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(藤堂高虎) ビルド面で最も頼りにされた男

  火坂雅志著「虎の城」上下巻を読了。戦国時代は信長までの前半が古い伝統が廃れて壊される展開だが、後半は秀吉や家康のもとで新しい世作りを進めていく、その後半時代に活躍して成功した藤堂高虎の生涯を描いた小説である。

 

  現代は「駄目な企業は保護せず潰すべき」「新しい思想なんてない」と公言する竹中平蔵のもとで破壊ばかりの非常につまらない時代だが、2ちゃんねるを創設したひろゆきやユーチューバーのヒカキンなどが注目される通り新しいビルドは僅かながら点在しており、大系的な刷新の必要性にはまだ誰も気がつかないでいる。

 

  あとがき冒頭に書かれた通り、藤堂高虎とは誤解に満ちた武将である。仕える主君が何度も変わったから、現代で言うところの堪(こら)え性(しょう)がないとか、明石家さんま風に言えば「趣味は退職、特技が転職」と見なされがちだった(離婚歴4回のフリーアナの近藤光史の結婚式で趣味は離婚、特技結婚と挨拶した)

 

  しかし、高虎の生涯を追うと比較的仕える主君に恵まれた方であり、むしろ忠誠心の方が目立つことが分かった。

 

  最初の頃は不遇である。織田信長に滅ぼされる直前の浅井家に僅か80石で仕えて約1年、喧嘩から同僚を斬り出奔して流浪する。この小説では詳細が描かれてなく残念だったが、空腹のあまり餅屋で食い逃げを犯したものの、店主が優しくて路銀まで与えた話はこの頃だったろう。後に出世した高虎はこの恩を忘れず3個の餅を旗印にして、遠征の時に立ち寄って店主に厚くお礼をしたという。また合戦や土木工事の時に自ら餅を配り与える様子も何度か描かれている。

 

  次に仕官した先は元浅井家の重臣で織田に寝返っていた磯野和昌。姉川の合戦では獅子奮迅の働きで圧倒した猛将であり、高虎ともウマが合いそうだった。しかし、寝返り後の和昌に当時の勢いはなく、信長に甥の信澄を養子に押し付けられた。かつて自ら刺し殺した実弟信行の子で、父に似て一見行儀は良さそうだが、小説では稚児好きで凡庸かつ冷淡と描かれている。

 

  現代でも、有能で優しい直属の上司が人事異動で突然入れ替わり、真逆なタイプの新上司のもとで苦労する話は数多い。高虎もそうで、丹波攻めで一番首をあげるなど自身の加増に向けてさあこれからという時に、信澄から特命で帰国を命じられ、目をつけていた寺の稚児を連れて戻るよう言われたので怒りと空しさに包まれる。

 

  更に加増の話もなくなったので再び浪人となって近江国でブラついているところへ、仕官の話が来た。小説ではかつて賊に囲まれたところを助けたことが出会いとなっている、木下秀吉の実弟、小一郎秀長である。兄が出世したため百姓をやめ、主に兵站や算用など裏方の仕事で秀吉を支えていた。

 

  実はなぜ秀長が、四国・九州征伐で総大将を務めたり、難治で知られる但馬や紀伊でも勝つことができたのか分からなかった。故堺屋太一が「豊臣秀長」なる本を上梓した時もニッチなネタを見つけた印象が強く、秀長の実像とは違うように思われた。

 

  それは藤堂高虎が副将格として仕えていたからだった。190センチの長身で武辺一辺倒の高虎にとって、温厚な性格で働きを正当に評価する主君の秀長は非常に仕えやすかった。秀長にとっても高虎の武勇は頼もしく、互いに良い影響を及ぼしあった。更に高虎は、秀長からこれからの武士は武技だけでなく、兵站や算勘など様々な能力を総合的に身に付けていく必要性を学び(実際秀吉の三木城や鳥取城での長期間に渡る兵糧攻めでは秀長ら裏方の働きがあったからこそ実現できた)、中でも築城術など土木面に秘めていた才能を発揮していくようになる。

 

  安土城の石垣作りに秀長の名代で参加して穴太(あのう)衆と縁を深め、大和大納言となる秀長のもとで和歌山城粉河城、また京の二条城などを手掛ける。

 

  秀長没後は養子の秀保を支えたが、淀君に子供が生まれてから秀吉や三成は一族の秀次や秀勝、秀保などが邪魔に映り、状況が徐々に悪化。秀保が変死して大和豊臣家が消滅すると、高虎は高野山で読経の日々を送る。もちろん有能な男をそのままにしておけないと秀吉から再三下山するよう使いがきて、四国宇和島に領地を得る。おそらく増え過ぎた浪人の再雇用の狙いもあったろうと作者は推察している。

 

  名城として知られる五角の宇和島城(回ると四角に間違える仕掛け)、敵の銃撃が届かないほど堀の幅が広い今治城に行ったことがあるが町としては今や他の地方都市と同様に栄えてなく、なぜ両地の中間の大洲にしか漫画喫茶がなかったのか分からなかったが、高虎が大洲で政治を行ったことも新たに知った。

 

  天下はせっかく安定したのに、唐(から)入りという対外政策を始めた秀吉と三成の暴挙の中で、高虎は豊臣の政治に疑問を抱き、次第に内政を重視する徳川家康に近づいていく。現代も中国や海外に生産拠点を移して国内に産業空洞化や非正規社員の増加と少子化を招く浅はかな平成時代と重なる。

 

  家康も以前から高虎の人物に好意を持っており、やがては関ヶ原の合戦大坂の陣、また息子秀忠とも江戸幕府設立や対朝廷工作でも細かく計り合いながら進める外様では異例の非常に近しい間柄になる。

 

  築城面でも家康から、江戸城伏見城、大坂対策として丹波篠山城亀山城、近江膳所城、伊賀上野城、国替えで伊勢の津城、日光東照宮、徳川大阪城などを任され、金銭面を心配せずとも次々と名城を築いていった。十字砲火ができるよう工夫した石垣(津城)や現代にも通じるマッキントッシュ式に組み換え移動可能な城(亀山城)など面白いものが多い。

 

  ・・・と、過去の知識も交えて書きたいだけ書いたが、秀長や高虎など名君と呼ばれる人には共通して、かつての仁徳天皇のように減税を断行したこと、しかし結果的に街中に活気が溢れ大儲けしたこと、苦労人だが素直で捻(ねじ)曲がっていないこと、人材を適材適所に配置したことなどが分かる。

 

  そろそろ本格的なビルドに向けて、一時的に大規模な減税を断行して大胆な人材の抜擢と登用、それらによる活性化をすべき時のはずなのだが、いつまで旧態依然な思考を引きずっていくのだろう。