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アメノミナカヌシは確かに意義があった

 > 天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)は、『古事記』では天地開闢の時に最初に現れた神であるとされている。

 

天地初發之時

高天原成神名

   天之御中主神

   次高産巣日神

   次神産巣日神

   此三柱神者

   並獨神成坐而隠身也


  天之御中主神の後に高御産巣日神(たかみむすひのかみ)、神産巣日神(かみむすひのかみ)が現れ、これら三柱の神は対偶となる神のない独神であるとし、何ら事績を語らずただ姿を隠したと記している。(ウィキペディアより)

 

  さて、この神様はただ最初に現れて消えただけに過ぎないのだろうか? 記述が少ないためか、昔も今もいろいろな研究者が名前は知れども詳しくは語れないでいる。

 

  今回は、三柱の造化三神の1番目に現れた天御中主神に絞って論じたい。

 

  結論から言うと、西洋近代哲学史の中に非常に近いことを述べている哲学者が2人いる。

 

  1人は17世紀フランスの「近代哲学の父」デカルト。あの有名な「我思う。ゆえに我あり」の我(コギト)。何でも疑い、考えに考えた末の結論だが、天御中主神がたった1人で現れた状況と似てないだろうか?

 

  もう1人は実存主義哲学の先駆者、19世紀デンマークキルケゴールだが、ヘーゲル哲学全盛期の時代にたった1人異議を唱え、「単読者」(人はたった1人である)という概念を唱えた。これも天御中主神と状況的には似ている。

 

  宗教的には、ユダヤ教キリスト教イスラム教に共通した祖、アブラハムだろう。満天の星空の下で自分が宗教的な始祖になることを約束され、老夫婦なのに子イサクが生まれ、さらにヤコブへと続く。

 

  つまり、混沌な状況の中でたった1人の自分という存在に気付き、そこから何かを始める場合が天御中主的なのである。