彼は、記号を「シニフィアンとシニフィエ」に分けた。すなわち、シニフィアンが記号表現、シニフィエが記号内容で、図のように表され、「シニフィアン+シニフィエ」の結びつきを「シーニュ」という。
さて、シーニュにおいてシニフィアンとシニフィエは不可分とされているが、主サイト「タイバネティックスの講義録」では、シニフィアンをσ(シグマ)、シニフィエをλ(ラムダ)として、切り離して考える場面も多い。例えば、
・目撃するまでで未だ興味を持つに至らない状態は、対象の記号的特徴だけがある。
・競技の優勝者を表彰する段階では、シニフィエに相応しいシニフィアン、
金メダルを授与する。
そして、ここから前節までの歴史の話に入るが、新政権の樹立も一種の優勝であり、金メダルに当たるものとして、新制度の制定がある。タイバネティックスではこれを「YyOTtの法則」と呼び、λとσの新しい結びつきを国内に強いる。
奈良時代の場合は「律令」、平安時代の場合は「格式」、鎌倉時代は「御成敗式目」というように。
ところが、言葉の世界には「死語」という現象がある。「激オコぷんぷん丸」や「ナウい」、「オッケー牧場」、「うんちゃ」等、シニフィアンのみでかつてのシニフィエがほぼ無い。制度の「律令」も次第に形骸化して死語となった。平安や鎌倉において律令と言っても無駄なのである。
制度が死語とはなったが、なお国内の政治を良くしなければならない場合、ここで「改革」をしようとなる。タイバネティックスでは「WwOZz」で、技術的にイジるが、たいていの改革はうまくいかない。
そこで、新しい言葉、概念、制度を待望するようになる。江戸時代には「武家諸法渡」、明治時代には「大日本帝国憲法」のように。
言葉の中でも、死語になりにくいものは、日常生活用語のようなもので、死語になりやすいものはその逆である。
制度疲労の正体は、制度そのものの法的な問題というよりも、以上のような死語の現象が背景にある。
そして現代は、行政改革とはもはや言われなくなったので改革期ではない。やたらとTPPが連呼されており、TPPはただ関税だけの問題ではなく、広域の法制度的なものということももはや知れ渡ってきている。
つまり、変革期のキーワードになりつつある。しかし、実生活に結びつかないアメリカ寄りの制度制定には何も実効はないだろう。