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信長の田舎臭さこそ本能寺の遠因

  再来年の大河ドラマ明智光秀に決まって以来、信長役は誰になるのか、本能寺の変をどう描くのか、気になって仕様がなくなっている。

 

  いろいろな関連記事を読んでいくと、やはり最も妥当な考え方としては光秀の背後には誰も黒幕はいなかったようである。朝廷だという証拠も秀吉や家康だという証拠もなく、面白いから黒幕説をこじつけているものが多い。

 

  本能寺襲撃後に光秀が書いた手紙の中に「信長父子のような悪逆非道の者」という言葉があることから、光秀個人の正義というのが動機だといい、私もそう思う。

 

  確か甲斐の武田氏を滅ぼした時の祝賀会で、光秀が「我らが骨を折った甲斐がありました」と言った途端に信長が激怒して、「お前がいつ骨を折った!」と立ち上がり、光秀の頭を欄干に何度も打ち付けたという有名なエピソードがあった。通釈では、光秀に何の悪気もなくただ信長が自己中心的なので激怒した、と言われている。

 

  しかし、これほど激怒したということは、周囲にはわからない、信長と光秀にしかわからない、光秀から信長への痛烈な批判が込められていたのではなかろうか?  あえて現代企業社会に例えて分かりやすくしてみると、次のようになる。

 

  父織田信秀社長の息子とはいえ元はチンピラだった信長は、旧習にうるさい林通勝重役や佐久間信盛常務らよりも若手の抜擢や中途採用で一大勢力をつくり、商業地域ゆえに隣国の三河よりも弱兵と言われた尾張兵を強化するべく鉄砲を大量に作らせ、馬防柵で補強し、戦に勝っていった。そこに光秀をはじめ多くの知恵や工夫が介在したことは事実だが、信長は偉くなっていくとともに次第に中小企業時代のように直接誉めなくなってきていた。

 

  おそらく、光秀の「我らが骨を折った甲斐があった」という言葉の前に、(あなたは現場から遠ざかってあまりよく知らないでしょうからあえて言いますけれども)、そして、(我々はあなたと違って現場をよく知っておりますが)、(尾張出身の割りには不相応な高さまで上がったようですが)、(名門土岐氏の出で智略優秀な私はまだ一武将に過ぎませんが)等という心の声の前置きがあり、信長にだけはそれが大きく胸に聞こえてきたのである。

 

  武田が滅んで、これからもあなたはますます偉くなるでしょう。そしてますます現場が見えなくなるでしょう、と。

 

  しかし、信長からしてみれば失礼にもほどがあり、こうして甲斐まで自ら出向いていることが何よりの証拠で、決して現場を知らないわけではない、そんな事を言う光秀こそ何様のつもりだ、名門の出で京の因習に詳しいなら現場知らずの公家のような立場になりたいのか!

 

  大企業化していく中で、光秀は信長に大企業社長の役割が向いているとはどうしても思えなくなってきた。この見方を裏付ける、エピソードをもう1つ紹介する。

 

  京都のとある一流料理人に信長が料理を作らせて食べたところ、「こんな水くさいものが食べられるか!」と激怒して斬ろうとしたため、「もう一度だけチャンスをください」と言って再度作って出したところ、合格点をもらえたという。後で洩れた話によると、尾張出身の信長の舌に合わせて田舎風の濃い味付けにしたのだとか。

 

  光秀的にはそれでは日本一の大企業の感覚とは言えない。田舎色に国中が染まってしまう。そして6月2日、無防備なまま信長と信忠父子が京に滞在していることから、意を決して襲撃した。と、思う。