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各政府の情報操作とネット民の批判

【昨年末の中国政府】

「未知のウィルスが武漢に発生した疑い? そんなの表沙汰にできるか! よく確認して実際どんなウィルスか分かるまでは情報を漏らすな!」

武漢中に感染が拡大してしまった。

 

【年初の日本政府】

「新型コロナウィルスは感染力が強い? だからといって春節の入国を全て止めたら中国頼りの日本経済が大打撃を受けるだろう。馬鹿なことを言うんじゃない!」

→国内に感染者が発生してしまった。

 

【2月の欧米政府】

「日本に寄港している豪華客船への対応は日本を叩くいい機会になる。欧米はアジアから遠いのでこんな寄港はない。船の乗員が帰国してもきちんと検査や隔離措置を行えばいい!」

→陰性の結果で帰国しても潜伏期間だった。ハグやキスの習慣で感染し、やがて陽性結果が爆発的に増えた。

 

※こう見てくると、どの国の政府も最初は過小評価して国民を不安がらせないように努めたり、他国を非難して我が国は大丈夫と国民を安心がらせたり情報操作を行うものの、やがては感染が広がって休業や休学、医療崩壊などが起こっている。ネットでは、「中国政府が隠蔽しなければ」「日本政府が春節の入国を止めていれば」「欧米政府はアジアを悪く言い過ぎで自国の方が甘いじゃないか」などと後になって批判するが、では自分が政府当事者になったら百点満点の対応が出来るのか?

 

  受験勉強には必ず正解が1つあって、正解以外の回答は全て誤答になるものだが、受験勉強を潜り抜けてきた人々は各国政府が正答を回答していないという感じで批判する。

 

  しかし、これは受験問題ではなく、正答と誤答の2分法を行う話ではない。例えば航空業界や観光業界も今後は今までと同じノウハウが通じず、何が正答か誤答かと机上だけで判断できない。

 

  昨年までのノウハウが通じず、今年からは何もかも違う。当面はどの国の政府も地に足の着いた姿勢で状況を正確に把握しつつ現実的に対応するしかない。ストレスは当然溜まる。ネットの批判は全てではないが多くはそのガス抜きに過ぎない。

 

  

(麒麟がくる) なかなか考えた演出

  通史では信長と光秀との初対面は足利義昭を越前から岐阜に連れていった時とされる。漫画「日本の歴史」でも、この場面でお濃(帰蝶)が光秀を信長にイトコだと紹介している。

 

  ただ光秀の前半生は全く謎とされるので、例えばある漫画ではヤンキー仕様の信長が同じく無頼風の光秀と尾張の街中で出会う場面があったりする。

 

  この大河では、主君利政(後の斎藤道三)に命じられて帰蝶への訪問時を信長と光秀の初対面の時とした。意外と自然である。そして鉄砲の話題で意気投合する。これも大いにあり得る。更に幼き竹千代が室内に入り、信長と光秀、家康が顔を合わせる。あり得ると言うか凄い展開である。

 

  歴史好きが視たら間違いなく興奮する。こういう描き方は他作品にもあり、例えば幡大介の「真田合戦記」では今川の人質中の竹千代と、主君信玄に命じられて信虎のもとを訪ねた若き真田昌幸とが信虎の思いつきで盤上合戦を繰り広げる場面は凄く面白かった。数十年後、本当に徳川と真田は上田城にて二度に渡り合戦することになる。

 

  実際の歴史は記録に残っていることが全てではない。記録に残っていない場面もたくさんある。それを作家は補足し、読者は支持する。

 

  信長と光秀はかなり早いうちに互いをよく知っていた。オモテに出てきたのは義昭を担いだ時だったが、スムーズにコトが進んだ裏には互いの以前からの関係があったからとも十分に思える。

 

 こういった大胆な解釈は歓迎する。

 

 

人事交流や採用を染め物に例えるなら

  企業が新卒の若者を採用することを布染めに例えるなら、まさしく染めやすい生地が良いし、油がついたりして染めにくかったり、先に染まっている色と混ざってしまうような布は不採用とするのだろう。やがてその布が色褪せてくたびれてくると雑巾のような使い道か、もしくは捨ててしまう。縁故採用であまり使わない布の方が、特に使わないまま長く居続けたりするものだ。

 

