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昭和から平成への老衰、令和はシーラカンスになっていくのか

池上彰氏の番組によると、平成の30年間とは大きな事件や事故が起きては再発防止のために法律をつくる繰り返しだった。これは昭和の63年間とは異なる。

 

山本七平氏は昭和を15年周期で解説し、それぞれ“青年”、“壮年”、“老年”と分類していた。このブログでも紹介し、最後の老年をどう見るかについては否定的意見もあるが、今になって振り返れば、池上彰氏の見立てに沿って、病気や怪我で全身治療中の姿があてはまっている。

昭和の15年周期説 - 賢者のつもり

1915年から1930年までが「大正デモクラシーの時代」

1930年から1945年までが「軍国主義の時代」

1945年から1960年までが「戦後民主主義の時代」

1960年から1975年までが「高度成長の時代」

1975年から1990年までが「低成長の時代」

 

 さて、1990年から2020年までの平成30年間に、年老いた身体で無理をしては大事件や大事故に対症療法で対応してきた日本だが(各事件事故は平成事件事故で検索)、令和になっても同じなのだろうか?

 

 前回までの話の続きで、五段活用の仮定形「え」に着目して、例えば「もし少子化がなくなった未来の日本はどうなっているか?」と、大脳新皮質を活発にしてみよう。同じく「もし日韓問題も尖閣問題もなくなっていると」「もし財政問題が解決して老後が安心できると」など。

 

 実際、ある地域では多産化に成功していたり、ある国々は仲良くやっていたりという例があり、絶対に不可能ではない。妨げているのは五段活用の命令形「お」の中にある間違った命令や、未然形「あ」の中にある消極性や禁止事項だったりする。

 

 それらを真摯に取り除いて、仮定形「え」をさらに実現可能な計画に組み立て、連用形「い」で協力しあい、終止形「う」を実現し、新しい命令形「お」の組織につくりかえれば良いのである。

 

 現状は息絶え絶えでも旧来の「お」の継続にこだわって、事件や事故のたびに「あ」で対処するのみ。お年寄りが外へ出て怪我をしたから外へ出るなというのは極論だが、楽しみが減って息苦しさが増す状況は同じである。

 

  大戦後、上陸したマッカーサーが強引に公職追放を行って旧来の老害を一掃した直後から、有能な若手が次々と台頭して日本は短期間で息を吹き返した。白州次郎や池田隼人、三島由紀夫、伊深大、松下幸之助など、それなりの人材が輩出したのは「お」を切り替えようとしたからである。

 

  しかし現代は、医療技術の進歩もあって多数の老害が健在で、心配症なのは悪くはないが、呆けた頭でまだ新企画「え」を行おうとする。だから若手の「え」の企画力がある者は老害寄りの取り巻きから邪魔者扱いされて排除され、今や世界最悪の消極的職場環境と呼ばれるまでに至った。

 

  大脳新皮質「え」がない、意識「い」も低い、「お」中心の、となると、イメージされる生き物は深海魚である。過酷な深海という環境に適応すべく、目は衰え、口はがめついまでに大きく、歯は鋭く、全身は奇怪な形で・・、ブラック企業も同様に奇怪な深海魚にそっくりである。

 

  平成30年間の老衰のまま継続するなら、深海の古代魚シーラカンスのような生きた化石になっていくのだろう。

 

 

 

 

 

新五段活用案と信長、秀吉、家康

 前回の総論の後、今回から各論に入る。詳細はメインサイト「5素サイクル」のブログに書く予定で、ここサブサイトではコラム的に好き勝手なことを書いていきたい。

 

 で、選んだ題材は人気の戦国時代。なんと、五段活用の「え」仮定形が織田信長、「い」連用形が豊臣秀吉、「う」終止連体形が徳川家康になる。

 

 まずは室町時代末期の日本中が大混乱を極めた戦国時代から、いかに安定した江戸時代に変わっていったのか? 誰しも一度は聞いたことがあるフレーズ、「織田がつき、羽柴がこねし天下餅、うまうま食うは徳川」に沿えば、織田信長天下布武を掲げて平らげていくも本能寺の変により道半ばで倒れ、家臣の羽柴秀吉が天下統一事業を引き継いだ。しかし秀吉の死後は後継の秀頼が若過ぎて安定せず、徳川家康江戸幕府を開いて完成させた。

 

