただ行儀が良いお利口なだけの人は入っていない。

 

  そして仏教界からは京都密教内の抗争を山形から来て平らげた南光坊天海、一方の禅宗からは若い頃から秀吉の外交文書作成の裏方に携わってきた金地院崇伝の2人。

 

  崇伝がどのように家康のブレーンに加わったかは、秀吉から家康に権力が変わる中で、今まで表で外交文書作成に携わってきた先輩僧たちが次々と亡くなる中で裏方から表に回ってきた自然の流れであることが本書を読んで分かった。

 

  しかし、歴戦の強者である家康は、その鋭い金壷眼の双眸をもって、若い崇伝の中に仏教や外交文書以外にももっと秀でた能力があることを見抜いた。おそらく他の誰も見抜いていないだろう。

 

  だからこそ、家康は崇伝に様々な仕事を与えた。例えば武家の誰もが苦手としていた京都の朝廷工作、小説では崇伝が忍者を使い公家の弱みを握って掌で転がすようになるよう面白く描いている。

 

  また、大坂豊臣家を追い詰めていく時にも、有名な方広寺の大鐘に刻まれた「国家安康、君臣豊楽」の文字を家康の名前を切って呪うものだと難癖をつける。学校で習った時にはこんな酷い戦の起こし方はないと憤慨したものだった。しかし、70歳を過ぎた家康の死をニヤニヤと待つ豊臣相手に戦の口実をつけられる人は崇伝の他にはいなかった。

 

  大坂の陣が終わると数々の法度の作成も崇伝に命じた。武家諸法度や公家諸法度、寺社関連、どれもきちんとした文書にまとめ、今後は刀剣ではなく法治国家を目指す志が感じられる。

 

  それを後書きで著者の火坂は、「まるで徳川初期に、現代人がただ一人紛れ込んでいる気さえした」と史書を調べた上で吐露している。世の人はそんな崇伝を全く理解できず、「大欲山気根院僭上寺悪国師」、「天魔外道」などと呼んだが、悪名を気にする風もなく、以後300年続く「パックス・トクガワーナ」の基礎を固めた。

 

  得られた結論として、五輪後ますます混迷を極める現代に対しては、当時の崇伝がそうだったように、遥か先の未来から紛れ込んだかのような才能を用いるべきであること。ただその才を見抜いて登用する家康のような人は、日本初代大統領に選ばれてもおかしくない人以外に考えられない。