  一般的には若者は企業に採用されやすいよう、染まりやすく丈夫な布であることをアピールし、黒に近い色の企業を避け、採用されると早く染まるように勤め、賃金を得るため拭かれたり磨いたりボロボロの布になるまで働く。

 

  しかし、面接官が採用を遠慮するような布の中には、染めてみると意外に良いものになったり、あるいは染めなくてももう十分に染まって使える布だったりするものもある。また、経営の悪化からリストラされた布の中にも使える布はいろいろとあるものだが、使ってみないと分からなかったりする。

 

  理数系に強い頭の持ち主は丈夫で染まりやすい生地で、採用後にその会社の色に染められる一方、文科系に強い頭の持ち主はすでに何らかの色に染まっているように見える。特に思想を勉強している者はそうだ。

 

  染まっている布と染まっている布とが交流する場合、仲良くしようという意志があまりなければ、単に自分の色を主張するだけの平行線で終わる。平行線で終わりたくない若い側が、年上の側に全面的に降伏してその色に染まろうと弟子入りする場合があるものの、先に染まっている色との混ざり具合から、必ずしも師匠の思う通りの色にはならなかったり、あるいは裏切られたりする。

 

  理想的には、色といったって赤青黄色と白黒の5色を基本に様々あるわけだから、互いの色を知って近い系統を確認しあったり、互いに譲り合ってより良い色を新しく生み出したりすれば良いと思う。もちろん悪い色になる場合もあるが、自身と相手がどんな状況でどれだけの色を出し合えば良い色になるかは今後の我々の知性次第である。

 

"各"を最後につけてみる説

  形や物など対象の側と、思念や波動など精神のような側と、2つに分ける話はよくある。ではこの2つの組み合わせについての話はあるか?

 

  例えば、芸道で「~流」という場合、生け花や刀などの対象に意味や方法などの精神が組み合わされ、特有の、固有の何かになる。

 

  それでは対象と精神との固有の組み合わせを表現する言葉はないか?  いや、その前に必要がないから今まで言葉がなかったのだろうと誰でも思うが、今までがそうであっても、これからは違う。

 

  いろいろ見直さなければならないことが数多いのに何も変わらない現状、変わらないどころか悪い方法を強いられる現状、良い方法があっても妨害があって根付かない現状。これらの現状を直視すれば、改革という言葉では不十分で解決には程遠い。

 

  改革とは、大元は変えず小手先を技術的に変えるだけで、あちらを立てればこちらが立てずの繰り返しになる。直近の問題は体裁的に解決できてもまた別の問題を生じる。では革命が良いのか?

 

  革命とは後から振り返って分かることが多く、目指すだけの革命はただの破壊と同じである。ビジョンもなく壊してばかりでも良くない。壊した後の創造、これが大事である。

 

  創造に必要なものは、先ず何よりも良心と現場感覚、そして知恵と教養である。これらのないビジョンは悪い支配や占領となる。

 

  以上の話の重要性に気付く人を現状では見たことがない。賢そうな屁理屈を並べてマウントをとろうとする人しかいない。もし本当に世の中が良くなっていくのなら、一昔前の、つまり現在横行している屁理屈の時代を恥ずかしく振り返ることになるだろう。

 

  話を戻すが、「この対象にはこの意味」「あの対象にはあの方法」といった、対象と精神との固有の組み合わせを表現する言葉は探せば見つかり、それは"各"だとわかった。

 

  「各家」「各議員」というように冒頭につけるものだが、各をつけることで各々の家や議員がクローズアップされる。各という字自体、精神と対象との組み合わせになっている漢字であり、各机といえば個々の形だけの机に人による精神性が加わる。

 

  そこで、今までにない言い方だが「この机の各」と呼ぶようにすると、固有性や属性が強く浮かび上がってくる。「この家の各」、「この議員の各」。見えなかった固有性や属性を白日のもとにさらし、「良各」と「悪各」を「比各」したり、「最上各」や「適各」を求めたりすることもできる。

 

  新型コロナ問題の各対策と言えば、個々の対策は何かとなり、新型コロナ問題へのある対策の各と言えば、意図や背景など裏に封印していたものまで見えてくる。

 

  各◯◯という、一見個々に着目したようでそうでもない言い方を変え、本当に個々に着目した◯◯各という見方や考え方で、誤魔化しのない本当の創造性を迎えるようになればと思う。

 

  

 

  

歴史から賢愚を学び、現代政治の賢愚を思う

  なぜ歴史を学ぶのか? 歴史には多くの英雄がいて面白いが、その前に英雄とは真反対の愚かな権力者がいる。

 

  愚かな権力者は、非常に自己中心的で、自分に反対する人を処刑したり、自分の保身のために国を売ろうとしたり、周りが苦しんでいても全然意に介さないでいたりする。これらの愚かな権力者たちが何故いたのか?