 次にこれを五段活用で言い換える。戦国時代の尾張守護代織田信秀の嫡男に生まれた吉法師は、若い頃から野駆けや水練、相撲、時にはウツケと呼ばれるほどの奇行をしつつ、眼力のある人には「ただ者ではない」と恐れられたりしていた。いったい若い信長が本当は何をしていたのか? 現代でも高層マンションのかなり上に住んで育った子供は地面の感触や草木、虫などに一切触れずにいるので知能面で問題が多いと言われる。その逆なのだ。信長はいろいろジカに試しながら大脳新皮質を賢くしていった。仮定形「え」のように、こうすればああなる、そうすればこうなる、といった基本プログラムを作っていったのだ。

 

 これが活きた集大成が「桶狭間の戦い」。ウツケと信じて尾張に乗り込んだ今川義元を自国内の危険地帯である狭間に誘い込み、大雨という悪天候に乗じて短時間で接近し、見事に次期将軍候補と呼ばれた敵の首をとって勝利した。ここまではE1(えのレベル1)である。

 

 ただその後の信長は一切バクチのような合戦には打って出ず、大軍で包囲して勝つ安定的な方向を徹底している。それでも新たな問題は次々と出てくる。国内に上陸してきた南蛮人や宣教師、鉄砲、仏教勢力の一揆も侮りがたい。旧くなった室町幕府をどうするか。ここで信長はE2に進み、仮定形(~すればどうなるか?)をしきりに考えていく。そして方面軍を編成して勝家を北陸に、一益を関東に、秀吉を山陽に、などと派遣したり(四国は長秀、畿内は光秀、東海は家康)、茶器に高い価値をつけたり、天守閣をもつ城を築いたり、と“模索”していく。そんな中、実際的なE3に進化した成功例が鉄砲戦術による長篠での勝利であり、失敗例が隙を突かれた本能寺の変ということになる。

 

 連用形は秀吉。彼は幼い頃からまさに戦国の犠牲と言え、実父の弥右衛門を合戦で亡くし、養父の竹阿弥と喧嘩して家出し、職を転々としつつ放浪し、時には蜂須賀党に属したりした。これらがI1(アイワン)。前回I2はインスピレーションと言ったが、織田家仕官後に太閤記でも有名な墨俣一夜城や金ケ崎撤退戦など様々なアイデアで昇進していく。

 

 そしてI3とは、アイデアが大衆ウケするイベント主催者としての秀吉となる。醍醐の花見や北野の茶会、辞世の“なにわの夢も、夢のまた夢”も同様。

 

 最後に終止形の家康。三河松平氏の出で幼少期は他国での人質生活、次に今川軍の部隊、次に織田軍の部隊、と与えられた職務を全うするだけの前半生だった。これがU1。次に関東全土を与えられて武門以外にも灌漑や交通など町づくり全体を全うするU2。最後は周囲に力ある大名がいなくなって自身が日本一国を与えられた形になって幕府を開くU3へと進む。U3になると、命令形の組織O3を徹底して、3代目の家光になって武家諸法渡を制定して完成する。

 

 O3はやがて、制度疲労を起こしA(未然形)となれば、従わない、拒否する、と群雄割拠や雄藩連合などへと続く。

 

 現代はどうなのか? 米ソ東西冷戦崩壊直後は、押さえがなくなったからか中東でアルカイダイスラム国が暴れたりし、東西対立が米中対立に変わりつつある今は日韓関係の摩擦が大きくなってきた。

 

状態レベルの五段活用式記述法(試案)

 新しいパラダイムがあると、従来は難しかったことが易しくなったり、従来は起こりがちだった悪いことが起こりにくくなる。

 

 方向性をそんな所に置きつつ、新パラダイムのベースは日本語の五段活用の完璧性に依拠し決して突飛なものにはいかないよう注意する。

 

 未然(あ)、連用(い)、終止連体(う)、仮定(え)、命令(お)。これらが人間の各部位に相当するのだが、それは後述するとして、まずは未然形から始めよう。

 

 「A0」とは、未然形がゼロなのでイコール然。蓋然的という言葉はある。1つ度数を上げた「A1」になると、「動かない」「見ない」などの初動的な動詞の未然形であり、「A2」だと、「戦わない」「考えない」などの高等な動詞の未然形である。そして「A3」になると、「絶対に戦わず平和を訴える」や「絶対に疑わず信じぬく」などにレベルが上がる。A0からA3へ上がるごとに自我が強くなっていく。

 

