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個人主義は野良猫と同義か?

  第3回「麒麟がくる」最後に明智氏は源氏の流れをくむ名門土岐氏の分家筋との話があった。

 

  その土岐氏の末裔の1人かどうかは不明だが、1980年代末から1990年代前半にかけて刊行された漫画「ハード&ルーズ」(双葉社 全7巻)の主人公が土岐正造という。東京神田の雑居ビルの小さな事務所のソファで寝泊まりする35歳の私立探偵である。仕事のほとんどはしがない浮気調査だが、たまに来る変わった依頼が面白く読み手を夢中にさせる。仕事のない日は競馬と風俗と缶ビールの毎日。

 

  ミュージシャンの織田哲郎が雑誌FMステーションでハマッていると紹介したから自分も読み、やがて学校や新聞などが教える表側の社会よりも真実を突いていると思うようになった。例えばスナックでカラオケを唄うネズミ顔のサラリーマンを横目にこう感じる。「誰もが異様に上手い。しかし全く感動しないのは何故でしょう?」「答えは簡単だ。管理社会は完成したのだ」。2巻の最後には「苦肉の商品を作り出し、売り、窮し、の繰り返しをボブ・マーレィはバビロンシステムと名付けた」と書くが、土岐にとってはボブ・マーレィや忌野清志郎こそ歌手であって、本当に聴くに値する存在なのだ。

 

  こんな漫画を読んで全面的に肯定すれば人生がベルトコンベアーからはずれ落ちるものだが、一部どこかで肯定できないところもあって、やがてこの本を破棄する時が訪れた。まずは時代がどこへ向かうのか予言したくだりへの疑問だった。「この社会が利潤と効率を至上の価値とする限り、管理の次に来るのは洗脳の時代だ!」と。洗脳? 確かに1990年代後半から、広報技術が格段に進化して繰り返しアナウンスするようになったから、電車の人身事故が起きてもアナウンスの繰り返しで不安が萎んだ乗客は暴動を起こさなくなり(1997年頃までは何も放送しなかったため駅長室へ大挙雪崩れ込んで怒号や暴動が「いつになったら動くんだよ!」等と実際頻発していた)、また、段ボール箱を抱えて2列縦隊で決まって直角に曲がって玄関に入っていく東京地検特捜部の強制捜査の映像を茶番とは誰も疑わず、他にも外資に媚びているだけの無茶苦茶な小泉ワンフレーズ政治の郵政民営化に騙されて選挙で大量当選させたりもした。

 

  しかしガラケーからスマホに変わり世界中が一変、今や発言を精緻に分析して批判しあう社会になり、安易な洗脳は不可能になってしまった。

 

  以前も書いたが、結局「ハード&ルーズ」の私立探偵を例えれば野良猫なのである。野良猫だから私生活もだらしない。作家村上春樹もマイホーム的価値観を徹底して嫌がると言われるが、悪く言えば同じく野良猫である。時折ビートルズやクラシックなどのウンチクで読み手は勘違いするが家猫ではない。土岐という姓が田中や清水、小林だったらどうだろうか? この漫画も土岐に漂う高級感から勘違いするが野良猫である。

 

  企業は入社した猫を管理して家猫にする。それが上記でいうところの管理社会なら、次の洗脳とは一段進んだ、懐いた猫ということになる。そして鼠の捕り方すら失った猫とも言える。社歌や社訓を繰り返し唱和して非科学的な社風に染められるうちにその会社にしか通用しない、文字通り懐いた家猫になる。それは確かに良くないが、かといって自活する野良猫が良いのかというとそうとも言えない。子猫を産み、孫猫ができ、も大事で、そろそも土岐正造や村上作品にはそれはない。

 

  西洋から入ってきた近代的自我の確立という個人主義が、一連の哲学的手続きなしに結果だけ輸入したため、日本ではただの野良猫になり、家猫を敵視しするようになったのではないだろうか?

 

  今も日本は哲学が苦手である。家猫でなければ簡単に野良猫と見なすし、懐くか懐かないかのみを重視する。

 

   個人主義者だって理性的に助けたり、理性的に妻子がいたり、時には家猫以上に自身を犠牲に奉仕することもあるが、多分よく理解されない。