 

  世襲で権力の座に就いたり、最初は良くても次第に悪くなったり、お世辞がうまい佞臣を近づけ諫言が厳しい良臣を遠ざけたり、といろいろある。やがて国全体が弱体化して滅んだり滅ぼされたりする例は多い。

 

  人は本来、賢さを尊ぶ。愚かだと怪我や火傷をしたりするし、目的が達せられない。しかし、他人が賢く幸福だと自分は面白くないし、まして高位にあると疎ましく思う。だから低位にある者に不当な方法や生き方を強制する。その強制する側に近い人々も愚かな状況を肯定して誰も反対しない。

 

  最近、新型コロナで苦労を強いられている国民のために政府が一律1万2千円を支給する案が浮上して、それを知った国民から主にネット上で多数の呆れる声が殺到した。金銭感覚が絶対にまともじゃないと。諸外国の対策も今やネットで簡単に参照し比較できる時代に、何故こんなにも国民から叩かれる政策が表に出て来て誰も止めなかったのだろうかと、素朴な疑問が浮かぶ。

 

  今後も彼らボンボンの政治家が何か発言する度に大恥をかく事態が続くのだろう。では叩く側から何か新しい動きは出ないのだろうか。

 

  歴史では英雄が出てくる前に多数の残念な犠牲者が出てくる。太田道灌しかり、安政の大獄しかり。それが怖くて匿名の掲示板やブログを撰ぶ。ただそうしている間にも、新型コロナや台風、地震など平時とは違う出来事が起こると特に、権力者の賢愚は明らかになる。

 

  日本はまだ、国民の半数以上が愚かな国とは言えず、愚かな権力者に操られたりはあまりない。今求められているのは温室育ちの賢さではなく、厳しい環境を生き延びる知恵と賢さである。

 

ヤフコメ民という現代の巨大な思想家

 先ほどテレビで“東大王”の男女4名(〇〇楓や〇〇光など)が、有吉や藤本ら芸人たちにイジられて観客たちにもウケていたが、なぜその頭の良さをクイズ番組などエンターテインメントにしか使わなのか? 経済や政治、教育、環境、疫病など知的解決が求められることがこんなに多い時代はないのに、とつくづく思う人は誰もいないのだろうか? もちろん、ひとたび政治的な発言をすればテレビ局は使いたがらないし、ギャラも得られない可能性もあるだろう。しかしそこは馬鹿とは違い上手く誘導できる賢さは持ち合わせていないのだろうか? そう考えると彼らに限界を感じるし何も期待できない。

 

 人類の歴史には時々飛び抜けて高度な発明や発見を行う人が出て来て進歩していったことも事実。その中には科学者や音楽家、冒険家だけでなく発想面で特にリードした哲学者もいる。ただし、1人(独り)だけでは絶対に無理で、その1人を評価して支持する大勢の集団に支えられて時代全体に変化が起きる。例えばプラトン1人だけではなく、プラトンを支持するアカデメイアの集団、デカルト1人だけでなく主著「方法序説」を読んだフランスの知的集団、カント1人だけでなく、一連の著作を読んだ集団がカントを支持して哲学史に変化が起きた。

 

 そのような「1人+集団による変化」が、哲学や経済学の分野においてもデリダハイエクを最後に1980年代末で途絶えた。以後約30年間、知的な巨星をまったく見たことがない。知性といえば冒頭に挙げた東大王のようなものしか認められず、過去にいかに知的な巨人が活躍したかを教科書では知っても無視する。前回までのブログの言い方では“封印”している。

 

 では政治的な分野では何も頭脳のない下等生物のようなものなのか、というと、そうでもない。哲学者は途絶えて久しいが、一定の思索パターンをもつ思想家という表現に言い換えると現代にも大小様々によく見かける。ニュース番組や討論番組のコメンテーター、解説者などで出演している。ただ昔ほどの勢いがないのは、スマホ時代になってどんな発言も精緻に分析され批判されるようになったからである。

