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「本能寺の変」再発防止はナンバー2対策から

 先日6月2日は本能寺の変が起きた日。天正10年、天下統一まであと少しだった織田信長が僅かな手勢と本能寺に宿泊中、毛利征伐に向かっていたはずの明智光秀軍が引き返してきて早朝に襲撃された事件である。

 その後の権力者は当然これが二度と起きないよう再発防止に取り組んだはずだ。事件の要因として信長の癇癪はあるものの、何より自分のナンバー2たる光秀に近江と丹波という京都近くの2ヶ国を与え、畿内に1万3千の軍勢をすぐに動員できたことが大きなリスク要因だった。

 豊臣秀吉は同じ轍を踏まないよう、石田三成には畿内であれど4万石しか与えなかった。そして徳川家康には北条征伐後東海から関東へ移し、黒田官兵衛は九州福岡へ、蒲生氏郷は東北へと大阪近くには置かなかった。蒲生は「自分がもう少し強くなかったら畿内にいたのに」と悔しがったらしい。

 徳川家康も同様に、謀臣本多正信には僅かな禄しか与えず、有力大名は遠方へ移す一方、江戸城周辺には旗本を住まわせ、本能寺の変が起きないようにした。

 こう見てくると、信長の危機管理対策がいかにも抜かっていた印象を受けるけれども、明智日向守光秀と名乗らせたように、ゆくゆくは九州を治めさせるつもりだったらしい。

 いずれにせよ、ナンバー2クラスの力次第で、組織はあっけなく転ぶ。織田家は裏切られて崩壊した。現代でも同じことは言え、お家騒動が起きている企業はたいていナンバー2に力を与え過ぎたからである。