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(北朝鮮) 理想の包囲方法を家康で解く

  昨日、米朝会談を5月までに行うニュースが飛び込んできた。

 

 アメリカを中心にした包囲、経済封鎖に北朝鮮が降伏したようには見えない。

 

  ここで大規模な包囲について徳川家康の先例を見てみよう。「小牧長久手の合戦」を前に、当時5か国の太守だった徳川家康は、敵対する大坂の羽柴秀吉に対し包囲環を形成しようとした。

 

  包囲網と言わず包囲環としたのは、東西南北の諸将で環状に包囲するからである。家康は、尊敬する武田信玄が安土の織田信長に対し東西南北の包囲環をつくったことに学んだ。東(武田信玄)、西(毛利氏)、南(大阪本願寺の賢如)、北(浅井朝倉氏)。すると信長は、旗印の足利義昭を京都から追放し、東(徳川家康)、西(羽柴秀吉)、南(丹羽長秀)、北(柴田勝家)らを派遣し対応させたものの、中央が空洞化したため、義昭の元家臣だった明智光秀に本能寺にて討ち取られた。

 

  小牧長久手の戦いを前に形成した対秀吉包囲環は、東0(徳川家康)、西0(島津氏)、南0(長宗我部氏)、北0(佐々成政)だった。すると秀吉は、信長のような派遣隊は作らず、東西南北で小競合いを起こさせた。東1(真田昌幸)、西1(大友宗麟)、南1(十河そごう氏)、北(上杉景勝)、信州上田合戦の東0対東1など、各地の小競合いで包囲環を揺さぶる一方、家康が反秀吉の大義名分とした旗印、織田信雄が懐柔され、勝負はつき、家康が秀吉の軍門に降った。

 

  秀吉没後、今度は関ヶ原の合戦を前に石田三成が対家康包囲環を形成しようとしたが、家康は秀吉の方法を真似てこれを崩すことに成功した。東0(上杉景勝)に対し東1(伊達政宗)を対戦させ、西0(黒田官兵衛)に対し西1(加藤清正)の九州小競合い、南0(毛利氏)に対し南1(藤堂高虎)の四国小競合い、北0(丹羽氏)と北1(前田氏)の間では浅井畷の激戦が起こり、関ヶ原で勝った家康は旗印の豊臣秀頼大坂城に封じ込めた。

 

  15年後の大坂の陣では、全国の大名の軍勢を関西に集めて包囲し、豊臣方にこの包囲環を崩す余地を与えることなく滅ぼした。

 

  しかし、家康没後の島原の乱では若干失敗する。大名連合軍を北九州に集めるも大将の板倉重昌は戦死。次の大将となった戦経験に乏しくも知恵伊豆の異名をとる松平信綱は、原城の沖に外国船を呼んで大砲を撃たせた。これがキリシタンに与えた心理的衝撃は大きかった。なぜなら同じキリスト教として諸外国の船が必ず原城を助けに来て徳川連合軍を蹴散らすと見込んでいたからだ。

 

  大坂城と違い原城が持ちこたえた理由も包囲環崩しの一種と言えるが、今回の北朝鮮包囲環も、東0(日本の安倍)に対し東1(韓国の文)を小競合いさせ、西では中国の習をドイツに近づけてイギリスを牽制し、南はイスラム国、北はロシアのプーチンと、決して一枚岩の包囲環になっていない。

 

  そんな状況下での非核化表明、米朝会談は決して油断がならないし、日本国内もいまだにモリカケ問題で小競合いが続いている。