 

 中でもヤフーニュースの記事についてくる通称“ヤフコメ”は率直に言って凄いと思う。テレビでいい気になって喋っている専門家がヤフコメ民の手にかかるとたった数行で一刀両断され、多くの「いいね」がついてトップに輝く。難しい話題もトップコメントを読むと簡易に本質が理解でき、しかも相対化されるので気分もスッキリする。専門家の立場からは憎く悔しい展開だろう。そのせいか次第に傲慢な専門家は表舞台から退場していった。

 

 面白いのは小泉政権のブレーンだった経済学者、竹中平蔵の記事が出た時には決まって起きるヤフコメ民によるワンパターンな一掃である。「こいつが日本に派遣を定着させた」、「今の俺たちが貧乏になったのは竹中のせいだ」、「大手派遣会社の会長職に招かれたことはおかしい」等々が上位コメにあり、何十万もの「いいね」がつく。それでも竹中は意に介さないのかいつもニヤニヤしてヤフコメ民の神経を逆なでする発言を繰り返し続けている。

 

 話を整理すると、竹中平蔵1人を支持する集団もいちおうあり、政治家や東洋大学、派遣関係者などがいる。一方で、竹中平蔵を悪く思うヤフコメ民がおり、そのコメントを支持する何十万もの人も現実にいる。後者はもはや、ある1人ではなく、複数なはずなのにまるで1人の思想家のように一定の思索パターンを共有する“ヤフコメ民”という思想家である。この両者が激しくせめぎ合っている。

 

 男たるもの、どんな分野でも相手にマウントを取ろうとする、優位に立とうとするものだが、それは現場作業においても猿の集団においてもそうで、マウントを取られた側は、マウントを取った側に対して威張ることを許して縦社会の関係が成立する。しかしヤフコメ民にとっては竹中平蔵にマウントを取られることを認めず、竹中の方も彼らにマウントを取られまいと、まだ政権中枢の御用学者や大手紙の解説者の位置にしがみつこうとしている。

 

 そうやっている間にも諸問題の深刻化は進み、知的解決という理想的展開からはどんどん遠く離れていっている。一番正しい道は、これら目立ちたがりに惑わされず、適切公正な見方と考え方で知的世界を見直して評価すべきものを評価していくことである。

 

今こそ封印を解くべき時

【プロローグ】笑福亭鶴瓶が封印していた?

 

 “長い間、封印していた何かが出てくる”という話が幾つかある。古くはギリシャ神話の「パンドラの箱」が有名であり、最近では「ドラゴンボール」で炊飯器に長く閉じ込められていたピッコロ大魔王(魔人ブゥも玉に封印されていたが)や、「妖怪ウォッチ」で祠(ほこら)に何故かあったガチャガチャマシンのカプセルに190年間閉じ込められていたウィスパーが第1話で主人公のケータによって出てきたりする。村上春樹氏の「騎士団長殺し」にも主人公が住むことになった小田原の家の裏山の祠のそばの穴の封印を解く話が前半の山場になっている。

 

 先月放送されたスペシャルドラマで、敗戦後の日本を復興させた最大の立役者である吉田茂首相を笑福亭鶴瓶が演じることについては放映前に多くの視聴者が「何を演っても鶴瓶になる」と懸念した通りのミスマッチが起きた。吉田茂役といえばもはや伝説にもなった森繁久彌の好演という良き先例があるのに、なぜ鶴瓶を起用して周りの昭和天皇マッカーサーたちの頑張りを壊すような制作をしたのか? 2年前の大河ドラマ「せごどん」でも明治維新の立役者たる陰謀家の岩倉具視鶴瓶が演じて「岩倉に見えずいつもの鶴瓶にしか見えない」と散々の不評だったが、どうにも解せない、そこまでしてテレビ制作側が封印したいものが実はあるのではないか? と、思われた。

 

 岩倉具視吉田茂鶴瓶以上に演じられる本職の俳優はたくさんいるはずだが、そのキャスティングによって視聴者の中の誰かが大きな影響を受けて社会全体が今までの流れから大きく逸脱してしまうことでも恐れているのか? そう考えると、鶴瓶とはまさしく封印に使うお札かシールのような位置づけになる。 

 

【前編】江戸幕府が長く続いたのは封印が効いたから?

