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スポーツ協会会長の問題とニーチェ哲学の限界点

  今年になって、誰もがご存知の通りスポーツの各界で会長の問題が噴出している。

 

  1つめは、大学のアメリカンフットボールの試合で日大幹部でもある内田監督が選手に反則行為を強制して相手選手にケガを負わせたものの、日本大学トップの田中理事長がすぐには出てこず、やがて絶対権力者ぶりが世間の知るところとなった。

 

  2つめは、日本ボクシング連盟の山根会長が長年アマチュアボクシング界に君臨し、奈良判定と呼ばれる不正な試合や、元五輪金メダリストの村田諒太選手への圧力などが挙げられ、更にインタビューのたびに滅茶苦茶なコメントを発して世間が呆れるところとなった。

 

  3つめは体操の世界を長年牛耳ってきた塚原会長夫妻が、これも女子体操選手に対し、五輪に出られなくなるなどと圧力をかけてコーチを辞めさせた問題で、最初は選手が全部嘘を言っていると全面否定したものの、世間が騒いだためか一部否定に変わり、最初の発言は何だったのかとなっている。

 

  共通点は、3つとも「会長は自分がいなくなったら協会は何もできなくなると思っている」、「若い選手が勇気を出して記者会見に臨んで立ち向かった」、「スポーツの世界である。他のスポーツも似たようなことはあると思われている」。

 

  これらのことから、様々な評論が出てきているが、私はスポーツということから哲学者ニーチェを思い出した。「ニーチェ 塚原夫妻」で検索してもヒットしないのでこの視点からの分析はまだないようだ。

 

  19世紀ドイツの牧師の家に生まれたニーチェは、現代に多大な影響を与えたと言われている。多くの名言の中でも「神は死んだ」は最も有名な1つであり、解説するまでもなく宗教に関心が低下した現代人の実感するところである。そして神に代わりニーチェは「超人」を据えた。ギリシャ彫刻の肉体美がルネサンス期に再評価された通り、現代人も筋肉隆々として記録を更新する若者に憧れ、褒めあげている。最近では野球の大谷翔平が最たるところだ。

 

  ニーチェが存命中ここまで予見していたかは不明だが20世紀になって、特にスポーツで超人は目立った。マラソンやサッカー、テニス、陸上、相撲。

 

  しかし、ニーチェは神に代わる超人の登場までは思考できても、その後のことまで思考を延長できていたのかどうか。

 

  スポーツの各協会の会長、特に長年君臨した絶対権力者の会長は、選手よりも強く、協会幹部をはじめスポーツ関係者は全員がひれ伏し、反抗できず、選手ですら生殺与奪を握られている。

 

  こうした状況に反旗を翻す手段として日大宮本選手は個人的に記者会見を開いたわけだが、内田監督までは及んでも田中理事長は依然君臨し続けており、たとえ日大ブランドが低下し、名門アメフト部がほぼ崩壊しても絶対安泰を維持している。

 

  つまり、表面的には超人の時代ではあるものの、実は超人が超人であり続けることは非常に厳しく、短期で終わる者も多いし、その割りには協会会長の方がまさに「神」と呼んでいい絶対的権力者の位置に居座っているのである。

 

  神は死んでいない。

 

  宗教がその非科学性で廃れ、聖職者に魅力がなくなって後継者不足が深刻化する一方、スポーツの世界は超人の活躍で支えられ、協会会長は「神」となって統治するようになった。しかし会長とて所詮は人間。好き嫌いで人事が決まったり、老化すると余りにもおかしな判断が起きるようになった。それでも協会関係者は神を失っては何もできないのでおとなしく従う。そんな構図だ。

 

  この構図は、スポーツ以外にも芸能はもちろん、政治経済の職場でも散見される。そのような所は当然、かつての宗教と同様に近代的でなく問題が多い。

 

  戦前の日本は天皇を神として軍部が暴走して焼け野原になったと言われるが、戦後の連合軍による政治経済の公職追放を経て若手が台頭し、奇跡の復興を遂げたことから考えると、神は天皇以外にも各公職にたくさんいて問題山積だったのではないか。

 

  そう考えると現代の老害でもある各「神」も追放すべきではあるが、それができない。まずはニーチェ哲学を思い出し、これとてニーチェを崇めるところで止まってはならず、19世紀ならではの限界点を見極めて今後に思考を延ばさなければならない。