賢者のつもり

主サイト(ツインサイバーシステム)に載せていない異説を中心に紹介します。

西部邁とは何だったのか?を改めて考えさせられた

 本日夕方、西部邁氏が多摩川で入水自殺したニュースを知った。昨年亡くなった渡部昇一氏は病院死だったから翌月に思想系雑誌の追悼記事で知ったが、西部氏の手法だとネットメディアですぐに全国に伝わる。数分後にはかつての読者や朝ナマの視聴者に伝わることを見越して川に飛び込んだと思う。

 

 要するにパフォーマーであり、主催する雑誌の名前も表現者だった。学生時代の左翼活動も、東大教授を辞めた時の騒動も、テレビで名が売れた時も、大勢のパフォーマンス下手な弟子(佐伯、中野他多数)を前にした時も、そして今回も、パフォーマーに徹していた。

 

 本来の哲学者はパフォーマーではないし、自殺を選ぶ人は非常に少ないと言われる。現在の思潮を正確に捉えることが得意で、そこから高次の哲学を考え言葉を選びながら語り、時代に認められるものだと私は思っている。プラトンからアリストテレス、ヒュームからカント、ヘーゲルニーチェ、皆そうだ。しかし、平成の代表的知識人たる西部氏はそれが全くできてなく、だから日本は20年も閉塞が続いている。

 

 確かに西部氏は哲学思想に詳しい、ただそれは遠い過去の欧米の人ばかりで、現代の世界中の哲学思想との交流も交際もない。だから高次の未来哲学を語れず、ただ本当は語りたかったから、大哲学者のフリをし続けた。そこがパフォーマーなのだ。

 

 混迷を深める現代社会に哲学的高次の明快な回答は確かに必要だが、西部はそれに答えられないでいた。問われる所にいるから語るものの、大哲学者の回答ではなかった。研究者の1人に過ぎない。やがて限界が来た。

 

 栄華を誇った電通やシャープなどの転落から始まる、時代のあまりに急激な変化。

 

 変化への対応に西部自身遅れ、離され、見えなくなり、やがて諦めるべき時が来た。そう見える。

 

 保守の大物というパフォーマンスには成功したが、後世に残る哲学思想は一切ない。