 

 豊臣秀吉徳川家康の2人が小田原城攻めの終わりが見えた頃に、ある眺めのよい所で立ち小便をしながら、関東平野を家康にくれてやると言った話は有名である。以後、家康は関東の大規模工事に着手するにあたって、その中心地を昔太田道灌も着目した江戸の地に定めた。更に京都の高僧、天海和尚が招かれて開発陣に加わり、持ち前の天文や易占の知識を駆使して首都づくりに貢献した。特に鬼門にあたる東北方面の方角に注意すべきとして上野に寛永寺を設置した。晩年には、御三家のうち東北にあたる水戸から将軍を迎えると幕府が滅ぶとの予言を残したが、300年続いた江戸幕府も第15代将軍の慶喜を水戸から迎えて本当に滅んでしまった。鬼門に建てられた寛永寺は江戸を守るための封印になっていたと思われるが、開城後に慶喜が一時謹慎させられた場所になったり、残党が立てこもるも天才大村益次郎の作戦により1日で決着がついて(諸藩の軍で包囲して激しく大砲で砲撃するも東北方面だけ開けて逃走させた)封印としての役割を完全に終えた。

 

 この東北方面に注意する話を更に広げて考えると、例えば室町幕府第15代将軍の足利義昭はどこから来たか? 京都にとって東北に位置する越前の朝倉家に匿われた後、岐阜の織田信長が奉じて入京した。朝倉家へも織田家へも義昭に付き従い積極的に提案実行した家来こそ今年の大河ドラマの主人公、明智光秀なのだが、前出の天海の謎の前半生について実は光秀だったのではないかという話もある。賛否あるものの、なぜ東北方面に徳川幕府は注意して決して将軍を出さないようにと主張した背景には先例を知っていたからと考えられる。

 

 他はどうだろうか? 平家を滅ぼした源義経は当時平家の都があった神戸からは東北にあたる鞍馬寺で牛若丸として幼少時を過ごし、後に金売り吉次の商隊に隠れて弁慶とともに東北の藤原秀衡のもとで青年時代を過ごした。  鎌倉時代室町時代の間には同じく東北の軍勢を率いて参戦した北畠顕家が、奈良時代平安時代の間にも東北のアテルイを倒して名をあげた初代征夷大将軍坂上田村麿がいた。奈良時代飛鳥時代の間に活躍した大海人皇子(後の天武天皇)にも関ヶ原にエビス勢が加わったことが勝利に関わった。そしてさらに遡れば、オオキミの家系が断絶しかけたのを遠い縁戚ということで越前の継体天皇が皇統を継いだ話もある。

 

 前編の最後は太平洋戦争の話になるが、日本にとって東の方角を延ばすと南米にあたり、鬼門にあたる東北方面が実はアメリカ合衆国だったりする。(世界の国々の方位より引用)

日本から見た世界の国々の方位

 

【後編】現代が封印していた何かとは?

 

 戦前、軍部に徹底的に弾圧された新興宗教大本教の教祖である出口王仁三郎は「艮(うしとら)の金神(こんじん)」を重視したが、彼の世直しのイメージとは大きく異なるものの、上記の流れでいけばそれは東北(艮)の方角にあるアメリカからやってきたマッカーサー率いるGHQによる一連の占領政策だと思われる。憲法をはじめ、教育や経済、農地、公職追放など多方面で日本の世直しが行われた。

 

 そして、日本は二度と戦争を起こしてはいけないとの趣旨から軍隊は解体して天皇は象徴に過ぎなくなり、憲法を強く護持するようになった。戦争に至った経緯は実はもっといろいろあり、列強による包囲網や物資差し止め、日清日露に勝った日本への恐れ、東アジア情勢やソ連誕生なども視野に入れて考えなければならないはずだが、とにかく単純化されて戦後の日本は経済大国一筋、つまり商人的な生き方のみが肯定された。

 

 昭和の深夜は、艮(うしみつどき)に入る少し前の時間帯だが、「11PM」という番組が盛り上がった。作家の藤本義一氏がメインで、バニーガールが目立つ何でもありな路線だった。さすがにエロ関係など世のPTAから非難されて昭和が終わるとともに番組も終了したが、その後を継いだのが上岡龍太郎の司会による「EXテレビ」だった。

 

