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中世の暗黒時代と平成のブラック企業

 「ブラック企業」や「黒歴史」のように黒色をマイナスな意味で使う表現は多い。

 古くは「長い中世の暗黒時代」というように使ったりする。そこで中世と現代の黒の共通点を挙げてみたい。

 まず、中世キリスト教のスコラ哲学には原因と結果の関係が全然科学的ではない。「これをしたら不幸になる」「あれを見たら悪霊に憑かれる」「彼女は魔女だ」等のように。一方、現代のブラック企業サービス残業が多く各種ハラスメントが多いけれども、これらを行うと解決するという変な因果律に基づいている。

 中世は教条主義とも言われ、実際ぶ厚い教本が備えられている。一方、現代のブラック企業もワンマン経営者のもと次から次へと新ルールができ、旧ルールとの折り合いがついてないので膨大なルール量となっている。

 そして、中世はやはり魔女裁判に代表されるように残酷な公開処刑が行われる。一方、現代のブラック企業もリストラで粛正し、懲罰解雇の基準も人道的でないことが多い。

 哲学思想の歴史では、長い中世の暗黒時代の末期に、フランスのデカルトが自ら考える理性に気付いて、以後は民主革命や実験科学、産業革命市場経済などの近代が幕を開けたことになっている。

 それがなぜ、現代になって再び黒色、ブラックが出てきたのだろうか?

 中世を再度振り返ると、そこにローマ帝国があった。ローマ帝国の前身はアレクサンダー帝国で、アレクサンダーの家庭教師はアリストテレスだった。アリストテレスは師のプラトンを反面教師にして哲人政治という理想の失敗を踏まないようにした。

 中世キリスト教は前半が理想主義的なプラトン型(アウグスティヌス)で、後半が反理想主義的なアリストテレス型(トマス・アクィナス)と言われている。つまり分類整理し教条が膨大に増えていく。

 現代の企業も、当初は理想に燃えて拡大していった。しかし良いカタチは永遠には続かない。現実に合わせていこうとする。そして現実的に拡大する。かつての帝国のように。で、大きくなったところで、ローマ帝国後半のアリストテレス的なスコラ哲学のように、教条主義となる。

 中世キリスト教哲学に決定的な大打撃を与えた哲学は、デカルトの後に出てきたイギリスのヒュームだった。ヒュームは「観念連合」という考え方で、教条主義の観念連合に必然性はないと述べた。そこから実験科学が重視され、より良い観念連合のために市場競争経済や議会制民主主義政治へと向かった。

 現代にブラックが再び出てきたのは、近代がまだまだ弱いからである。この先の話は過去記事の観念分断などを参考に。伝統が何もかもダメという訳ではないが、このブラック化が中世の歴史と同じ流れで出てきていると思われたから整理してみた。