カントの有名な二律背反も、前節で言うところの補ヒュームなのか?
「世界は有限である/無限である」「世界は必然である/偶然である」「神はいる/いない」などだが、確かに片方の観念連合と同時に生じる分断の話ではある。
しかしカントは二律背反という矛盾は実在的ではないという点で退けた。
その後ヘーゲルはカントの二律背反の解決法を評価して弁証法哲学を打ち立てて大哲学者と呼ばれた。すなわち正-反-合を繰り返して世界に理性が実現していくとした。
このヘーゲル哲学を経済学に言い換えたのがマルクスで、共産主義が実現するとしたが、結局米ソ冷戦は資本主義側が勝った。今もリベラルや左翼は政治におり、彼らの源流は上記のように遡る。
ただヒュームの本流は左ではなく、後輩スミスを経て右に展開している。観念連合のために競争社会を肯定するからだ。
最近の新自由主義だと、競争社会の中で観念連合が繰り返されてサービスが良くなるから、競争に良くない規制は撤廃せよという。
その結果として起きる様々な問題、格差や環境、過労死など、これらを総合的に見る場合に補ヒュームがキーワードになると思うのだが、左的な視点との違いは何かとなると、冒頭の流れを把握しておかなければならない。
つまり、二律背反や正と反といえば問題だが、連合と分断であれば実際的な話である。