 この番組も何でもありなところはあるものの、特徴的だったのは関西では大物だが関東では知名度が低かった上岡の独壇場になったことだった。関西人といえば吉本新喜劇アホの坂田のイメージしかなかったはずが、この上岡は上方の古典教養に通じた高い知性を惜しげもなく早口で披露し、政治批判や社会のタブーにも鋭く切り込んでいった。しかも東京の制作スタッフによる台本には決して乗らない。台本なしで即興で生番組に挑んで視聴者を得る。誰にも出来る芸当ではない。

 

 いや、できる芸人がもう1人いた。それが笑福亭鶴瓶である。人気が上がった上岡は次に鶴瓶とタッグを組んで「パペポTV」を始めた。これもぶっつけ本番で、悪く言えば観客に失礼なただのお喋りだが、それでも笑いをとり、放送を毎週楽しみにする視聴者も多かった。鶴瓶知名度は上岡によって上がり、以後も鶴瓶はぶっつけ本番の方式でオセロの松嶋と組んだり旅ブラ番組を成功させていった。

 

 逆に上岡龍太郎の方はまだ全然元気だったはずだが、突然引退を宣言し、テレビにはまったく出なくなった。大阪で好きなゴルフでもしてのんびりと過ごしたと聞く。横山ノックの葬式の際に一度話題になったぐらいで、引退への決意は相当のものだったと思う。ではなぜ引退したのか? それは誰にも分からない。

 

 ただ今回の話で冒頭に鶴瓶が何を封印したのかという回答に上岡龍太郎が含まれることは確かである。上岡のような高い教養の持ち主が制約なしに暴れて目立つことは、お歴々にとってはコントロールできないし、視聴者がどう影響されるか分からない。昭和から平成に変わった後に政権交代が起きたが、ニュースステーション(これも生放送)司会の久米宏も目立ち過ぎて槍玉に上がった。鶴瓶のような場を和ませるタイプを上岡と同じ場所に出演させ、上岡の持ち味である毒が徐々に薬に、いや何でも無い粉に変わっていき、最後は自ら去っていったのではないだろうか?

 

 この鶴瓶特有の解毒作用を知ったテレビ制作陣が、毒まみれの陰謀家である岩倉具視GHQにとって毒舌を吐きまくった吉田茂に当てたのではないだろうか? と考えられた。

 

 しかし現代は昔と違い問題だらけである。悪化する経済や地震台風による被害、錆びれる工場地帯や地方のシャッター街、非婚少子化、小粒となった政治家たちに加え最近の疫病騒ぎ。これらに必要な薬は粉には無理だ。もちろん毒そのものは良くないが、健康時に服用してはならず、病気や怪我の時に服用すべき薬こそ現代は求めており、それが例えば岩倉具視吉田茂だったりするのに、まだ笑福亭鶴瓶を使ったりするからそのセンスが良くないのである。まだ薬箱にしまったままにしておきたいのか? それだけ現代をまだ問題視していないのか? 自分たちの立場の維持にこだわっているのか?

 

【エピローグ】

 

 高い教養は本来非常に役立つものだが、現代それはクイズ番組や会話の中だけにおさめられ、問題解決の際は決められたマニュアル通りの方法のみ求められている。誰も知らない方法で成果を上げるとすぐに公開を求められ誰でもできるようにしようとする。しかし、実際の現場は通り一遍のマニュアルで何でも解決するものではなく、解決意欲がパフォーマンスではなく本当にある者が積極的に情報をインプットし、必死で考え、ぶっつけ本番さながら踏み出すところに真実がある。その良き先例の1つが上岡龍太郎である。笑福亭鶴瓶には岩倉や吉田のことをよく知って考えた上で演じる姿勢に甚だしく欠け、オーダーを受けること自体が間違っているのだが、たぶん何もかも承知の上で引き受けているから腹が立つ。確信犯で封印しているのだ。

 

 今度の時代がもし良くなっていく場合、おそらく今までのような東北的な方角は関係ない。鞍馬寺や越前、寛永寺などの話はアメリカで終わった。それは封印していたはずの状態に気付き、その状態を選択することによって変わると思う。どんな状態か? 現代人が封印していた見たくもない鼻につく高い教養、臆病な自分が恥ずかしくなるほどの勇気、和ませることが決して最優先ではない危なっかしい感覚、いつまでも封印していれば、「失われた〇年」は100年にもなるだろう。