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理屈と膏薬はどこにでもくっつく諺は凄い

  前回の「騎虎の将」著者、幡大介の作品には決まったフレーズが何回も出てくることがある。例えばこの本によく出てきた「剣呑」という言葉。他の人の小説ではあまり見かけないが、彼の著書「真田合戦記」にも、主人公の次郎三郎(後の真田幸綱)と従者の五郎丸の2人が冒頭に登場したところからもう、「剣呑ずら(五郎丸)」というセリフが現れ、次の交戦場面に続いていく。

 

  映画「スターウォーズ」シリーズでも、敵地に潜入した2人組のジェダイの騎士(時代劇の武士の意味)が、「悪い予感がする」と呟くのは定番のシーンである。司馬遼太郎によれば昔から日本は2人の武士を組ませて証人としたり背後をとられないようにしたり交互に休憩をとらせて見張らせたりと実用的に行っていたらしい。特に武田信玄は性格や技術を見極めてお互いが高め合う組み合わせに気を配っており、それが常勝軍団に変わっていくも後継者の義信や勝頼が頼りなく見られることにもなった。いろいろ話は飛んだがスターウォーズの話は近日書く予定。

 

  さて、本題の「理屈と膏薬はどこにでもくっつく」という諺、これも「騎虎の将」によく出てくる。室町時代の関東の入り乱れた情勢を説明する場面で、上杉方にも反上杉方にも、また上杉内では太田側にも反太田側にも、それぞれ自身を正当化して相手を否定する理屈はあり、長い間ずっと敵対しあっている。膏薬といえばこの寒い季節は肌の乾燥を防ぎ保湿効果のあるハンドクリームが定番で、夏は汗も対策のクリームが定番だが、確かにどこにでもくっつく。そんな膏薬と同様に理屈もどこにでもくっつく。

 

  「~が原因で・・という結果になる」因果律や、「~だから」「~のせい」等の理屈を練り、説明する人で特に目立つのは仕事上の上司や先輩、教師、坊主、司祭などだが、これらの理屈の正統性の根拠はといえば、自身の経験に基づいたものや、経典、聖書などのテキストだったりする。つまり絶対ではなく、部下や後輩の方が新しい経験からより優れた理屈を導き出したりする。宗教でも時代が下るに従ってその時々の宗教家が理屈を練り、当時の人々に受け入れられているうちに、大昔の釈迦や孔子が言ったこととは全然違ったものになったりする。これを見抜いた江戸時代中期の天才思想家、富永仲基の「加上」という考え方は、遠く離れた18世紀イギリスの哲学者、ディビッド・ヒュームの哲学と同じだと言われる。

 

  ヒュームの有名な観念連合という哲学の場合、「人間の本性は単純観念から複合観念をつくるから、因果律は絶対とは言えない」にまとめられ、ここから伝統的キリスト教因果律は絶対でなくなって実験科学が重視され、王権は絶対でなくなって議会で観念連合をブレインストーミングする民主主義が重視され、さらにより良い観念連合を求めて経済も自由に競争する市場経済が重視され、後輩のアダム・スミス国富論で「経済学の父」となった。

 

  このように西洋哲学史では最も大きなターニングポイントとなったヒュームだが、他にもドイツのカントを驚かせてヘーゲルマルクスへと屈折したり、科学者のマッハやアインシュタインが愛読者だったり、現代の悪名高くもこれしかないと言われる新自由主義ハイエクシカゴ学派に始祖的な位置付けに置かれたりする。

 

  既に生前から、ヒュームは無神論者なのに「聖ヒューム」と落書きされるほどで、消そうとした人を止めてこれを面白がったりしていたものだったが、そんな重大な哲学を、日本では出所不明な「理屈と膏薬はどこにでもくっつく」という諺で誰でもわきまえていたりする。

 

  だから日本ではヒュームの何が凄いかがあまり分かっていない。私の場合は若いときから宗教や芸道、田舎などで固定した因果律を強制され、更に相反するため個々の因果律に疑問を持つ中でヒュームを知って夢中になったものだが、こうした特殊な環境下に置かれない大多数の日本人は普通に無神論(神は人がつくったもの)で、しかも西洋人が驚くように無宗教なのに道徳的で科学的だったりする(触らぬ神に祟り無し、神仏は貴いが神仏に頼らず)。

 

  ちなみに理屈という字はもともと出典的には「理窟」が正しいものの、明治頃から簡略化され、簡易な字の方で馴染み深くなっている。同様な意味の諺として「嘘も方便」や「盗人にも三分の理」「屁理屈」などがあり、結局なんとでも説明はつくのである。

 

  では正しい原因はないのか、なくていいのか、となるとそうでもなく、真実の追求も一方では重要視される。温泉だって地面のどこを掘っても出るわけではない。近畿でも同様で、大阪や京都から遠く離れた山奥の有馬でしか温泉が湧かないので、古代から天皇家豊臣秀吉などがわざわざ足を運んで有馬温泉まで行く。発見した人もそれを評価し行動に移す人も大したものである。

 

 理屈と膏薬はどこにでもくっつくが、温泉はどこを掘っても出るわけではない。先ほど44度の熱い温泉に入ってきたが、足のむくみも肩のコリもなくなった。成分にもよるのだろう。秀吉が治癒のため黒田官兵衛に勧めた理由もよく分かった。これは確かに長期間の獄中生活でボロボロになった身体も甦る。と、出掛けに「金の湯」に浸かった歴史上の有名人の看板を改めて見直すと、一番肝心な黒田官兵衛の名が無かったので指摘しておいた。彼の献策や助言がなかったら、秀吉の山陽遠征での連戦連勝はないし、前回書いたように韓信や道灌がたどった別動隊の悲劇に秀吉が陥らないよう主君に花を持たせるべく毛利との最終決戦に信長を呼ぶこともなかったし、その途上で隙だらけな本能寺を狙って光秀が裏切ることも、信長亡き後すぐに毛利と和睦して仇討ちに引き返す策を囁くこともなかった。つまり歴史を大きく変えたことに温泉での治癒期間が貢献したと言える。