 次に「E0」は、仮定形がゼロなので“もし~れば”がない。「E1」になると、入口の高さが低ければかがんで入るとか、眩しければ目を細めるのような初歩的な仮定形で制御する。関与するのは大脳新皮質の部分である。「E2」だと、“もし~になればどうしよう?”というように心配したり迷う。迷うことは良くないことと思うかもしれないが、一歩成長しレベルが上がった証拠である。そして「E3」になると、“もし~になれば、~だからこうする”というようにもう一段上がった現時点で出来得る裏付けのある制御を行う。

 

 同様な方法で「I0」アイのゼロは意識なし。「I1」はいろいろ直感する。見て思ったり、動いて感じたりする。「I2」は直感ではなく霊感、インスピレーションを閃く。ただしくだらないものも多い。「I3」は素晴らしいアイデア、つまり直感と霊感の一致。

 

 4つめの「U0」は動詞ゼロ。「U1」は“持つ”、“食べる”等の初歩的な動詞。身体の各器官が相当する。「U2」は“治める”、“まとめる”等の高等な動詞。そして「U3」は、良く治める、イコール具体的に暮らしが良かったりする。U3の政治家とは、竈(かまど)の煙が少ないことからしばらく徴税を見合わせた仁徳天皇を思い出す。現代はどうだろう。

 

 こうして終止形が落ち着くと命令形になる。まず「O0」は命令がない。誰も命令されない。次に「O1」は“あれをして”のように簡易な頼み事をする。そして「O2」は“あれをいつまでにしろ”というように少しきつめになる。最後に「O3」になると、“毎日あれを何回しろ”というようにもっと強くなる。こうなると組織である。宗教組織や法人組織。あれとは対象である。

 

 組織の下層では、命令通りにする人もいれば、A1のように追いつかない人もおり、さらにA2のように自主的に従わない人もいれば、A3のように反撃する人もいる。そしてE2やE3のように大脳新皮質で反組織に向かう人もいる。

 

 アルファベットと数字の組み合わせで多少は使えるようになるのではと思うが、まだ出荷できるものではない。これらをサイバネティックスモデルで説明するスライドはメインサイトで公開予定。

 

 モデルなしで平易に書いたこの記事で読者が何か閃くのは大いに結構である。

 

自制心と自我の二面性

  日本語の五段活用の1つ、未然形と自我との関係について。

 

  例えば「する」という動詞を主我で行うなら、逆の「しない」は客我である。

 

  また、「考える」という動詞を客我で行うなら、逆の「考えない」は主我のままである。

 

  このように、動詞の終止形と未然形とは自我が表と裏の関係になる。

 

  ここで自制心に話題を移すと、行ってはいけないことを徹底する場合は自我に表と裏とがあることに注意しなければならない。

 

  自制心がない人は、主我と客我、本音と建前との区別ができていないことである。

 

参考

https://twincybersystem.wordpress.com/

メインサイト

 

残る手段はパラダイム転換のみと思うのだが

 韓国は消えてなくなるのか?  一連の記事からこのような推察が現実味を帯びてきた。日米への裏切り、経済の衰退、側近のスキャンダル、反文デモ・・。そして北朝鮮との統一はあるのか、ないのか。

 

  そもそもなぜ左派政権ができたのか? これは西側に居ても国際金融や多国籍企業に食い物にされるだけという現実を見たからでもある。かといって対立軸の向こう側にいる中露北が良いのか? 彼らの共通点の中には反対派を殺すことを全く厭わないことも挙げられる。西側諸国にはさすがにこれはない。

 

  つまり、反対派への国家による殺害まではないものの、多国籍企業による貧富の格差が目立つ西側諸国と、そこまで西側方式に則らないものの平気で粛清する中露北諸国とがあり、韓国はいま徐々に後者へ接近している。

 

  結論を言えばどちらにも問題があって解決困難な状況にある以上、最もベストな答えはパラダイム転換になるのではないか? パラダイムという言葉はトーマス・クーンのものが有名だが、くだけて言えば、考え方の大系全体の根本的な大転換である。

 

  続きは後日。

 

「いだてん」は面白すぎるが、良いものを良いと言わない昨今

  先ほど録画していた大河ドラマいだてんの最新回「トップオブザワールド」を視た。前畑秀子の女子初のメダル(銀)獲得からスタート。え、これはこれでクライマックスに持ってくるべきでは?と、神回と絶賛された人見絹枝の話が頭をよぎる。

 

  すると、続いて次々と日本人選手のメダルラッシュ。圧巻は背泳ぎの金銀銅独占! 結局水泳6種目中5種目の金メダルを日本がとった。ロスオリンピックってこんなに凄かったのか、と驚くとともに、これテレビ見ない人はずっと知らないままなんだろうなと思う、というか哀れむ。

