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ヤフコメ民という現代の巨大な思想家

 先ほどテレビで“東大王”の男女4名(〇〇楓や〇〇光など)が、有吉や藤本ら芸人たちにイジられて観客たちにもウケていたが、なぜその頭の良さをクイズ番組などエンターテインメントにしか使わなのか? 経済や政治、教育、環境、疫病など知的解決が求められることがこんなに多い時代はないのに、とつくづく思う人は誰もいないのだろうか? もちろん、ひとたび政治的な発言をすればテレビ局は使いたがらないし、ギャラも得られない可能性もあるだろう。しかしそこは馬鹿とは違い上手く誘導できる賢さは持ち合わせていないのだろうか? そう考えると彼らに限界を感じるし何も期待できない。

 

 人類の歴史には時々飛び抜けて高度な発明や発見を行う人が出て来て進歩していったことも事実。その中には科学者や音楽家、冒険家だけでなく発想面で特にリードした哲学者もいる。ただし、1人(独り)だけでは絶対に無理で、その1人を評価して支持する大勢の集団に支えられて時代全体に変化が起きる。例えばプラトン1人だけではなく、プラトンを支持するアカデメイアの集団、デカルト1人だけでなく主著「方法序説」を読んだフランスの知的集団、カント1人だけでなく、一連の著作を読んだ集団がカントを支持して哲学史に変化が起きた。

 

 そのような「1人+集団による変化」が、哲学や経済学の分野においてもデリダハイエクを最後に1980年代末で途絶えた。以後約30年間、知的な巨星をまったく見たことがない。知性といえば冒頭に挙げた東大王のようなものしか認められず、過去にいかに知的な巨人が活躍したかを教科書では知っても無視する。前回までのブログの言い方では“封印”している。

 

 では政治的な分野では何も頭脳のない下等生物のようなものなのか、というと、そうでもない。哲学者は途絶えて久しいが、一定の思索パターンをもつ思想家という表現に言い換えると現代にも大小様々によく見かける。ニュース番組や討論番組のコメンテーター、解説者などで出演している。ただ昔ほどの勢いがないのは、スマホ時代になってどんな発言も精緻に分析され批判されるようになったからである。

 

 中でもヤフーニュースの記事についてくる通称“ヤフコメ”は率直に言って凄いと思う。テレビでいい気になって喋っている専門家がヤフコメ民の手にかかるとたった数行で一刀両断され、多くの「いいね」がついてトップに輝く。難しい話題もトップコメントを読むと簡易に本質が理解でき、しかも相対化されるので気分もスッキリする。専門家の立場からは憎く悔しい展開だろう。そのせいか次第に傲慢な専門家は表舞台から退場していった。

 

 面白いのは小泉政権のブレーンだった経済学者、竹中平蔵の記事が出た時には決まって起きるヤフコメ民によるワンパターンな一掃である。「こいつが日本に派遣を定着させた」、「今の俺たちが貧乏になったのは竹中のせいだ」、「大手派遣会社の会長職に招かれたことはおかしい」等々が上位コメにあり、何十万もの「いいね」がつく。それでも竹中は意に介さないのかいつもニヤニヤしてヤフコメ民の神経を逆なでする発言を繰り返し続けている。

 

 話を整理すると、竹中平蔵1人を支持する集団もいちおうあり、政治家や東洋大学、派遣関係者などがいる。一方で、竹中平蔵を悪く思うヤフコメ民がおり、そのコメントを支持する何十万もの人も現実にいる。後者はもはや、ある1人ではなく、複数なはずなのにまるで1人の思想家のように一定の思索パターンを共有する“ヤフコメ民”という思想家である。この両者が激しくせめぎ合っている。

 

 男たるもの、どんな分野でも相手にマウントを取ろうとする、優位に立とうとするものだが、それは現場作業においても猿の集団においてもそうで、マウントを取られた側は、マウントを取った側に対して威張ることを許して縦社会の関係が成立する。しかしヤフコメ民にとっては竹中平蔵にマウントを取られることを認めず、竹中の方も彼らにマウントを取られまいと、まだ政権中枢の御用学者や大手紙の解説者の位置にしがみつこうとしている。

 

 そうやっている間にも諸問題の深刻化は進み、知的解決という理想的展開からはどんどん遠く離れていっている。一番正しい道は、これら目立ちたがりに惑わされず、適切公正な見方と考え方で知的世界を見直して評価すべきものを評価していくことである。