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新五段活用案と信長、秀吉、家康

 前回の総論の後、今回から各論に入る。詳細はメインサイト「5素サイクル」のブログに書く予定で、ここサブサイトではコラム的に好き勝手なことを書いていきたい。

 

 で、選んだ題材は人気の戦国時代。なんと、五段活用の「え」仮定形が織田信長、「い」連用形が豊臣秀吉、「う」終止連体形が徳川家康になる。

 

 まずは室町時代末期の日本中が大混乱を極めた戦国時代から、いかに安定した江戸時代に変わっていったのか? 誰しも一度は聞いたことがあるフレーズ、「織田がつき、羽柴がこねし天下餅、うまうま食うは徳川」に沿えば、織田信長天下布武を掲げて平らげていくも本能寺の変により道半ばで倒れ、家臣の羽柴秀吉が天下統一事業を引き継いだ。しかし秀吉の死後は後継の秀頼が若過ぎて安定せず、徳川家康江戸幕府を開いて完成させた。

 

 次にこれを五段活用で言い換える。戦国時代の尾張守護代織田信秀の嫡男に生まれた吉法師は、若い頃から野駆けや水練、相撲、時にはウツケと呼ばれるほどの奇行をしつつ、眼力のある人には「ただ者ではない」と恐れられたりしていた。いったい若い信長が本当は何をしていたのか? 現代でも高層マンションのかなり上に住んで育った子供は地面の感触や草木、虫などに一切触れずにいるので知能面で問題が多いと言われる。その逆なのだ。信長はいろいろジカに試しながら大脳新皮質を賢くしていった。仮定形「え」のように、こうすればああなる、そうすればこうなる、といった基本プログラムを作っていったのだ。

 

 これが活きた集大成が「桶狭間の戦い」。ウツケと信じて尾張に乗り込んだ今川義元を自国内の危険地帯である狭間に誘い込み、大雨という悪天候に乗じて短時間で接近し、見事に次期将軍候補と呼ばれた敵の首をとって勝利した。ここまではE1(えのレベル1)である。

 

 ただその後の信長は一切バクチのような合戦には打って出ず、大軍で包囲して勝つ安定的な方向を徹底している。それでも新たな問題は次々と出てくる。国内に上陸してきた南蛮人や宣教師、鉄砲、仏教勢力の一揆も侮りがたい。旧くなった室町幕府をどうするか。ここで信長はE2に進み、仮定形(~すればどうなるか?)をしきりに考えていく。そして方面軍を編成して勝家を北陸に、一益を関東に、秀吉を山陽に、などと派遣したり(四国は長秀、畿内は光秀、東海は家康)、茶器に高い価値をつけたり、天守閣をもつ城を築いたり、と“模索”していく。そんな中、実際的なE3に進化した成功例が鉄砲戦術による長篠での勝利であり、失敗例が隙を突かれた本能寺の変ということになる。

 

 連用形は秀吉。彼は幼い頃からまさに戦国の犠牲と言え、実父の弥右衛門を合戦で亡くし、養父の竹阿弥と喧嘩して家出し、職を転々としつつ放浪し、時には蜂須賀党に属したりした。これらがI1(アイワン)。前回I2はインスピレーションと言ったが、織田家仕官後に太閤記でも有名な墨俣一夜城や金ケ崎撤退戦など様々なアイデアで昇進していく。

 

 そしてI3とは、アイデアが大衆ウケするイベント主催者としての秀吉となる。醍醐の花見や北野の茶会、辞世の“なにわの夢も、夢のまた夢”も同様。

 

 最後に終止形の家康。三河松平氏の出で幼少期は他国での人質生活、次に今川軍の部隊、次に織田軍の部隊、と与えられた職務を全うするだけの前半生だった。これがU1。次に関東全土を与えられて武門以外にも灌漑や交通など町づくり全体を全うするU2。最後は周囲に力ある大名がいなくなって自身が日本一国を与えられた形になって幕府を開くU3へと進む。U3になると、命令形の組織O3を徹底して、3代目の家光になって武家諸法渡を制定して完成する。

 

 O3はやがて、制度疲労を起こしA(未然形)となれば、従わない、拒否する、と群雄割拠や雄藩連合などへと続く。

 

 現代はどうなのか? 米ソ東西冷戦崩壊直後は、押さえがなくなったからか中東でアルカイダイスラム国が暴れたりし、東西対立が米中対立に変わりつつある今は日韓関係の摩擦が大きくなってきた。