 

  さらに今回の山場はメダルとは全く別のところにあった。エキシビションでの日本泳法の披露、帰国の際の日系人たちの感謝の涙、いや、有色人種みんなが喜んでいた。白人絶対優位だった時代が徐々に崩れていく変化がここにも見られ、後の第二次世界大戦とアジアやアフリカ各国の独立につながっていく。

 

  面白いのになぜ視聴率が低いのかとよく言われるが、面白すぎるから視聴率が低いのだ。世間の各種データを調べながらほどほどに面白いドラマを作っていれば視聴者は魚がミミズを見た時のように釣り針に食いつく。しかしこのドラマは扱う素材が良すぎてまるで極上ケーキだから、釣糸を垂れても釣りにはならない。第二回東京五輪が間近だからと大河のテーマを安易に決めたものの、レジェンドの嘉納治五郎を軸に全てが現実離れしたことばかりが揃ってしまった。

 

  深層心理学的に人の出会いは無意識が関わっているらしく、読みたかった本を書店や古書店で見つけるのと同様、現代人が無意識的に見たかった話をドラマにすれば視聴率は上がる。YouTubeの視聴回数も上がる。

 

  だから視聴率が悪いのは作品のつくりが原因とは言い切れない。しかし経済の仕組み的には低視聴率は悪としなければならず、たとえ一部の視聴者が面白いと言ってもたいして取り上げない。もっと言い切ると、良いものを良いとは言わない。多く売れたら良い、売れなかったら悪い。

 

  ただし、その時は気付かずとも、時が変わると本当に良いものは評価される時が来る。今再評価されているのは日本の世界規模の素材技術やインフラだ。これも昨年秋からの日韓摩擦の拡大とともに、韓国の素材技術のあまりの低さやインフラの遅れがクローズアップされてから初めて多くの人々の知るところとなった。

 

哲学者を個々別々に見ず横断していく

「家族、市場、国家」の3段階は、ヘーゲルが唱えた分かりすい進化の1つだが、3段階目の国家の時、市場よりも優位なのは理性が関与するからだ。この理性は時代とともに優れたものになっていくと考えた。

 

 ヘーゲルの孫弟子のマルクスは、それが共産主義だとしたが、20世紀後半になってその説はソ連の崩壊とともに破綻した。

 

 一方、西側陣営が依拠するヒュームの哲学は、ヒュームからカント、ヘーゲルへの道を辿らない。すなわち「なんでも複合観念、物自体は分からず二律背反、正反合の弁証法」という道ではなく、なんでも複合観念だから、より良い複合観念を目指して競争経済を重視し、議会制民主主義を堅持する。

 

 中国やロシア、北朝鮮など独裁に近い政治形態がまだ続いているのは、ヒューム哲学ではなくヘーゲル哲学の政治だからと言える。

 

 かといってヒューム哲学の方が良いかというとそうでもなく、20世紀後半に猛威を振るったハイエク新自由主義は、完璧な計画などあり得ないからとヘーゲルや計画経済を退け、自制的秩序なる言葉のもと、更なる規制撤廃や緩和、競争の激化を唱導、結果は多国籍大企業だけが恩恵に預かり、多数の非正規雇用者を生み出したのは周知の通り。それでも代替の哲学がないからと安倍政権の基本ベースはいまだに新自由主義のままである。

 

さて、ここからが本題だが、ヘーゲルの3段階目に関与する理性が、ヒュームの複合観念と同じものと考えるならば、複合観念は認識過程だけの話ではなく行動の上でも秩序だった動きや技術などに大きく関わってくる。

 

そして、一人前の技術者の複合観念を使って因果関係を説明する時は理解しやすく自分も一人前になりやすくなる一方、半人前の技術者の未完成な複合観念を使って因果関係を説明されても理解しづらく、自分は半人前なままである。

 

このように、哲学を個々別々に扱うのではなく、勇気をもって複数の説を横断していくと新しい理解と世界が広がっていく。

 

行動の時の観念と、認識時の観念との同一性をメインサイト「5素サイクル」

https://twincybersystem.wordpress.com/

では「Eの法則」と名付け、一人前な方をゼンニネンズ、半人前な方をザエンニネンザと分類した。新しい哲学や新しい概念を使えば、技術教育上の改善や新たな富を生み出し、上記のような政治的な東西対立の解消にも役立つと考えている。