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人は空(そら)に憧れるが空(くう)にも憧れる

 先月、写経を始めたいと思って書店に行くと、数ある写経関連の多くが「般若心経」で、と言うより般若心経ばかりだった。仏教イコール般若心経なのか?

 

 ちなみに写経のメリットとして自分なりに挙げられるのは次の3点。

・なぞることで心が落ち着く。

・なぞることで字がきれいになる。

・なぞることで時間をつぶせる。くだらないことに進まなくなる。

 

 しかし、仏教といえば膨大な経典があるはずだが、なぜに般若心経しかないのか? 各メーカーともつくるからには売れなければならず、そうなると一番人気の般若心経ということになるのだろう。

 

 ただ、写経をやりたい側からすれば般若心経しかない状況は非常につまらなく、最初はそれで良いものの、もっと他のお経にも取り組みたい気持ちに応えてほしい。そこで通販で観音経を購入した。1400円。筆ぺんも「筆ごこち」やぺんてるの慶弔サインペンなど良いものが出ている。

 

 本題に入ろう。お経の意味はお寺のお坊さんに問わずともインターネットで簡単に調べることができる。観音経も決して難しくはなく、観音様を念じればどんな苦境も救われる、といった意味に尽きる。ただ、そういったお経に比べれば、やはり般若心経は意味的に数段上で人気が高いのも納得できる。

 

 これは仏陀が悟った真実を一番弟子のサーリプッタに語る場面を映したお経である。その真実こそ有名な「色即是空」「空即是色」であり、この意味もネットを調べれば各宗派によって若干の違いは認められるものの非常に詳しく説明されている。

 

 それにしても、仏教はなぜ「空(くう)」をそんなに重要視するのか? 色を(しき)と読んで、無色透明な空(くう)に「むなしい」意味まで加える。世界で初めて0(ゼロ)を発見したのはインド人だが、0は空と同義でもある。

 

 インド人の特異な抽象化する思考法が中国に伝わって三蔵法師らの努力で漢字のお経になり、中国の仏教が暴君の皇帝や邪教によって衰退する(最終的には共産党によって寺院ごとなくなるが)直前に、中国語とインド語に長けた空海が訪ねて日本に持ち帰られ、日本で真言宗として発展し、やがて親鸞道元栄西、一遍、日蓮など様々な宗派が出てくるようになる。

 

 それでも般若心経の位置づけは高いままで、空(くう)は最重要視され、僧侶たちは世俗から隔絶した寺院でお経を唱えたり、修行に励んだりし、時に人々の冠婚葬祭に関わる。無宗教な人でも生死に関することは儀式でケジメをつけざるを得ず、そこには世俗的な祭司よりもプロの祭司に任せた方が良いことは認めざるを得ない。

 

 儀式に招いた僧侶は一般人よりも高い位置にある。それは政治的な高さとはまったく別次元の高さである。物理的な高さといえば空だが、僧侶の場合は空と書いて空(くう)と読む高さに近い意味で高位であり、一般人は空から遠い意味で低い。

 

 空(そら)もよく憧れられる。鳥が自由に飛んでいるのを見て自分も羽ばたける翼が欲しくなる。しかし空(くう)も同様に憧れる。これは仏教に限らず、例えば剣豪・宮本武蔵の著書「五輪書」でも、最後に空の巻があり、戦い方を説く火の巻や他流を比べる風の巻などよりも最重要視し、簡単に言えば空のように自在で最強の境地を説いている。

 

 武蔵の空と仏教の空とは全くの別物と見る向きが多いが、同じ空という漢字を使っている以上、関連性は当然ある。空気の空も同様、例えて言えば気体であり、固体や液体とも違う。本ブログでも時々触れている通り、人間の状態は冷静に思考する冷却化と、熱血的に動く加熱の中にいる。

 

 様々な看板や情報が風のように耳目に入り、それらを水のように混ぜ合わせて思考し、認識が固まると固体になるが、時に頑固でもあり、動きの中で固体は液体化し、加熱し、沸騰し、気体となる。自由な状態への憧れは、西洋風に言えば自己実現でもある。

 

 ただ仏教は、空と書いて「空しい」意味も含めている。いくら境地に達しても空しい? 悟ったはずでも空しい? 優れた書籍もお経も空しい? 偉人も空しい? 空しくないものはないのか?と言えばある。生活の中の基本的なことは決してはずしてはならない。歯磨きをさぼれば虫歯になる。

 

 生活の基本だけというのも味気なく、そこにもっと色をつけたりしたくなるし、興味は時が経つと飽きたり別の興味に移るものだが、そう考えればどの色付けも空しい。私のブログもメインサイトも空である。色即是空

 

 そして空即是色。捨て去るほどでもないが、かといっていつまでも持つものでもない。今はそんな心境である。