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新哲学と新戦術を不要として進まない現代

  現代には「哲学者」も「戦術家」もいない。もし哲学者が語る新哲学があれば、古臭いイデオロギーは一掃されて知的な次段階に世界が進化することだろう。また、もし戦術家が指揮を執ればイタチゴッコのパワーゲームもなくなり、愚かな政権は敗れ去ることだろう。

 

  過去の例で言えば、17世紀のデカルト登場による近代化の始まり、18世紀のヒューム登場による市場経済、実験科学、議会制民主主義の始まり等。戦術家は韓信義経、正成、メッケル等を念頭に置いている。

 

  しかし、誰もがそのことを無視している。歴史は哲学者がいなくても知的に進化し、戦術家がいなくても勝敗は決まると。どうだろう? もし17世紀にデカルトが登場せず、名著「方法序説」が無視されたなら、ヨーロッパは中世のままだったし、もし義経がいなかったら平家か藤原氏のまま日本に封建時代は来なかった。

 

  新型コロナ問題をめぐる右往左往や一向に上向かない経済生活、無能なのに給料だけは世界一の議員との格差は埋まらない。戦術家不在は中国の横暴に対処できず、何もかも次のステージに進まない。

 

  いや、本当は哲学者も戦術家もどこかにはいるのだ。彼らは何をしているのか? 例えば戦術家の場合、愚かなリーダーや幹部のもとで進められた企画が途中で大失敗に陥りそうになった時、人知れず関与して勝利や成功に変えたりするが、ほとんどの人が知らないまま感謝もせず自分達の力でうまくいったと勘違いしている。兵卒時代の韓信もそんな影の立役者だったが、漢が本気で楚に勝ちたいために表舞台に引き上げて更に大成功した。そして哲学者の場合、とっくに発表しており各方面に紹介は済ましている。いずれ誰もが知ってデカルト哲学の理性や座標のような常識になるが、そんな未来からすると「なぜ昔の人はこんな簡単なことも理解できず30年以上も長い閉塞を続けていたんだろう?」と首を傾げる。